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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
127/294

124.5

目標、ダニール・ヤンコフスキーが搭乗し演説している遊覧飛行船、セオドア・フォークスの後部。






大型のディロジウム駆動機関から供給される動力によって、壮観とさえ言えるプロペラの数々が唸りを上げながら忙しなく回転している。


側面にもプロペラはあるが、やはり姿勢制御や方向転換とは出力の違う、推進力を目的としたプロペラは他とは比べ物にならないサイズを誇っていた。


最新とは言わずともセオドア・フォークスは現代的な遊覧飛行船の一つでもあるので、前部や側面、上部程では無いにしろ、後部にも船室及び通路は備えられている。


最も、この飛行船の設計としては後部には機関員を配置する以上の役目は余り想定されていないらしく、後部の機関部付近ともなると客や遊覧の事は殆ど想定から外され、武骨とさえ言える素っ気ない造りの通路や船室しか備わっていなかったが。


機関員が機関部に張り付いて、満足に駆動機関を稼働させてくれていれば、それで問題ない。


そんな設計者の声が聞こえてきそうな、そんな造りだった。


文句を言う者も居るかも知れない。遊覧飛行船なのだから、と。


納得する者も居るかも知れない。大型機関部部なら、それで良いんだと。


また、感謝する者も居るかも知れない。後部及び尾翼の部分を、素っ気ない造りにして機関員が彷徨く程度にしてくれて有難うと。


俺達は、感謝する者だった。


幾つもの大型プロペラが唸りを上げながら回転している中、静穏駆動機構によって巨大な囁き声を溢し続けるウィスパーが忍び寄り、後部かつ下部のある区画に丁寧な動きで機体を寄せる。


整備ドックにでも入らない限り、まず普段は人が通る事も触れる事も無い、外装に這わせた様な船底近くの簡素な通路。


整備員が通る事だけを想定している事を如実に表すかの様に通路は狭く、一歩間違えば転落する飛行船外部にも関わらずその通路には、管を曲げた様な最低限の欄干しか取り付けられていない。


その簡素な通路の前後、飛行船内部へと繋がる扉は内側から厳重に閉じられており、航行中は滅多に開かない事を通路自体が物語っている。


整備ドックに搬入し、飛行船が完全に駆動を停止した状態で漸く、整備員がハーネスを頼りに行き来する様な、そんな通路だ。


飛行船の船底近く、人に言われて漸く意識が向く様な、寂れてるとさえ言える簡素な通路。


その通路目掛けて後部座席でクロスボウを静かに構え、短い銛の様なボルトを放つ。


少しの鈍い金属音と共に太いボルトが通路の傍の外壁で跳ね、グラップリングフックが欄干にしっかりと絡み付いた。


同じ速度で並走しているとは言え、揺れるウィスパーの座席の上でクロスボウの狙いを定めなければならない上、万が一にもグラップリングフックが欄干に絡まず、外れたボルトから長く伸びたワイヤーがウィスパーのオーニソプター機構、つまりは機体の羽根に絡むのではないか。そういう可能性に、肝が冷えなかったと言えば嘘になる。


だが、結果としてフックは無事に掛かった。それが重要だった。


まぁいざとなればワイヤーを根元から切断し、緊急投棄する機構もあるのだが、当然ながらワイヤーの長さには限りがある上に予備のボルトは一つしか無い。


とても気が休まる情報で無い事は確かだ。

クロスボウから放ったボルト、その鏃たるフックが強固に掛かっている事を確かめてから前部座席のラシェルに合図を送り、念の為ハーネスで身体とワイヤーを連結させ、ウィスパーと飛行船の間を渡り始めた。


職業柄、頭に浮かんでくる嫌な想像や想定を理性で押さえ付ける。


何も曲芸の様にワイヤーの上を歩いて渡る訳では無いが、航行中のウィスパーから同じく航行中の飛行船へとワイヤーだけで渡ると言うのは、思った以上に度胸が必要だった。


それでも何とかウィスパーから飛行船へとワイヤーを渡りきり、欄干から通路へと身を投げ込む。


航行中の飛行船では本来、搭乗員が通る機会の無い通路とは分かっているが、それでも通路の細さと“風通し”の良さ、欄干の簡素さに幾分か背筋が冷たくなった。


暗殺に来たレイヴン以外でも無い限り、間違っても航行中に渡る様な通路では無い。


欄干から外したボルト及びグラップリングフックを、整備員が自身のハーネスを繋ぐであろう頑丈そうなパイプに固く固定する。


そのまま片手で合図すると、前部座席でウィスパーを揺らさない様に努めていたラシェルが新開発の空中係留機構を作動させた。


この空中係留機構は最近開発されたばかりの新機構らしく、駆動機関及び動力が停止した状態でもウィスパーの機体を空中に係留出来る、正しく名前の通りの機構らしい。


少し聞いた話によると、サメやクジラ等の大型空魚を捕らえる際の捕漁兵器の一つ、命中した途端に銛の後端から気球が展開されて仕留めた空魚の喪失を防ぐ、“気球銛”の機構を応用しているらしい。


簡単に言えば、ウィスパーに一時的に気嚢を作る様な物だそうだ。


と言っても実際に気嚢が膨らむ訳ではなく、機構の内部に特殊混合のジェリーガスが充填されていく仕掛けなのだが。


折角ならその気嚢を日頃から展開していれば良いのではないか?と思ったのだが、気嚢が付いたままではウィスパー独自のオーニソプター機構の速度を出す妨げになるんだとか。


加えて、この機構は基本的に単発式の使い捨てシリンダーで運用されている。


係留状態を解除するには係留機構内の圧力を解放し、機構内の浮力を排気するしかない。当然、再利用も不可能だ。


まだ新開発したばかりと言う事もあり、まだまだ改良の余地があるらしい。


ウィスパーの羽根が速度を落としていき、完全に駆動機関の動力が止まったウィスパーが係留される空魚の様になった辺りで、ラシェルもワイヤーを渡り始めた。


後部及び下部に係留されている無人のウィスパーは、低速航行中の飛行船に牽引され指標気球の様に力無く揺れている。


そんな頼り無くさえ見えるウィスパーから、何一つ不安を感じさせない動きでラシェルも飛行船に渡り、二人して通路から飛行船の高い外装を見上げた。


船底近くの通路から飛行船上部の露天甲板を目指す訳だから、文字通り飛行船を下から上まで登る事になる訳だ。


この通路から中に入れたら楽だったが、この通路から飛行船内部へと繋がる扉は前述の理由から厳重に内側から閉じられており、かつ外部から開ける事は想定されていなかった。


よって、この通路から上へと進むにはレイヴンの移動術しかない。


それに、もし通路から内部に入れたとしても決して無人とは言い切れない機関部やその付近をレイヴンが通り抜けるのは、それはそれでリスキーとも言えるのだが。


幸いこの通路付近は、移動術の視点からも幾らかやりようはある。まるで手の付けようが無い、とはならないだろう。


………その外装が、低速とは言え正に今航行している最中の飛行船の下部だと言う事はこの際、考えても仕方がない。


脳内で、移動術のルートを組み立てる。どのルートで、どう登るか、そしてどう跳ぶか。


何処に辿り着くのか、辿り着いた先からどう進むか。


脳内で幾つもの可能性と分岐を考え、吟味していると、レイヴンマスクのラシェルが隣でおどけた様に肩を竦めて見せる。


どんなルートだろうと、取り敢えずは従ってやる。言葉で言うまでも、手信号で伝えてくるまでもなく、そうラシェルが示しているのが分かった。


どうやら俺が思っていた以上に俺の実力は評価されていたのか、それとも先を託せるかどうか試されているのか。


任務の主導権をここまではっきり渡されたのは少しばかり意外ではあったが、言う通りに従ってくれるならそれに越した事は無い。


“血塗れのカワセミ”と殴り合いながら任務をこなす事を考えれば、遥かにマシだ。


改めて、上方に広がる飛行船の船体を見上げた。


移動術で上階及び露天甲板まで向かう事を考えれば幾つかのルートが考えられるが、具体的な案を更に実用的な線で絞るとすれば、ここから上方へと登るルートは実質2択にまで絞り込む事が出来る。


端的に言えば丁寧に回り込んで行くか、駆け上がっていくかだ。


回り込んで行くルートは安定して立ち回れる上に様々な隠れ場所があるが、様々な場所を経由する分距離も時間もかかる。


駆け上がって行くルートは地図に直線を引く様に、突き進むルートだ。


何度か危険な場所を経由する上に多少直線が折れ曲がる様な所もあるが、少なくとも素早く目標の待つ露天甲板まで辿り着ける事は間違いない。


ラシェルにも2択のルートを説明するべきかと少し考えたが、無用だろうと直ぐ様結論付けた。


俺もラシェルもお互い、当然ながら今回の飛行船の図面及び船内の構造は隅々まで頭に入っている。


レイヴン2人が同じ地図を見ながら作戦を考えるなら、浮かぶルートも同じ筈だ。


盲点の様なルートが浮かんだ場合のみ、直接話せば良い。


ふと、胸の前で腕を組んだラシェルと目が合う。


レイヴンマスクで表情こそ見えないものの、どちらを選ぶのか、と此方に問い掛けて来ているのがありありと分かった。


ここでこいつの気に食わない選択肢を提示した場合、唾でも吐いてから“気に入る”方向に先導されるのだろうか。そんな下らない考えが頭を掠める。


………丁寧に回り込むのが手堅い選択肢だと、通常ならば思うだろう。


だが目標が居るであろう露天甲板まで、この飛行船を丁寧に回り込みながら登っていくとなるとまず間違いなく、帝国軍とは無関係の整備員や機関員と出くわす可能性が高い。間違いなく、と言い替えても良い程に。


それに加えて演説を聞きに、もしくは聞かされに飛行船に搭乗したラグラス人の奴隷や労働者、その主人や雇い主のキセリア人と出会す可能性も当然ながらある。


結局、この状況から考えるに丁寧に回り込むルートを選択したとしても、多数の人目に晒されるというリスクを負う事になる訳だ。


リスクを取ると行っても憲兵や戦闘員でもない機関員や整備員なら、レイヴン相手に抵抗した所で他よりは容易く制圧出来るだろうが…………率直に言って、制圧した確実性も考えるなら大半を殺すか重傷、もしくは重体に追い込む事となる。


帝国軍の憲兵やその配下ならまだしも、無関係の人々を八つ裂きにするのは気が進む展開ではない。


俺達の革命を信じて黙っていてくれるなら問題ないが、そんな協力的な連中ばかりがこの飛行船に集まっている事を期待する程、俺は楽天家でも信心深くも無い。


機関員や整備員が帝国軍とは無関係な人間だろうと、反乱軍及びレイヴンに敵対してこないとは限らないのだから。


“このままブーツで亜人を踏んでいたい”連中がどれだけ居るのか、俺は良く知っている。


さて、どうするか。


丁寧に回り込んで、制圧の容易い非武装の民間人を大勢殺すか。


それとも手早く駆け上がって人目に付く事を覚悟で、武装し訓練された帝国軍の連中を八つ裂きにするか。


…………きっと前者の方が仕事としては楽だろう。後者に比べれば、整備員や機関員を殺す事は容易い。


それでも、後者を取るべきだろうな。


“楽だから”なんて理由で、命を掛けるどころか荒事に慣れているかどうかも分からない、居合わせただけの一般人を不必要に殺すべきではない。


浄化戦争であれだけの罪を犯した俺に、そんな道徳を振り回す資格など無いとしても。


沸き上がりそうになった苦い記憶を抑え込みつつ2択のルートの内、直線的に駆け上がっていく速度重視のルートを顎で指した。


向こうもプロのレイヴンなら、顎で指すだけでもどのルート、そしてどの方向性を指すのかは伝わる筈だ。


そして俺が何故そちらのルートを選んだのかも。


飛行船のプロペラと、駆動機関の音だけが聞こえる僅かな間。


胸の前で腕を組んだままのラシェルが少し顔を上げ、納得したとも興醒めしたとも言える声音で呟く。


「及第点ね」


やはりラシェルなりに、何処かしら俺を試していたらしい。そして、取り敢えずは先導させるに値する評価は貰えた様だ。


「行くぞ」


そんな言葉を返し、指の骨を幾つか鳴らした。


視界の端でラシェルが自分に追従する構えを見せるのを確認しつつ、少し勢いを付けてから手近な外装を蹴り付けるが如く駆け上がり、そのままの勢いで予め目星を付けていた高所の手掛かりに掴まる。


掴まった状態から身体を上に引き上げつつ壁を蹴り、そのまま掴んだ手掛かりを下方に投げ付ける様にして、垂直に高く跳躍した。


垂直に高く跳躍して片手を高所の段差に掛け、身体を吊り下げると同時に側面に見える外装、せり出した一部を足裏で押す様に蹴飛ばす。


片手を支点に、振り子の様に足裏で身体に勢いを付けて真横の新たな段差に跳び移り、その勢いを保ったまま片足が漸く乗る程の段差を強く踏みつけて、駆け出す様に前方へと大きく跳び上がった。


横向きに、外装に線を引くような様な浮遊。重力が和らいだ様な錯覚の中、風の音だけが聞こえる数秒間。


徐々に重力が身体を引き戻し始め、身体が前方以外の方向へと引っ張られ始めた頃、プロペラ駆動の一部、船体から離れた駆動部を保持する為と思われる太い鉄柱に、両手を叩き付ける様にしてぶら下がった。


両手で掴まっている鉄柱の下部、俺が今手で掴んでいる部分より下には壁面を除けば何も無く、真下にはつい先程までウィスパーで飛行していた底の見えない濃霧が広がっている。


もし俺がこの鉄柱に手を掛けられなかったら、飛び込んだ勢いのまま音も無く空の底まで落ちていったかもな。


悲鳴ぐらいは、聞けるかもしれないが。


ぶら下がったまま少し息を吐き、一息に身体を鉄柱の上へと引き上げる。


下方の鉄柱を足場として踏み締めつつ、真横に伸びた通路の様になっている保持材の上端に手を掛けた。


そのまま顔を上げ、帝国軍の兵士が今も彷徨いているであろう船室や通路、そして欄干を見やる。


漸く、ここまで来た。


いよいよ此処からは憲兵や帝国兵、“訓練を受けた兵士”が居る可能性が本格的に高まる危険域だ。


高確率で、隠密を捨て去る事になるだろう。ここからは憲兵達を掻き分ける様にして目標、ダニール・ヤンコフスキーの所へと向かう可能性も決して少なくない。


短期決戦、時間との勝負になる。ディオニシオ・ガルバンの庭園で暴れた時の様に、瞬時の判断が分かれ目になってくるだろう。


咄嗟、刹那の判断を誤れば、俺はこのセオドア・フォークスでその悪名高い生涯を終える事となる。


鉄骨を叩く様な、鉄板に着地する様な、鈍い衝撃音。


分かり切っては居たが、俺が今足場にしている鉄柱に先程の俺の動きをなぞるが如く、ラシェルが両手でぶら下がっていた。


こいつも俺と同じく、もし手を滑らせればそのまま濃霧の中に消えていた事は言うまでも無い。


まぁ、手や足を滑らせれば空の底に消えるのは今更か。


ラシェルがぶら下がった鉄柱から滑らかな動きで身体を引き上げ、俺の隣に並ぶ。


俺と同じく、真横に伸びた保持材の上端に手を掛けたラシェルが、顎で行き先を指す様にして俺を促した。


息を吸い、頷く。


上端を引き寄せながら下方の鉄柱を蹴り、プロペラ駆動部と飛行船本体を繋ぐ保持材の上、欄干の無い通路の様な長い足場に身体を引き上げた。


足場は一応整備員辺りが歩ける様に配慮されている様だが、少なくとも航行中の飛行船で命綱すら付けずに、駆動しているプロペラの保持材を歩く事は想定していないだろう。


命綱か、それに準ずる物に命を預けながら歩く事を想定されたその通路“もどき”は跨がれる程に細く、真下に濃霧が広がる中プロペラの駆動音を聞きながら細い通路を歩くのは、中々の度胸が必要だった。


最も、レイヴンの足が竦む訳も無いのだが。


航行中の飛行船故の、僅かな慣性を感じながら一気に細い通路もどきを駆けていき、保持材が繋がっている飛行船の外装をそのまま数歩駆け上がり、更に真上に跳ぶ。


勢いと駆け上がりの甲斐あって、壁にぶら下がったままからの跳躍ではまず手が届かない外装の一端に、指が掛かった。


手だけが掛かった状態から、精一杯腕と身体を使って横方向の手掛かりに移り、腕と体重移動だけで幾つもの手掛かりを伝う様に横へと移動していく。


頭上に、欄干が見えた。


あの欄干を乗り越えれば、いよいよ憲兵達が彷徨いている船室や通路へと踏み込んで行く事になる。


あの欄干より上は移動術に適さない上、無理に登ろうとすれば人目に付くリスクが高過ぎる。いよいよ人を切り裂いては駆け抜けていく、“悪名高い抵抗軍”の時間だ。


欄干を乗り越えたら、もうリッパーを腰から抜いておいた方が良いだろう。


そんな事を考えていた時だった。


プロペラ駆動音と風の音に混じる、微かな硬い足音。


ブーツが床材を蹴る時の、あの足音だ。


反射的に呼吸を抑えた。


足音は徐々に大きく、此方に近付いてくる。


欄干を見据える。スパンデュールで狙う事を考えたが、角度によっては致命傷は難しい。欄干も邪魔だ。


最悪、欄干にボルトがぶつかって甲高い音を鳴らすだけで、何の手傷も負わせられない可能性だってある。


欄干の傍にまで、足音が近寄ったのが分かった。


片手だけでぶら下がり、静かにスパンデュールを構える。


軽快な金属音。頭の中で符合する金属音を羅列し、直ぐに当てはまる物を思い付いた。


オイルライターを、鳴らす音だ。


フリントや内部ユニットを保護するカバー、それを開く音。


硬い足音が、更に近付く。


欄干にもたれかかるつもりなのか、それとも空に灰か吸殻でも捨てるつもりなのか。


このまま足音の主が、欄干まで歩み寄って下方の俺に気付きでもすれば控え目に言っても、良くない事になる。


片手でぶら下がったまま両足を外装にかけて身体を支え、スパンデュールを構えたまま静かに息を吐く。


ボルトが手足に刺さる程度では、欄干の内側に引っ込んで終わりだ。


ボルトを脳髄に命中させる事が出来れば一撃で意識まで刈り取る事が出来るが、下方の欄干の外に居る自分が欄干の内側に立っている敵に対し、そこまで理想的に狙える可能性はかなり低いだろう。


いずれ発覚する事だとしても、まだ欄干の内側にさえ乗り込んで無い状態から声高に叫ばれる様な事態になれば、言うまでもなくまずい事になる。


軋む音と共に、欄干に手が掛かった。


何を考えるでもなくスパンデュールの照準を、その手に定める。


手を負傷させた所で、敵が叫ぶのは止められない。


欄干の奥の相手に比べれば、自分がどれほど不利な位置関係に居るか等言うまでもなかった。


相手が欄干から身を乗り出して、真下を覗き込みでもすればまだ脳髄をボルトで射抜く事が出来るかも知れないが、そうそうある事とは思えない。


いっそ、相手の前に飛び出して串刺してやるか。


そんな考えが浮かぶ。言うまでもなく大胆な方法だが、このままぶら下がって応援を呼ばれるよりはマシな筈だ。


手と肘が、欄干から気だるそうにはみ出る。


服の袖で分かる、憲兵だ。


もう少し来い。せめて鼻先を見せろ。


どうせ此方から見えない限り、お前も俺が見えないんだから。


この片手でぶら下がった体勢も永遠に出来る訳じゃない、お前だっていつまでも煙草を吸ってる訳には行かないだろう。


胸中に、そんな言葉が溢れていく。


不意に、聞き覚えのある風切り音が俺の思考を断ち切り、素っ気ない音と共に欄干の奥へと飛び込んだ。


間の抜けた不思議そうな声と共に、手と肘が欄干の内側に引っ込む。


理解が、追い付く。


数瞬の内に、発火したかの様な筋肉の酷使と共に身体が上方へと飛び上がり、欄干の外側まで一気に辿り着いた。


まるで命知らずが、冗談で欄干を跨いで度胸を自慢する様な立ち位置。


欄干を挟んで漸く向き合った帝国軍の憲兵は、予想通りの状態になっていた。


首と顔を確かめている両手。足元に転がっている吸殻。何が起きたか分かっていない顔。


そして、鼻の辺りから耳の後ろへと貫通したクロスボウのボルト。


命と気力が顔のボルトを伝って抜けていき、目の前の憲兵は正に膝から崩れて床に倒れ込む瞬間だった。


欄干越しにその憲兵の軍服を掴み、力んだ声と共に思い切り欄干から外へと引っ張り出す形で、放り投げる。


命の抜け切った憲兵が緩く回転しながら空の中、濃霧の中へと音もなく消えていった。あのまま派手に通路に倒れ込んで、床材を叩く様な音を立てる事もなく。


辺りを取り敢えず見回すが、やはり他に人影は無い。


長く息を吐く。


そして、欄干に手を掛けたまま振り返った。


あの状況からは“それ”が手っ取り早いのは同感だが、随分と躊躇なく決断するものだ。


振り返った先では、単発式リストクロスボウ“グレムリン”を発射したばかりのラシェルがプロペラ駆動部を支える保持材、その上の通路もどきに立ったまま手信号を送ってきていた。


“ナイスサポート”


レイヴンマスクの下で目が僅かに細くなる。


周りに誰も居ない事が確認出来たから実行に移したのだろうが、俺が反応出来なかったらどうするつもりだったのだろうか。


信頼と言えば聞こえは良いが、聞こえが良いだけでは済まない事もある。


だが、結果論から言えば理想的な解決の一つではあった。


ラシェルが先程の俺の軌跡をなぞる様に外装に取り付くのを見てから、欄干を軽く飛び越える。


ここからでも船室が幾つか目に付く上に、目標が居る露天甲板まではどうしたって飛行船内の区画を通っていくしかない。


先程俺が飛び越えた欄干が軋み、ラシェルが欄干を軽く飛び越えて此方に合流する。


ラシェルのグレムリンは、既にクロスボウのボルトが装填されていた。


今更ながら、よくもあの遠距離から一撃でグレムリンを頭部に命中させたものだ。航行中の飛行船である事を考えれば、風の影響もあっただろうに。



僅かな間。



顔を、上げた。


ラシェルが先を促す様な動きを見せ、それを此方が手で制する。


まずい。


「聞こえるか?」


思わず、手信号でもない普通の声が出る。

再び少しの間が開き、ラシェルが此方にレイヴンマスクを向けた。


「もう演説してる、予定よりかなり早い」


ラシェルからも深刻そうな声が漏れる。


駆動音や風の音に混じり、微かに聞こえる演説の声。


そう。予定通りなら、もうじき始まる筈だったダニール・ヤンコフスキーの演説、“償いの道”の演説が既に始まっているのだ。


現在時刻を懐中時計で確かめようかと一瞬思ったが、確かめた所で意味が無い。


隠密性を捨て去るであろう予感も計画もしていたが、まさか開幕から“楽譜を投げ捨てる”羽目になるとは。


腰からリッパーを抜き、回転させて握り直す。ヴァイパーも一応予備兵装で持ってきてはいるが、恐らく使う事はないだろうな。


さぁ、“即興演奏”の時間だ。


レイヴンマスク越しに眼が合い、ラシェルに道の先を顎で指すと小さな頷きが返ってくる。


どうやら、此処から“即興演奏”に切り替えるのは向こうも同意見らしい。


深く息を吸った。


此方が手に握っているリッパーに倣う様に、ラシェルがこの為に背負っていた金属の杖の様な装備を引き抜き、握り締める。


“ストルケイン”と呼ばれるそれは、基本構造としてはユーリ達が使う斧、ランバージャックと似通っている点も多かった。


違いは、先端。


ランバージャックでは斧頭が備わっている部分に、ストルケインが備えているのは穂先とも呼ばれる、槍頭だった。


ランバージャックが柄を展開する事によってハチェットから両手斧に変形出来る様に、通常時は片腕より少し長い程の短槍でありながら、ストルケインは柄を展開し帝国軍のローズスパイクにも劣らない射程と勢いを扱う事も出来る。


槍を扱うレイヴンの話は聞いていたが、実際に間近で見るのは初めてだった。


目標、ダニール・ヤンコフスキーが演説しているのは此処から幾つかの区画を駆け抜けた後に、階段を駆け上がる事で辿り着ける露天甲板に常設された演説台。


目標は今も、腐臭のする様な演説をしている最中だろう。


長時間の演説ではあるが、何も一日中話す訳では無い。その上、演説を終えた後は居場所を断定するのが演説中に比べかなり難しくなる。ある程度の検討はつくものの、目標を探して行き当たりばったりに飛行船を彷徨くなど、考えたくも無い。


やはり予定を大幅に早めてでも、演説中を狙うしかない。


ラシェルに、簡素な手信号を送る。


『先導する』


そうして、踏み出そうとした辺りでラシェルが手信号を返してきた。


拒否、否定の信号の後、手信号が続く。


『私が先頭を務める。連発クロスボウで、周りをカバーして』


ここから先頭として、敵陣を駆けていくつもりだった自分としては少し虚を突かれた。


確かに、後方から連発クロスボウで周りをカバーする発想は的外れな答えではない。


だが言うまでもなくラシェルにもクロスボウはある。


取り零しを援護する事に連発クロスボウを運用するより、自分が先導しつつ接敵の際、連発機構によって咄嗟に対応出来る事を選んだ方が良いのではないか?


そんな思いにレイヴンマスクの下で目を細めるも、ラシェルが手信号を続けた。


『考えがある』


鼻を鳴らす。


こいつがここまで断言するという事は、間違いなく何か理由があるのだろう。


先述の連発クロスボウの利点も、ラシェルが弁えてないとは到底思えない。


それを踏まえた上で、目の前のラシェルは自分が先導する、と進言しているのだ。


ダニールの演説が今も微かに聞こえている。どのみち、余り迷う時間がある訳でも無いか。


賭けではあるが、任せるとしよう。


『了解した』


簡素な手信号をラシェルに返すと、軽く肩を回してから露天甲板の演説台へと繋がっている階段方面に向けて、レイヴンのブーツでラシェルが駆け出す。


今更だが、隠密性を重視した特性のブーツとは言えよくも足音を抑えたまま、あんな速度で走れるものだ。


軽量とは言え、片手に握っているストルケインだって金属製だというのに。


まるで徒競走でもしている様な速さで駆けていくラシェルに、此方も置いて行かれぬ様に速度を意識しながら着いていく。


頭の中で飛行船内部の通路、そしてラシェルが計画しているであろう経路を思い描きつつ、更に速度を上げた。


予想通りの経路を辿るつもりなら、途中からは今走っている通路だけではなく、いよいよ屋内へと踏み込んでいく必要がある。


その屋内に踏み込むにしても、その前の段階で船室の前や付近を幾つも駆け抜けていく事になるのだから、咄嗟に接敵した際の迅速な対処が重要になるだろう。


不慮の事態にも咄嗟にスパンデュールで対応出来る様にしなければ、と思っていた刹那、目の前の曲がり角からのんびりした様子で憲兵が現れた。



時間が、引き伸ばされる。



先頭のラシェルが床を蹴る様にして爆発的に加速し、ストルケインが硬い金属音と共に倍近い長さに展開された。


クランクライフルを肩に掛けたままの憲兵が目を見開き、眼前に迫るレイヴンに漸く事態が呑み込めたらしく慌てて肩に掛けていたライフルを外す。


切り分けた肉を更に手で引き剥がす様な音と共に、憲兵の胸から背中まで深々とストルケインの穂先が貫いた。


柄を手離してこそいないものの、伸ばした腕と槍の射程を理想的なまでに活用したラシェルの突きは、駆けながら放った事も相まって最早投擲を思わせる程の射程を見せていた。


意識の外とも言える距離から胸を貫かれた憲兵が、よく分かっていない様な目で槍ことストルケインを見つめた後、疲れた様に片膝をつく。


駆ける勢いのまま貫いた槍を捻りつつ、背中へと槍を潜らせる様にしてラシェルが更に突き込んだ。


赤い飛沫を浴びた様に、憲兵の背中から生えたストルケイン、その穂先が長く伸びていく。


硬い音と共に、クランクライフルが床に転がった。


ストルケインから手を離し、片膝をついた憲兵の隣を平然と駆け抜けていくラシェル。


そして駆け抜けざまに背中から伸びた柄を掴み、背中へと引き抜きつつ、ラシェルの綺麗な後ろ蹴りが憲兵の後頭部、及び延髄の辺りを真っ直ぐに蹴り飛ばした。


正しく、槍が胸から背中へと駆け抜けていくかの様に、穂先から石突きまで余す所から無く憲兵の胸を通り抜け、ストルケイン全体が赤黒い色に濡れる。


まるでラシェル自身が憲兵の胸を突き破ったかの如き、手際と速度。


たった今憲兵を一人倒したとは思えない速度で、赤く濡れたストルケインを手にしたラシェルが更に駆けていく。


背中に風穴を開けたまま、顔面を叩き付ける様な勢いで俯せに倒れた憲兵。


その後頭部を駆け足ついでに思い切り踏み潰しつつ、後方で開いた扉に直ぐ様振り返る。


「おい、どうした?」


そんな面倒そうな声と共に船室の扉を通り、人影が現れた。


息を吸う。




憲兵。服装からして上級、腰にサーベル。ライフル無し。いや、腰にホルスター。


ディロジウム拳銃を持っている。


撃たなければ、撃たれる。




音を立ててレイヴンのブーツが床を噛む。


憲兵が、驚愕の顔で手を腰に伸ばした。


口から出る筈だった声を、喉を突き破ったボルトが塞き止める。


喉を抑える憲兵に、更にスパンデュールからボルトを放つ。


二本目のボルトが眼窩から後頭部へと通り抜け、鼻でもぶつけた様に憲兵が上を向いた。


そのまま後ろへと倒れる憲兵から目線を切り、足に力を込めて前方へと再び加速する。


演説がいつ始まったのか、どれほど進んでいるのかは分からないが、ダニールの演説がいつ終わってもおかしくは無い。


ダニールが露天甲板で演説している際に下方での騒ぎが伝われば、恐らくは周りに居る憲兵達がダニールを取り囲むだろう。


まぁ、帝国軍がこの時代に“ラグラス人の奴隷”をレイヴンに襲撃される可能性をどこまで危惧しているか、にも寄るが。


先頭を駆けるラシェルが曲がり角に沿う形で縦に伸びたパイプに手を駆け、軋ませる音と共に勢い良く曲がっては角の奥に消える。


調子が良いのか、日頃からこれだけの速度で走っているのか。


何にせよ、限られた時間内で自分から先頭を引き受けるだけの実力は、あるらしい。


足に力を込め、此方も更に加速する。仮にもレイヴンが、先導するレイヴンに置いていかれる訳にも行かないだろう。


此方もラシェルの轍をなぞる様に、角のパイプを軋ませて勢い良く角を曲がる。


欄干を越えればすぐ空だった今までの通路と違い、壁と壁に挟まれた様な部屋と部屋の間を通した様な通路を走っていくラシェルに、頭の中で図面に線を引きながら考えた。


このままラシェルが想定しているであろうルートならば、確かに間に合うだろう。


だが今想定しているルートを本当に進むとなれば、露天甲板に到達する最初のポイントが演説台からかなり離れたポイントか、最初から憲兵から注目されるであろうポイントに絞られる事となる。


今先頭を駆けているラシェルは、どちらを選ぶつもりなのだろうか。


そんな思いと共に追従しつつ、顔を上げた。


前方に気配、及び人影。下級憲兵、二人。

船室の出入口からは離れている、周囲に気配は無い。


左の憲兵の手には稼働前のローズスパイク、穂先は赤熱していない。右を向いている。


右の憲兵は、欄干に肘をついて此方に完全に背中を向けている。喫煙しているのかは分からないが、隙には違いない。


二人はそこまで離れては居ないが、近くもない。二人とも一撃で纏めて、とは行かないだろう。


幾つもの制圧ルート、及び分岐を想定する。ラシェルがどう動くか、そして憲兵がどう動くか。


自身のスパンデュールの射線にラシェルが入らない様に移動する事や、自身が制圧に直接参加するルート。


自分がリッパーで憲兵の骨を砕くなり、首や手足を斬り飛ばすなり、と言ったルートも想定しておかなければ。


そんな事を考えていると、目の前を駆けるラシェルが硬い音と共にストルケインを“短縮”した。


ラシェルが、振り返る。


嗚呼、成る程。


ラシェルが“やろうとしている事”を読み取り、駆けながら身体を少し左に寄せた。


先頭を駆ける音と速度を幾ばくか和らげ、片腕より長い程度の柄となったストルケインを手にしたラシェルが、通路の右側へと身体を寄せながら肩の後ろに手を回す形で、猛然と振り被る。


それに合わせる様に、此方も片手に握って居たリッパーを回転させて握り直す。


刹那。


自身とラシェルの呼吸、足音が意図的に抑えられる。


この瞬間、憲兵からすれば“上の露天甲板で、亜人が亜人に奴隷を推奨している”最中の、退屈な一時でしか無い。


警報はなっておらず、騒ぎも起きていない。


珈琲か煙草の事でも考えながら時間が過ぎるのを待つ、とりとめの無い時間。


まさか次の瞬間に、自身の命運を分ける出来事が起きるなど夢にも思っていない。


いきなり右の憲兵に駆け寄ったラシェルが、板金の様な鈍い音と共にその後頭部を思いきりストルケインで打ち飛ばした。


「なん、おまえ」


左の憲兵が、唐突に日常に紛れ込んできた“革の防護服に身を包んだレイヴン”に思考を濁される。


手にしていた槍こと、ローズスパイクも直ぐには構えられない。


その隙に、全力の一撃を叩き込む。


力んだ声と共に思い切り打ち込んだリッパーの刀身は狙い澄ました甲斐あって、見事に頚椎を叩き割りその上に繋がっていた頭蓋を斬り飛ばした。


左の憲兵が頭を失い、ゆっくりとへたり込む最中。


金属の槍でメイスの如く後頭部を強打された右の憲兵は気を失ったかの様に、というより実際に意識が抜け落ちて欄干の先、飛行船の外へとしなだれかかる。


軍服の背中を手繰る様にしてラシェルがその憲兵を掴み、手早く空の中へと投げ捨てた。


緩く回転しながら憲兵の死体、もしくは死体と同義の肉体が空の濃霧へと消えていく。


今の所騒ぎは起きていない。同様に、警報もなっていない。


そんな成功に安堵する間もなく、ラシェルが再び通路の先へと走り始め、自分も黙ってそれを追う。


時間が無いのは、分かりきっている事だ。


短縮したままのストルケインを握ったラシェルが、ブーツに床を噛ませる様にして鋭く道を曲がる。


追従している俺も同じく床を噛む様にして、鋭く方向を変える。


そして、片眉を上げた。


僅かな違和感。


当然ながらラシェルと同じく、俺の脳内にもこの飛行船“セオドア・フォークス”の図面は入っている。


だからこそ、先頭を駆けているラシェルが俺が予想していた屋内に入るルートを大きく外れ、行き止まりの筈の方向へと突き進んでいる事にすぐ気が付いた。


一応行き止まりの近くに出入り口はあるが、その出入り口から屋内に入るルートは他のルートで代用出来る上に、今のままではどう転んでも遠回りにしかならない。


その上、行き止まりだからと通路から欄干を飛び越えて移動術を使おうにも行き止まりの周りは手掛かりすら無い、垂直な壁が取り囲んでいる。


手掛かりが無い事から考えて、欄干を飛び越え外に飛び出したとしてもその壁にぶら下がる様な真似は無理だろうし、第一その壁の下には足場すら無い。下手をすればそのまま空の底に消える様な危うい場所だ。


声を掛けようかとも一瞬思ったが、『考えがある』とあの時言い出した事を考えると、何かしらラシェルには策があるのだろう。


何にせよ、先程の動きの良さから考えてもラシェルはプロのレイヴンだ。それに、どのみち選択肢を改めて取り直す時間も無いのだから、信じるしかない。


そんな俺の想いとは裏腹に、ラシェルは軽快にさえ思える足取りで先頭を駆けていき、遠回りにしかならない筈のルートへと益々突き進んでいく。


遠回りを選ぶという事は直接ヤンコフスキーに迫るのではなく、何か細工でもするという事だろうか?


何か此方に目標を引き寄せる様な細工は俺には思い付かないが、この一刻を争う状況でヤンコフスキーを此方に引き寄せる様な細工となると、間違いなく他の憲兵も大勢引き寄せてしまう事になる筈だが。


通路を駆け続け、遂に行き止まりが見えてきた辺りでストルケインを背中に背負い直したラシェルが更に加速する。


加速?


少なくとも、ラシェルが何か細工をする線は消えたと見ていいだろうが、此処から加速する程の勢いが何故必要なのか。


俺には咄嗟にその答えが思い付かなかった。


だからこそ、行き止まり付近で加速した勢いのまま、通路の欄干に足を掛けて高く空中へと跳んだラシェルを見た時は、思わず呼び掛けそうになった。


理解が追い付かず、駆けていた足の勢いが緩まりそうになる。


数多の事が頭の中に沸き上がりそうになるも、その殆どが形を成す前に散って消えた。


真下に床すら無い、壁に取り囲まれた空中へ平然と飛び込んだラシェルが、飛び込んだ勢いで壁を蹴って数歩“壁を走る”。


そのまま居れば間違いなく真下に滑り落ちて空に消える様な、垂直の壁を勢いと技術で一時的に“道”としたラシェルへ、騙されていた重力が追い付く。


その瞬間、ラシェルが此方に跳ね返る様にして更に上方へと壁を蹴り、欄干の通路側へと跳んで帰ってきた。


終わってみれば、それだけの事。


欄干の外へと跳んで、壁を駆けて跳ね返って帰ってきたかの様に思えるが、欄干の外へと跳ぶ前とは圧倒的に違う要素があった。


高さ。


レイヴンの俺でさえ試すまでもなく届かないと諦める高さの、通路の真上に位置する手掛かりにラシェルが、軋む音に力んだ息を混ぜながらぶら下がる。


「おい、嘘だろ」


そんな言葉が思わず漏れるも当然届く筈も無く、天井の端にぶら下がっていたラシェルが通路の上へと姿を消す。


確かに、この通路を“真上に進む”事が出来れば、殆ど露天甲板まで一直線に向かう事が出来る。


事前情報の通りなら、移動術で真っ直ぐ登る事が出来る筈だ。予想だにしない位置から露天甲板に顔を出す事も出来るだろう。


しかし、何というか。俺もレイヴンになってそれなりに経つが、よくもこんな命知らずなルートを思い付くものだ。


深く息を吸い、肺の奥にまで気合いを入れる。


ここで俺だけ落ちたら、それこそ笑い者だな。


足を掛けた欄干を軋ませて取り囲む壁へと思い切り跳躍し、先程の轍をなぞる様に壁を数歩走った辺りで全力を込めて“跳ね返る”。


真下に広がる空を意識しては行けない事は分かっていた。落ちれば死ぬ、それだけだ。


両手を掛けるつもりだったが右手の掛かりが少し緩く、殆ど左手一本で手掛かりにぶら下がる。


少し不安になる程の軋む音と共に、吊り下げた身体が揺れた。


………よくもまぁ、こんな博打染みたルートを選んだな、あいつ。


正直に言って移動術には精通しているつもりの自分でさえ、壁から“跳ね返った”瞬間伸ばした手が届かずに通路の床を転がって、衝撃を吸収する想定が沸き上がったものだが。


不安定な体勢から右手で手掛かりを掴み直し、身体を振って勢いを付け、全身を引き上げる様にして上へと登っていく。


既に結構な高さを登っているラシェルが、上方に見えた。


『考えがある』か。確かにルート選択としてはかなりの短縮になる上、露天甲板にも不意を突く形で現れる事が出来るだろう。


だが理屈ではそうだとしても、このルート選択があの切羽詰まった状況から当たり前の様に思い付く辺りは、場数を踏んでいると認めざるを得ない。




俺達を殴り合わせてでも、組ませたかった理由はこれか。

そんな事を考えながらも大きく飛び上がる様にして、ラシェルの後を追った。











憲兵は背中を欄干にもたれさせ、随分と退屈そうにしていた。


ローズスパイクは隣に携えてこそいたが勿論稼働しておらず、如何にも“取り敢えずは持っていますよ”とでも言いたげにすぐ振り回せる様な握り方では無かった。


まぁ、無理も無い話だ。


この御時世に、“ラグラス人の奴隷を現政権打倒を掲げている抵抗軍が暗殺に来る”なんて、想定する方が少数派だろう。


現に自分も、最初に任務の目標を聞いた時は聞き返したぐらいだ。


まぁ、だからと言って代償を払わずに済む訳では無いが。


“大層な”演説が盛り上がっている最中、退屈そうにしている憲兵の背後、その足元にまで手を掛ける。


少し隣を見た。


同じく露天甲板の端に手を掛け、直ぐにでも飛び出せる体勢を整えているラシェルが、頷く。


息を吸ってから此方も頷き返し、全身を使って一気に憲兵の背後、欄干のすぐ外側まで登り、左手の操作でフルタングダガーことラスティを逆手に握った。


軋む音に振り返るよりも早く、背後からラスティの切っ先で憲兵の喉を掻き切り、憲兵を外へと引きずり込む様にして欄干を越えさせる。


音を立てて倒れる前に、傍のローズスパイクをラシェルが手に取り、飛行船の外へ向かって放り投げた。


一応は静かに憲兵を排除出来たが、言う程この隠密性に意味がある訳では無い。


精々、欄干越しに槍を振るわれたり足場の悪い内から抵抗されると面倒だから、それを片付けた程度だ。


欄干を乗り越える様にして、遂に露天甲板に降り立つ。


少し向こうにはもう、大勢のラグラスが席に座って演説を聞いており、その近辺の高い演説台にはもう、遠目ながらダニール・ヤンコフスキーが確認出来る。


歌手にも負けない声量で悠々と演説しているヤンコフスキーの傍に、憲兵が二人。


大勢のラグラス人達を除けば、一応会場の警護を言い渡されたであろう気の抜けた憲兵が、二人。


会場の向かいに配置されている事から此方には来るには手間だろうが、視線と射線が通る事から考えても隠密では無理だ。


左手の操作でラスティをガントレットに収め、腰から抜いたリッパーを回転させて握り直す。


隣のラシェルも同じくストルケインを背中から引き抜き、展開した。


少しラグラス人達を掻き分ければ、もう演説台に辿り着ける距離。


ウィスパーで濃霧どころか瘴気にまで潜り、クロヒレザメに接近され、飛行船の外装をよじ登り、命懸けの曲芸擬きを切り抜けて、遂にここまで来た。


「“紳士淑女”、入場」


そんな呟きと共に、ラシェルが踏み出す。

此方もそれに合わせる様に踏み出し、そのまま駆け出した。


静穏性のあるレイヴンのブーツが足音を抑えてくれるが、それでも姿はもう隠しきれない。


観客として演説に聞き入っていたラグラス人の一人が此方に振り返り、分かりやすく目を剥いた。


いきなり日常に現れた“黒革を着込んだレイヴン”に、ラグラス人が訳も分からず隣の奴を引っ張りながら此方を指差す。


「あれ、レイヴンじゃないのか」なんて気の抜けたざわめきが観客に広がる中、演説台まで全速力で駆けていく。


そして、一人の悲鳴染みた叫び声を切っ掛けに人々が遂に人を押し退けてまで、我先にと避難し始めた。


俺達レイヴンから離れようとするせいで、演説台の方向にむしろ大勢の観客が押し寄せる形になっている。


「何事です!?」


歌手と張り合えそうな声量はそのままに、演説台に立っていたダニール・ヤンコフスキーがそんな動揺の声を上げながら、遂に此方をはっきりと認識する。


大きく眼を見開き、口が半端に開いたダニールが演説台に立ったまま間抜けな声を上げた。


「レイヴン?」


多数のラグラス人こと観客が逃げ惑う中、状況が理解出来てない数人の観客を力任せに押し退けつつ、演説台へと全速力で駆ける。


演説台に併設された階段は、大した長さでは無い。問題は、憲兵。


先程目に見えた装備からしても、確実にダニールの傍に付いた憲兵二人はクランクライフルを持っている。


予備兵装として、レバーピストルの所持も危惧するべきか。変形した金属薬包の排出は困難だが、初弾を撃つ事には何の問題も無い。


要は一発撃てれば片付くのだから、いきなり腰の後ろからレバーピストルを抜いて撃つ可能性は、充分にある。


「どけ!!!!」


逃げ惑う観客の中、クランクライフルを構えた憲兵の一人が演説台の階段の途中で、吠えんばかりに叫ぶ。


ラグラス人の観客に当てたくない、のではない。金属薬包の排出、クランクを回す隙を考えると“目当ての奴に当たらない”事が困るのだ。


そんな演説台に向かって猛然と地を蹴り、加速していく。


逃げ惑う中、もんどり打って露天甲板に倒れた奴隷らしきラグラス人を素早く飛び越え、只でさえ外す訳に行かない照準が定まらぬ様に時折不規則に動いて射線を切りながら、リッパーを握り直した。


自身を奮い立たせる為か、両手を広げ妙な声を上げながらラシェルに突き掛かっていく観客が、尾を踏まれた犬の様な声と共に鼻に肘を叩き込まれ、横合いへと押し退けられるのが横合いに見える。


この状況でも素手のままレイヴンの方に立ち向かっていくとは、称賛に値する勇気だ。実力差を考慮出来ていない事を抜きにすれば、だが。


狙いが定まりつつある辺りで急に観客の方へと横に移動し、射線を切ると同時に開けた空間へ踏み込むようにして加速する。


スパンデュールの射程と速度、左手からボルトが飛び出す事で不意を突ける事を考えながら駆けていると、観客の悲鳴以外の音が思考に割り込んだ。


風切り音。


顔を上げ、その意味を理解した途端に床を蹴破る程に踏み込み、加速と共に演説台に併設された短い階段へと飛び込む。


憲兵の腕、肘より上の辺りにボルトが刺さり、保持出来なくなったクランクライフルの銃口が呻き声と共に下がった。


その瞬間の隙を逃さず、素早く距離を詰める。


ラシェルが放ったボルトだという事は、確かめるまでもなく分かっていた。


あれだけの混乱の中で、よくもまぁ正確にクロスボウのボルトを憲兵の腕に命中させられるものだ。


考えてみればこの飛行船に取り付いたばかりの時も、俺なら放つか悩む様な距離でもこいつは正確に、それも不安定な保持材の上から迷う事無くクロスボウを放ち、それを命中させていたんだったか。


今更だが、とんでもない奴だ。


ラシェルが新たにボルトを装填しつつ演説台ではなく、会場の警護についていた憲兵二人へと迷う事無く突き進んで行った事を考えると、俺に“ダニールを殺れ”と言いたいのだろう。


無事な方の腕で、踏ん張る様にしてライフルを構えようとする憲兵。


すかさず左手のグローブ操作で作動させた、スパンデュールのボルトがその胸に突き刺さる。


息と苦痛が胸に詰まるも、無理に掲げたクランクライフルの銃口がディロジウム炸薬の蒼白い火を吹いた。


自分から少し離れた場所を逃げ惑っていた観客の一人、奴隷であろうラグラス人の背中に銃弾が命中し、足が縺れた様に倒れるのを横目に見ながら床を踏み締め、短い階段を一気に駆け上がる様にして憲兵の至近距離まで踏み込む。


ライフルを取り落とし、腕と胸にボルトを生やした憲兵が目の前の俺に向かって、声にならない悪態を吐いた。


その憲兵の口、及び顔を上からリッパーの切っ先を振り下ろす様にして、叩き割る。


斧の刃が食い込んだ薪の様に、刀身が中程までめり込んだ憲兵の頭蓋。


その頭蓋からリッパーの刀身を引き抜く刹那、その憲兵の肩越しにもう一人の憲兵が数歩離れた距離から此方に、クランクライフルの銃口を真っ直ぐ向けるのが見えた。


銃口の奥に見える、死をもたらす暗闇。息すら止まる、生死を分ける一瞬。


頭の奥が、閃く。


リッパーの柄から手を離し、死体の胸ぐらと腰を掴みながら僅かに屈み、全身のバネをぶつける様にして憲兵の銃口へ被さる様

に、死体を宙に浮かせる形で投げる。


動揺した声と共に、瞬間的とは言え射線を死体に塞がれた憲兵へと、低い姿勢で回り込む様に接近しつつ左手にラスティを握った。


宙に投げられた死体の陰から回り込む様に現れた俺に、憲兵が素早く銃口を向けるもその銃口を右手で掴み取る。


右手で肩の上辺りへと高く銃口を逸らした瞬間、轟音とも言える銃声と共に空へと銃弾が突き抜けていった。


掴んだままの右手でライフルごと憲兵を此方に引き込みつつ此方からも距離を詰め、順手に持ち直したラスティで相手の脇腹を深く、抉る様にして突き刺す。


目の前で、憲兵の目が大きく見開かれた。


左手でラスティの柄を押し込みながら、銃を離した右手で顎を打ち上げる様にして手首の骨、掌底を打ち込む。


首が大きく後ろに仰け反った憲兵の身体から、力が抜けた。


ゆっくりと力が抜け、崩れ落ちる憲兵の後ろに目標、ダニール・ヤンコフスキーの怯えきった顔がはっきりと見える。


傍に控えていた憲兵二人は、もう居ない。奴隷でもあるダニールの腰には、サーベルすら無い。


いや。ベルトと重心で分かる。


こいつは。


ダニールが、悲鳴染みた声と共に腰の後ろに腕を回し、レバーピストルを抜いた。


咆哮と共にピストルを構えながらも、同時に引き金が絞られていくのが、見える。


足元に崩れていた憲兵を一息に掴み上げ、盾のように掲げた瞬間、銃声と肉を抉る音が混じり合い、銃弾を受け止めた死体から衝撃が伝わってきた。


重い音と共に、背中を抉られた死体が床に転がる。


慌てた手付きでダニールがピストルから金属薬包を排出しようとするが、足のリーチを利用する形でその手元を素早く蹴り払った。


ディロジウム拳銃ことレバーピストルが硬い音を立てながら床に落ち、引き摺る様な音を立てながら滑っていく。


どのみち、レバーピストルで変形した金属薬包を排出するにはかなりの力が必要になる。射撃場ならまだしも、敵の目の前で再装填するには結構な習熟と筋力が必要になる。


だからこそ、非力な兵士でもクランクを回すだけで安定して金属薬包を排出するクランクライフルは、ここまで広く普及したのだ。


敵の目の前で再装填する辺り、ダニールがそれ以外の武器を持っていない事は明白だろう。


それ以外の武器、もしくはもう一丁のピストルでも持っているなら直ぐ様そのもう一丁を引き抜いて構える筈だが、目の前のダニールは信じられない顔で呆然としている。


もう、護衛は居ない。


床に転がっている死体からリッパーを引き抜き、回転させて血糊を振り払った。


怯えた顔で後ずさるダニールを警戒しつつも、演説台ではなく会場の方から聞こえた呻き声へ静かに意識を向けると、遠目にも憲兵二人を制圧したラシェルが見える。


軍服を赤く染めた憲兵が転がっている傍で、仰向けに倒れたもう一人の憲兵に逆手に持ったストルケインを突き刺していた。


余り心配していた訳では無いが、やはり一人で片付けたらしい。


「何故こんな事を………」


目の前でそんな言葉を漏らすダニールへ、改めて意識を向ける。


此方が歩み寄ると、ダニールが更に後ずさった。


「貴方もラグラス人でしょう?」


金の刺繍が入った、素人目にも上等と分かるジャケットに袖を通したダニールが信じられない顔で呟く。


「私は貴方達の未来の為に戦っているのに………」


怯えながらも、それでも決意した顔でダニールが俺の前に一歩踏み出す。


「抵抗軍だなんて…………貴方達は、自分の血がどれだけ穢れているのか知らないのですか?」


その眼は恐怖こそ滲んでいたが、真っ直ぐな眼だった。


自分の事を、信じきっている眼。


我々は罪深く穢れているからこそ、償わなければならないと心から信じている眼。


レイヴンマスクの下で、顔が険しくなる。


「暴れて、噛み付いて………それでは獣と同じです!!」


大きく息を吸ったダニールが、更に一歩踏み出した。


死んでも構わないと、眼が語っていた。自身は自身の信じた道のまま、誇り高く死ぬなら構わないと。


「私達は、聖母テネジアが主と定めたキセリア人種に向けて……忌まわしい血筋を償う為に!!誰かが!!罪を受け入れなければいけないのです!!」


「下らん」


思わず、声が漏れた。


そんな俺の声に、目の前のダニールが信じられない様に眼を見開く。


信じられないと言わんばかりの顔で、言葉が返ってくる。


「下らん?」


ダニールの肩に左手をかけ、引き寄せる様にしつつ横に寝かせたリッパーの刀身を肋骨の間を通す様にして突き刺す。


心臓と肺を引き裂いたリッパーの切っ先がダニールの背中から突き出し、弱々しい息が相手の口から漏れ出していく中、その眼は光が消える最後まで“信じられない”という色のままだった。


赤黒い泡混じりの涎が口から溢れ、魂が抜け落ちたダニールの死体から蹴飛ばす形でリッパーの刀身を引き抜く。


恐らくは飛行船に設置されていたであろう、警報装置の警報が辺りに響き始めた辺りでストルケインを肩に掛けたラシェルが声を掛けてきた。


「片付けたんでしょ?」


辺りを見回す。


目標は達成したのだから、後は離脱……飛行船からの脱出だけか。


まさかラグラス人の奴隷を暗殺する為に飛行船を襲撃されるとは思わず、現場には気の抜けた憲兵しか居なかった事を差し引いたとしても、警報が鳴れば流石に此処からは憲兵も気合いの入った連中が集まってくる筈だ。


頃合いだろう。


「あぁ、離脱するぞ」


念の為にダニールの頭部を思い切り踏み潰し、リッパーの刀身を鞘に収めてから演説台の柵を乗り越える形で飛び降り、警報の聞こえる中走り出した。


殆ど人気の引いた演説会場こと露天甲板を走りながら、離脱ルートを想定していく。


声を掛け合わずとも、自分もラシェルも示し合わせた様にこの露天甲板へと侵入した時の欄干へと駆けていった。


この状況で、露天甲板から離脱して飛行船下部に係留しているウィスパーの所に向かうとすれば、選択するルートは自ずと絞られる。


そして、ラシェルが俺と同じ考えなら露天甲板後部からどう降りていくか、取るルートは同じ筈。


警報が鳴り響く中、観客が引き上げて殆ど無人となった露天甲板に、自分達が駆ける足音以外の足音が重なる。


そう簡単には、行かないよな。


俺達が目指してる侵入ポイントの欄干への道、その途中を遮る様に階下から駆け上がってきたであろう憲兵達が、下部に繋がる階段から我先にと姿を表した。


侵入する際、あの階段を使えば確かに露天甲板には悠々と入り込めただろう。


まぁ、階段の直ぐ傍が憲兵達の詰めている部屋だと言う事を考えれば、レイヴンが取れるルートで無かった事は明白だが。


ポーチ内を含めたスパンデュールのボルト、残弾数を脳内で数える。


視認出来る憲兵の人数、位置関係、武器、優先順位。


上がってきた呼吸で、それでも息を吸う。


クランクライフルを持った憲兵が二人、先陣を切る様に前進してきてはライフルを構える。


俺達の近辺にはもう観客はおらず、遮蔽物も少ない。


向こうからすれば、思い切り撃てる。


排除、優先。


「左をやれ!!!」


そんな叫び声と共に、意図が伝わったかを確かめる前にスパンデュールを“自分から見て右の憲兵”に迷わず撃ち込んだ。


放ったボルトの命中を確認する前に、立て続けに次のボルトを放つ。


一本目のボルトが肩に突き刺さった憲兵が、呻き声と共にライフルを構え直すも二本目のボルトが喉の下辺り、胸に深々と突き刺さり、力無く俯きながらライフルを取り落とした。


射線が切れた、右の憲兵はもう撃てない。少なくとも、いきなり俺達を撃つ事は出来ない。


そしてこの瞬間に、左の憲兵に照準を合わせる余裕は無い。


その刹那。


此方に銃口を突き付けていた憲兵、その顔面。加えて言えば、その眼窩に吸い込まれる様にボルトが突き刺さった。


眼窩から脳を破壊しつつ、後頭部へとボルトに貫かれた憲兵が間延びした声と共に後ろへ仰け反り、床へと倒れ込む。


あの瞬間、意図は伝わったらしいな。


ラシェルの即応性、そしてクロスボウの狙いの正確さに内心で感心しつつ、ライフルを取り落としたきり力無く俯いたままの憲兵へと駆けていき、勢いのまま憲兵の目前で跳躍する。


勢いと体重が乗った飛び膝蹴りを憲兵の顔面で吸収させ、転がっていく憲兵を尻目に片手でクランクライフルを拾い上げた。


ライフルを回転させて持ち直しつつ、素早く前方に銃口を構える。


槍とディロジウム銃砲、射程の差は言うまでも無い。


ローズスパイクの赤熱している穂先を構えている憲兵達が、眼を見開いた。


装填されているディロジウム金属薬包、それに組み込まれた弾は通常弾か、散弾か。


先程、誤って背中を撃たれた哀れな観客の傷は、小さく収まっていた。


ならば通常弾か、小さく絞られた散弾だろう。


一人に銃口を向けて、周りが動き出した瞬間にもう一人の憲兵に照準を合わせ、胴の辺りを狙って引き金を絞る。


轟音と共に蒼白い火が銃口から吹き出し、肉の抉る音と共に腹を食い破られた憲兵の一人が、ローズスパイクを取り落とした。


赤黒く染まった腹部を押さえ、膝を着いた憲兵の一人にクランクライフルを逆手に持ち代え、円を描く様に大きく振りかぶる。


押さえた腹部から、内臓を幾らか溢れさせた憲兵が血の引いた蒼白い顔を上げた。


その顔に、大きく振りかぶって十分に勢いのついたライフルの後端、頑丈なストックを叩き込む。


硬い果実を割る様な音と共に憲兵の頭部が思い切り打ち飛ばされ、目の前の憲兵達に白い歯の混じった赤い飛沫が放射状に振り撒かれた。


ストックに赤黒い染みが張り付いたクランクライフルを、回転させる様にして逆手から順手に持ち直し銃口の先に取り付けられた銃剣の切っ先を、槍の如く構えた辺りで再び轟音が響く。


隣に意識こそ割いたが、視線を向けるまでもなくラシェルが発砲した事は分かっていた。


後方でローズスパイクを構えていた憲兵の一人、その首から上に真紅の華が咲く。


轟音、そして開いた花弁の如く頭部を砕かれた憲兵により、目の前の憲兵達が目に見えて動揺が広がった。


だが、それまでだ。


最初の俺の発砲で腹を食い破られ、そのままストックで頭を打ち砕かれ、次なるラシェルの発砲では憲兵の首から上が真紅の華となった。


その轟音と血飛沫が憲兵達を動揺させるも、クランクライフルにもう弾は無い。クランクを回して再装填する隙も、無い。


ブーツで床を噛み、直ぐ様爆発的に前方へと駆け出す。


同時に、ラシェルが投げたクランクライフルが弧を描く様に回転しつつ、憲兵の下段こと脛や膝を強打する形で叩き付けられた。


ラシェルも考える事は同じだ。動揺が収まる前に、こいつらを抑える。


槍の如く握ったクランクライフルの銃剣で大振りに憲兵の顔面を狙い、体制と目線を引き付けた上で勢いそのままに下段へと振り込んだ。


視界の隙ではなく、意識の隙を突いた銃剣の先が憲兵の腿を幾らか切り裂いたのを確認してから、突きから引き戻していないクランクライフルを宙で手放す。


そしてグローブ操作で左手にラスティを握り、右手で腰のリッパーの柄を引き抜いた。


憲兵のローズスパイク。体勢が崩れたまま突き込まれる、赤熱する穂先。


左手のラスティが槍の柄を削る様にして突きを押し退け、それと同時に右手で振り上げていたリッパーの刀身を、ローズスパイクの柄を握っている憲兵の手に叩き付ける。


硬い金属音、悲鳴と共にローズスパイクが床に叩き落とされ、血塗れの手を押さえる憲兵の喉を、逆手に握ったラスティで刀身を拭う様に切り裂いた。


濁った悲鳴ともに両膝を付く憲兵から意識と視線を切り、構えを解かぬまま辺りに目をやる。


絶対に対処しなければならない憲兵は後、三人。


その一人がラシェルのストルケインに胸を深々と貫かれ、嗚咽と共に両膝を着いていた。


直ぐ様加勢しようとリッパーを握り直し駆け寄ろうとした瞬間、ラシェルが憲兵の手に握られていたローズスパイクを、捻る様にして素早くもぎ取る。


憲兵の胸に突き刺さったストルケインはそのままに、ローズスパイクを掴み取ったラシェルが一切の躊躇を見せずに目の前の憲兵、ではなくもう一人の憲兵へと踏み込みつつ身体を回転させ、背中の後ろから振り込む様にしてローズスパイクを憲兵の側頭部に叩き付けた。


今正にラシェルへ槍を振りかぶっていた憲兵、その頭を打ち砕く様にローズスパイクの赤熱した穂先が鈍い音と共に、その頭蓋を殴り飛ばす。


頭蓋が砕けたのか悲鳴すらなく、転んだ様に目の前へ倒れる憲兵。


その俯せの後頭部に、逆手に持ち替えたローズスパイクの赤熱した穂先が甲板に死体を縫い止めるが如く、深々と突き刺さる。


そして、隣で両膝をついている憲兵の胸に突き刺さっているストルケインを、しっかり掴んだまま憲兵を蹴り飛ばす形で引き抜いた。


胸から赤黒い染みを拡げつつ、隙間風の様な呻き声を上げながら仰向けに倒れている憲兵に、振り回す様に回転させて血を振り払いつつ勢いの付いたストルケインの石突きを、ラシェルが槌の如く振り下ろす。


憲兵の鼻骨が深く陥没する形で、ストルケインの石突きがめり込んだ。


そんな光景を視界と意識の片隅で捉えつつも、足元の喉を掻き切られたまま俯せに倒れている憲兵の頭を踏み潰し、先程叩き落としたばかりの憲兵のローズスパイクを、拾い上げる様に蹴り上げる。


手元に吸い寄せられるが如く浮き上がるローズスパイクを掴み取り、逆手に掴むなり一切の躊躇無く投擲した。


果敢にも槍を正面に構え、此方へと突撃しようとしていた最後の一人、勇敢な憲兵の顔面にローズスパイクの赤熱した穂先が、正確には本来の穂先と重ねる様に備えられたディロジウム駆動で赤熱する刃が、顎の辺りを穿つ様に突き刺さる。


顔面を穿たれた憲兵が殴り飛ばされた様に仰け反り、頭蓋骨で槍の穂先を咥えたまま床へと倒れ込んだ。


当たりこそしなかったものの、投擲した槍が思ったより近くを通った為ラシェルが此方を振り返ったが、俺の行動と結果に納得したらしくストルケインを短縮し、背中に背負い直す。


「流石は“英雄”ね」


「次が来る。急ぐぞ」


ラシェルのそんな皮肉にも取り合わず再び駆け出し、勢いのまま欄干に手をついて欄干を飛び越えた。







乗り越えた身体が飛行船から飛び出して行かない様に勢いを制御しつつ、殆ど落下する勢いで真下に下りていく。


風と警報の音を聴きながら落下しては時折、落下途中で片手を掛けて勢いを制御しながら壁面を蹴り、登る時はまず無理だったルートで素早く外装を下りていった。


レイヴンの移動術の観点から見れば、下方向へと降りる事は登る事に比べれば遥かに幅広いルートを見いだせる。


度胸と技術があれば、落下を制御する形で素早く壁面を降りる事は可能だ。勿論、可能と言っても容易い事では無いが。


警報により露天甲板に兵士が集中しているのか離脱ルートの通路、及び船室付近は全くと言って良い程に人影を見掛けなかった。


その他の乗客はこの近辺、船室内部に居るのかも知れないが、よりにもよって警報が鳴り響く中飛び出て来る事は無いだろう。少なくとも、俺なら絶対に船室から出ない。


外装を伝い降りるだけでなく、何度か欄干から跳躍している事を考えるとまるで身投げの様な脱出ルートだが、当たり前の様にラシェルは同じルートをなぞる様に追従してきていた。


俺にあんなルートを提案してきた奴がこの程度のルートを付いてこれない訳が無いのだが、それにしても身軽に付いてくるものだ。


…………正直、最初はどうなる事かと思ったが結果としてラシェルは評判通りの、評判以上の“レイヴン”だった。


それだけは、覆し様の無い事実だ。


ウィスパーを係留していた、外装に這わせた様な船底近くの簡素な通路。


そこに辿り着く最後の直線を、殆ど落下する様にして一気に降りていく。


急な傾斜のついた外装を決して安全とは言えない速度で滑り降りていき、最後に少し跳んで遂に最初の場所まで戻ってきた。


それから数秒程して、鈍い衝撃音と共にラシェルが隣に着地する。


一応はウィスパーの存在は露見していないらしく、係留した時からまるで異常や変化は見られなかった。


警報が遠く聞こえる中、装填したスパンデュールを構える様にして辺りを警戒しつつ、ラシェルにウィスパーへと繋がったワイヤーを渡らせる。


少しして、渡りきったラシェルが前部座席こと操縦席に移動した事を確認してから此方もワイヤーを渡り、後部座席に着いた辺りで自動ウィンチに手を掛けた。


ラシェルが内燃式ディロジウム駆動機関を始動し、中々に無視出来ない音を立てながら駆動機関が稼働し始める中、自動ウィンチに繋がったワイヤーを確かめる。


少しずつウィスパーのオーニソプター機構が駆動し始め、昆虫類を思わせるウィスパーの羽根が思ったよりも早い立ち上がりと共に、高速で羽ばたき始めた。


前部座席のラシェルが片手で合図を送り、その合図を確認してから自動ウィンチに繋がったワイヤーを備えられた機構で切断する。


空が荒れる等、状況によっては巻き取る事も想定されていたが、結局は長く伸びたワイヤーをそのまま投棄する事になったか。


係留が解除されたウィスパーが航行している飛行船から離れ、風に流される様にして徐々に飛行船から遠ざかり始める。


後部座席に座り直し、ベルトを締めた。

前後通信機が明滅する。


“圧力充分、空中係留機構解除”


グリップを握り、此方も信号を送る。


“了解”


空中係留機構の内部圧力を開放し、浮力を保っていた特殊混合のジェリーガスを放出していく。


勿論、急に機体が揺れる様な事も無くウィスパーのオーニソプター機構により、直ぐ様安定した様子で機体がゆっくりと航行を始める。


“帰投する”


そんな明滅の後、少しの慣性と共にウィスパーの速度計の針が少しずつ振れ、飛行船“セオドア・フォークス”が目に見えて離れていく。


漸く、脱出か。これで後は、中継地点となっている中型輸送飛行船へと戻るだけだ。


一瞬またも瘴気に潜る事を考えたが、今更潜る必要は無いだろう。只でさえこの空域は濃霧が立ち込めている上に、警報の鳴っている飛行船から離脱して距離を取るのなら、ウィスパー最大の利点である機動力こと純粋な速度で飛行船を突き放せば良い。


徐々にけたたましく高鳴っていく風切り音に耳を塞がれながら、僅かに顔を上げた。



今回の任務で“黒羽の団”が“ラグラス人の奴隷”を暗殺した事により、またも世論は大きく揺れるだろう。


目標、ダニール・ヤンコフスキーが広く流布していた“贖罪信仰”にも大きな打撃が与えられる筈だ。


贖罪信仰の崩壊、少なくとも信仰自体に大きく歯止めを掛ける事が出来る。


ラグラス人が生まれながらの罪人であり、その生涯をキセリア人への奉仕と贖罪に費やすべき、なんて卑屈な信仰や意識もこれで大きく揺らぐだろう。


ダニール・ヤンコフスキーの主だった、フィッツクラレンス議員にしても奴隷達を通じた宣伝、票操作に大きく影響が出るのは間違いない。


そして何より、今回の任務で有名な議員の奴隷とは言えラグラス人の奴隷を暗殺した事により、黒羽の団が“ラグラス人なら全肯定する組織”では無いと、世間に意思表示出来た筈だ。


我々はラグラス人の身内を救いたい利己的な組織ではなく、現政権打倒及び奴隷制度廃止を心から願っている組織だと。


その為なら、上流階級の議員だろうと媚びへつらう奴隷だろうと、キセリア人だろうとラグラス人だろうと容赦しないと。


キセリア人だから殺す事もなく、ラグラス人だから見逃す事も無いと。


後部座席に取り付けられた計器類の一つ、速度計の針が更に振れる。


この深い霧で方向を見誤らないのだろうかと少し思ったが、ラシェルの方向感覚と操縦技術の高さは既に証明済みだ。


安心して操縦させるには、充分だろう。


風切り音の中で少し溜め息を吐く。


霧の中から現れ、飛行船に乗り込んで来ては目標を暗殺し、霧の中に消える、か。


所業から見ても、正しく“悪魔”と言う他無い。


それも講演を開く程の敬虔なテネジア教徒を殺しては霧の中に消えるのだから、尚更だ。


そこまで考えてから、レイヴンマスクの下で皮肉な笑みが浮かぶ。


そう言えば、俺はもう“邪神グロングス”だったか。






「正に、お誂え向きだな」


そんな下らない呟きも、風切り音に飲み込まれていった。

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