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運命は強者と、選ばれし者にこそ味方する。
その両方を兼ね備えているのなら、尚更だ。
美麗な装飾の高価なベッドで、美しい妻の隣で目覚め、時間にも仕事にも何一つ急かされる事無く、使用人の用意した豪華な朝食を口に運ぶ。
レガリスにひしめく全ての労働者階級、そして中流階級の大半が羨む生活。勤労と倹約など縁の無い、俗に言う“貴族”としての朝を身体の節々で噛み締めていた。
絵に描いた様な、“何一つ悩みの無い朝”。何なら、実際に絵に描いても良いぐらいだ。起きて働いて寝る事に一日を費やしている連中に比べれば、余暇など余りある。
余暇で芸術を楽しんでも良いし、新しい趣味に励んでも良い。
まぁ、自分は浪費が美徳とされている上流階級においても、肥え太ったヤギの様な風体と愚かさを伝統と血筋で着飾っている様な連中とは、一線を画す男であるが。
とは言え、前述した類いも確かに上流階級、貴族である事には間違いなかった。
上流階級に生まれた者達は途中から家系に入った等の例外を除き、殆どが上等教育を受ける。
よって高貴な血筋に生まれた、いずれ家系を継ぐ様な者達は労働階級が想像するより、遥かに厳格な教育と家庭の元に育っているのだ。
そして、教育を終える頃には使用人の様な家事や手仕事ばかりの連中とは根本から違う、人々の上に立つ者として歩んで行く事になる。
道と品格が別れ始めるのは、ここからだ。
広大な土地や、莫大な資産を運用する事で貴族たる我等は溢れ返る程の機会と時間を得る事となる。
この機会と時間を勿論、穏やかに平穏に過ごしても良い。
代々受け継がれてきた貴族としての、“伝統的な”過ごし方を否定するつもりは更々無い。
勿論自分も、その過ごし方が嫌いでは無い。だが、この世界では平穏を通り過ぎて怠惰を極め、周りに品格を褒め称えられるものの当の本人には何一つ品格が残っていない貴族。そんな貴族に見飽きる程出会ってきた。
余裕を持って優雅に過ごすのは嗜みだとしても、度が過ぎた怠惰や平穏は自らを腐らせていく。
腐り切った末に、寝て起きるばかりのヤギの様な生活をしている貴族も居たが、それでも問題ないのだ。
“腐り切る”程に余裕がある貴族は、それでも困る事は無い。
そこまでの余裕があるならば当人の品格など、周りが幾らでも持ち上げてくれる。人格においても、他人を嗜めれば厳格と讃えられ、他人を誉めれば人格者だと感心される。
最早、本人の品格は周りが組み上げてくれるのだ。
許嫁などにも不自由する事は無い。
社交界で探して、気に入った者が居れば調べさせ、本人ではなく本人のお目付け役や家系と“契約”すれば否応なしに結婚する運びとなるのだから。
近年になり、空中都市連邦“バラクシア”に長らく続いた男性至上主義も些かの変化を見せ、ニーデクラから始まった女性参政権運動によりレガリスにおいても、ごく一部の女性に参政権が与えられたのは記憶に新しい。
だがそれも前述した通り、僅か一握りだ。
その上、その“変化が気に入らない”連中は上流階級にも数えきれない程居る。
今でも貴族の連中からすれば、女性が「はい」以外の答えを返すなど、言語道断だと思っている者が大半なのだ。
それが“伝統”として誇らしげに掲げている者も、勿論少なくない。
更に上級かつ横暴な場合になると、実際に会った事が無くとも書類と数字で選ばれ、選ばれた者にはある日、一方的に婚約が言い渡される事さえあるのだ。
言うまでもなく、言い渡された本人は泣いて喜ぶべきだというのが通説である。
まぁこればかりは両者に余程の差があった場合に限るが。
後は継承者及び、万が一が起きた際にも継承出来る様に数人の子孫を作り、子孫の教育を部屋付き家庭教師こと“カヴァネス”に任せ、また元の“伝統的な”生活に戻る。
世継ぎも出来て安泰、今後も褒め称えられる。教育は下の者がやり、更には継承等も責任者が取り計らう。
余りにも政略的な結婚のお陰で、ある偉大な貴族の者は妻の名前を忘れない様にメモしている、なんて逸話まである程だ。
だが、幾ら“伝統的”だとしても自分はそんな着飾ったヤギの様な人生は、趣味では無かった。
我等が上流階級の遥か下で額に汗を流し、手を煤だらけにして働く労働階級。
労働階級の中にも雑用を雇う、“労働貴族”と皮肉られる一握りの上澄みが居る様に、頭脳労働の中流階級にも底と上澄みが、そして上流階級にも“上下”と言う物はある。
そして自分は、趣味も無く寝起きする事に一生を費やす“伝統的な”貴族達を、“下”だと思っていた。
生産的でない事は言うまでもなく、創造的ですら無い。
教育を受け教養を備え、その上で自分の魂を磨き続けてこそ、真の“人の上に立つべき者”になれるのだ。
高潔な血筋と選ばれし才覚を持つ者として、優雅に過ごしながらも怠惰や浪費に腐る事なく、自らを研ぎ澄ませていかなければならない。
現に、老いたヤギの様に過ごしている“腐り切った”貴族達はどれだけ評判が良く、周りが品格を褒め称えられようとも、目の届かない厨房や倉庫では皆が見下していたのだから。
自分が物心付き、上流階級になるべく上等教育を受けている最中、周りから過剰に褒め称えられるも内心、何一つ尊敬されず自分も尊敬出来ない“優雅な”貴族達を見てきた。
自分は、絶対にこんな怠惰な連中の様にはならない。真に敬われる貴族となってやる。
幼いながらにそう心に誓ったものだ。
教育を終え、今まで散々見てきた使用人達が何一つ言い返せない立場となった辺りで、檻から出されたニワトリの様に解き放たれ“自由”を謳歌し始める連中。
意趣返しの如く、他の連中が使用人を過剰に命令するのを尻目に、自分は穏やかに指示を出し敬意を忘れず、丁寧に過ごす。
“方針を定めた後は、部下に投げておけばそれで済む”と皆が直ぐ様投げ捨てた、資産管理や土地運用の状況にもそれとなく目を配り、方針を丁寧に定める。身分の低い部下の話にも、耳を傾ける。
あの時、厳しい事で知られていた教育係の一人が本当に感心した様な顔をしていたのは、忘れられない。
教育を受けていた他の連中が伝統的な貴族として、怠惰に溺れたり肥え太ったりしていると聞き殊更に自分が誇らしくなった。
上等教育で得た知識を腐らせず、子供の頃はまるで興味の無かった蔵書を自主的に読み解き、天文学や幾何学、果ては論理学に至るまで誰に命じられるでもなく自身の向上の為、更なる研鑽を積んだ。
その上で、一人前の“男”として自らの鍛練も欠かさない。
筋骨逞しい真の男達の間で近年流行っている、最新の鍛練器具“ダンベル”と“バーベル”、その派生“ケトルベル”も部下に仕入れさせた。
専門の教師から講習を受け、如何に鍛練器具ことダンベルが最新かつ人体の鍛練に相応しいかを学び、他の人間が感心する中で鍛練を始める。
研鑽と鍛練の為に自ら汗を流そうとする貴族など、確かめるまでもなく稀少だろう。もしかすると、ここまで志と地位の高い男はレガリスには一人だけなのかも知れない。
最新式の鍛練を続けた末に、遂には自分の体重と同じウェイトを持ち上げる事に成功した。何れは、自分以上の重量すら扱う事が出来る様になるだろう。
少なくとも、器具を買えずに狭い部屋の中で腕立て伏せやスクワットを寂しく繰り返して筋肉がどうの、と自慢している“細身の”連中の大半より遥かに逞しい事は言うまでもない。
…………業腹ながら中流階級や労働階級にも時折、自分より太い筋肉を持った力自慢の連中も世の中には居る。
だが、そういう連中は文字を読むのがやっとの頭な上に、鈍重な身体。
それに対し、自分は逞しい筋肉を持っているだけでなく貴族の教養を備え、多少とは言え東方国ペラセロトツカの言語、カラモス語まで話す事が出来る。
煤けた服を着た、シカとヤギの股から生まれた様な太い筋肉自慢と、上等な服を着て蔵書を読み解いている引き締まった筋肉質の男。
どちらが真に“男らしい”かは、今更言うまでもないだろう。
その上、ノブレスオブリージュという訳では無いが自分は各種貿易のみならず国際貿易に至るまで、要人が出席する貿易や総会には憲兵隊長に並ぶ警護総責任者として、凡庸な者には到底耐えられない様な重責を担ってきた。
先祖代々このレガリスを支えてきたディロジウム工業に並ぶ偉大な産業の一つ、奴隷貿易。
その偉大な産業にて国家を支える、誇り高き人々。
その誇り高き人々が、抵抗軍のみならず様々な外敵にその国益と歴史が脅かされようとしている時、万全の警護を成す事によってこの偉大なるレガリスに貢献してきた。
万全かつ鉄壁の警護を成す事により、レガリスの国防に等しいとも言える、レガリスの国益を守ってきたのだ。
国防に比べれば国益など、と憲兵から揶揄する声も少なくないが、幾ら強固な城壁に守られていようと金貨によるパンとオリーブが無ければ、城壁の中で兵士達は飢え死ぬ事となるのだから。
自身の能力を最大限に生かさなければ、とても務まらないこの重責。
数字ばかり自慢する連中が溢れる上流階級の中でも、群を抜いて満ち足りた“男”としての日々に自分は大いに満足していた。
それを証明する訳では無いが数年前、遂に結婚した若く瑞々しい妻は自分の満ち足りた日々に、聖母の如く潤いを与えてくれている。
勿論その気になれば、目ぼしい令嬢を幾らでも妻に出来るのだが社交会で出会った妻に比べれば、どんな令嬢も凡庸な女に思えるだろう。
容姿端麗は勿論ながら中流階級とは思えない程の教養と礼節を備え、何よりも自分の事を立場では無く一人の人間として分かってくれていた。
怠惰に思われている上流階級の現状、実際に怠惰に腐っている連中、そしてその中でも“真の男”は腐る事なく研ぎ澄まされている事。
正しく自分の為に生まれてきた様な女性が、自分が経歴を話す前からそんな話を溢したのだから、大層驚いた事を覚えている。
そこからは、直ぐ様意気投合。此方としても以前、悪い男に騙され危うく結婚させられようになった末、涙ながらに逃げ延びたという“不運”な彼女がとても気に入っていた。
その後、蜂蜜ですら苦く思える様な甘い時間を何度も過ごした後に、部下と家に認めさせる形で結婚。
過去の男のせいか、どうしても煙草だけは無理だと言う彼女だったが、生憎私は喫煙者ではないと伝えると彼女は大いに喜んでいた。
やはり彼女、アマンダはこのニコラウス・オイレンブルクと出会う為に、生を受けたのだ。
上流階級の男ともなれば、本妻が居ようと別の若い女を娼婦代わりに囲う事は珍しくも無いが、自分はそんな気はまるで起きなかった。
中流階級であれだけの美貌と教養を兼ね備えておきながら驚く事に、自分に誂え向きの好色な女性でもあったからだ。
お互いに何一つ不満の無い、生活も人生も満ち足りた日々。
貿易の警護総責任者としても完璧に職務を遂行し、周囲からも尊敬を集める人生。
昼食前に、使用人が届けた自分宛の手紙を開封する。
レガリス奴隷貿易においての、緊急総会。
その警護総責任者として、自分の手腕が必要だと言う連絡だった。
最近は、何故か今更になって抵抗軍が勢いを取り戻し、様々な要人を脅かしているとは聞いていたが…………まさか奴隷貿易組合が緊急総会を開く程とは。
思った以上に面倒な連中だ。穢れた奴隷の血筋なのは、他の誰でもない自分の罪だと言うのに。
まぁ勿論、この誇りある仕事を断る道理は無い。
幾ら抵抗軍達が穢れた劣等種の集まりとは言え、緊急総会に襲撃を掛ければ皆殺しになる事ぐらい分かっている筈だ。
口角が優しく緩む。
警護責任者と言いつつも、実際には警護や歩哨について警備計画を管理するのが主な仕事であり、実際に襲撃に対応する事など殆ど無い。
こう言っては何だが、総指揮官が最前線で剣を振るう様な戦など、間違いなく負け戦と言って良いのだから。
誇りある仕事とは言え、きっと重役達と紅茶や食事を楽しむだけで終わる筈だろう。
そもそも、噂のレイヴンが狙っているのは付け入る隙がある様な警備の場所ばかり。
バラクシア及びレガリスの代表産業の一つ、奴隷貿易組合の緊急総会とも来れば信じられない程に鉄壁の警護が付く。
帝国軍から憲兵及び憲兵隊長も派遣される事を考えれば正直私が指揮せずとも、人数だけでも問題なく押し切れる程の憲兵部隊が集まるのは、確かめるまでもなく明らかだ。
見渡す限り兵士で溢れ返っている様な警護の中で開かれる緊急総会なのだから、末端の歩哨ならまだしも中心に居る者など転びでもしない限り、怪我する方が難しい。
何なら、妻と一緒に都市部を観光しても良いぐらいだ。




