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カラスが鳴いていた。
腐肉の様とも濡れた香木の様とも言える、奇妙な匂いが鼻腔を擽る。
ふと気が付けば、濃霧に覆われた森の様な場所に立っていた。
頼りない光が、分厚い濃霧に遮られつつも辺りを不気味に照らしている。
冷えきった空気が胸の奥に入り込み、骨まで凍えさせようとしているかの様だった。
自分に何が起きているのか、左手に感じる熱でぼんやりと理解する。
奇妙な、独特の匂い。
見覚えの無い、どう辿り着くかも分からない異質な場所。
棺を抉じ開けている様な、寒気のする空気。
灯火の様にも、道標の様にも思える左手の痣。
ああ、成る程。
呼び出されたのか迷い込んだのかは兎も角、あの奇妙な場所にまたもや来てしまったらしい。
あのウルグスと以前対面した、“虚無”と呼ばれていた場所とはまるで違う場所だった。
だが、考えてみれば最初にこの“痣”を焼き付けられた時は雨の中の小島だった筈だ。
当然ながら、俺はあのウルグスと深く話した事など無く、何を確かめた訳でも無い。
“虚無”が特定の場所、地域を指す単語とは一言も聞いていない。俺の認識が間違っていただけで、“虚無”という単語が概念を指す言葉である可能性も充分に有り得る。
“此処”ではただ、この左手の痣だけを灯火、そして道標にするしかない。それだけは確かだ。
左手の痣の熱を感じつつ、辺りを見回した。
森の様な、とは言うものの辺りの木は全て枯れ果てており、足元は氷を撒いた様に冷たい泥で泥濘んでいる。
微かに息を吐いた。
何を考えるでもなく足が自然と、前へと進む。
濃霧の向こうから聞こえるカラスの鳴き声に導かれる様に、引き寄せられる様に歩いていくとカラスの声が幾分か明確に聞こえ始めた。
取り敢えず、方角は合っている。
そんな単純な事実が小石を投げた様な波紋と共に、頭に浮かぶ。
氷水の様に冷たい泥を踏み締めている内に冷気が伝わり、段々と足が冷えきっていくも濃霧の向こうから聞こえるカラスの声に引き寄せられ、それでも前へと進んでいく。
歩き続けている内、自身を呼び寄せているカラスの鳴き声が複数である事に気付き始める。
いや、複数どころではない。
鳴き声に近づくにつれ、まるで爛れた輪唱の様な、明らかに群れを為している大勢の鳴き声が聞こえ始めた。
大勢が、喚んでいる。大勢が、哭いている。
泥濘を踏み締める音が転々と続く中、引き寄せられる様に群れの方角へと歩を進めていく。
腐肉と香木の様な奇妙な香りの中、微かに鉄の様な匂いがした。
金属ばかりを詰め込んだ倉庫を開けた様な、そんな匂いだ。そして、自身がよく知っている香りでもある。
血の匂い。それも樽から鮮血が溢れているかの如く、濃密な匂いだ。
もう一度匂いを嗅いで眼を細める。どうやら、カラスの群れとこの“血の樽”は同じ方角にあるらしい。恐らくは、場所も同じだろう。
小さく息を吸った。喉から鼻腔にまで、残り香の様に血の匂いが入り込む。
好奇心とも警戒心とも言えない感情と共に、カラスの鳴き声へと歩み寄っていく。
濃霧の向こうから聞こえるカラスの鳴き声がいよいよ身近になり、血の匂いが一層濃密になった。
眼が、険しくなる。
カラスの鳴き声が延々と続く濃霧の向こうから、徐々に巨大な輪郭が見え始めた。
此処から少し先に何か、とても巨大な物が置かれている。いや、横たわっている。
足元の泥の感触が変わり、泥濘が僅かばかり深くなった。
躓く程では無いが、改めて泥を踏み締める様にしつつ、足元を見やる。
泥濘に、幾らか赤い物が混ざっていた。
濃密な鮮血の香りと共に息を吸い、前を見据えて再び歩き始める。
爛れた輪唱の様に聞こえてきたカラスの鳴き声も、耳が慣れたのかそれとも鳴き声の調子が変わったのか、幾つか差がある事に気付く。
喚き散らす様な鳴き声ばかりかと思えば、節々に呼び掛ける様な声もあり、更に選り分ければ喜んでいる様に感じる声さえある。
そんな“歓声”に幾ばくか自身の正気を疑い始めた頃、横たわっていた“それ”が遂に霧の中から姿を現した。
泥濘に踏み込んでいた足が、深く沈み音を立てる。
羽音と共に肩にカラスが留まるも、見向きもしなかった。
空魚類において体格に体長、そして獰猛さにおいて頂点に位置し、飛行船さえ墜落させる超大型魚類。
フカクジラが、木々を押し退け泥濘の中に打ち捨てられたかの様に横たわっていた。
横たわったフカクジラの胴体には人が潜れる程の大きな穴が穿たれており、その大穴から水路の様に、鮮血が辺りの泥濘へと溢れ出ている事が見て取れる。
そんなフカクジラの横たわった身体に、おぞましいと言える程の“眼窩を抉られた”カラスが群がり、ひっきりなしに皮を突き破る様にして肉を啄んでいた。
横たわったフカクジラのそこかしこで濁った鳴き声が重なりあい、その合間に肉や皮を引き千切る音が混じる。
“鮮血の樽”どころでは無かったな。
最早むせ返る程の血の匂いに囲まれたまま、黒いベールの様に群がるカラスを眺めていると、灯火の如く熱を持っていた痣が徐々に脈動し始めた。
脈動する左手を目の前に持ってくると、痣が少しずつ蒼白い光が放ち始める。
周囲のカラス達の鳴き声が少しずつ違う色に変わっていき、辺りを見回せば肉を啄んでいたカラス達は示し合わせた様に俺に注目し、此方に顔を向けていた。
眼球の無い、数えきれない程の視線と意識を痛い程に皮膚で感じる。
そんな中、左手の脈動に同調するが如く重々しく、物悲しい鳴き声が聞こえ始めた。
カラスの群れの数割が驚いた様に飛び立ち、威嚇する様に吠えながら周囲を旋回する。
重々しい鳴き声の主は、よりにもよって先程まで啄まれていたフカクジラ、そのものだった。
100フィート近い身体を横たえたまま、口腔から重い響きを持って辺りの空気を震わせている。
亡骸を啄んでいるのかと思っていたが、意外にもまだ生きていたらしい。最も、好き勝手に肉を啄まれても大した抵抗も出来ない辺り、そこまで大した差は無いのかも知れないが。
そんなフカクジラを眺めている内にある事実に気付き、足元の泥濘や空気と同じく、冷たい物が背骨に染み渡った。
眼球が無い。このフカクジラも周囲のカラス達と同じく、眼窩から丸ごと掬ったかの様に眼球を失っている。
身体が冷えきっているせいか、それとも背筋が凍りかけているせいか、僅かに身震いした。
フカクジラの重々しい鳴き声に共鳴する様に、更に左手の熱が強くなる。
その重い鳴き声を後押しするかの様に、肩に留まったカラスが長く鳴いた。
その途端、周囲の濁った輪唱が火で焙られた様に熱を帯びていき、そんな囃し立てる様な輪唱の中、その声に引き寄せられる様に自然と左手をフカクジラの身体に翳す。
目映い程に痣は蒼白く発光し、明確な意思を感じられる程に熱く疼いていた。
何かを、求められている。何かを、促されている。
無根拠のまま、そんな確信が脳裏を過った。
肺が凍てつきそうな程に冷たい空気を僅かに吸い、少しの躊躇の後に痣へ意識を集中させていく。
痛覚へと変わりそうな程に強くなる熱と疼きの中、傷を抉じ開けられているかの様に鋭く、痛々しい悲鳴と共に目の前のフカクジラが悶え始めた。
苦痛と共に身を捩り、目の無いカラス達が沈む船を見捨てるかの様に慌てて飛び立つ。
痣に意識を集中させていく末、何かの手応えを蒼白く発光する痣から感じ取り、“それ”を掴み取る。
何かが潰れる様な、不気味な音。
悲鳴染みたフカクジラの咆哮と共に、手を翳していた目の前のフカクジラの肉が破裂するかの如き勢いで、血飛沫を撒き散らしつつ張り裂けた。
思わず顔を手で庇い、腕や胸に降りかかった鮮血に顔をしかめる。
何だ?クジラの肉が弾けたのか?
それとも、左手の痣にそんな力があるのか?
腕や手に絡み付いた血糊を雑に振り払い、蒼白く光り続ける左手の痣に目をやるも、ふと気が付いた。
目の前の弾けたばかりのクジラの身体から肉を内側から突き破る様な形で、血と脂が巻き付いた骨の杭が飛び出している事に。
いや、と直ぐ様胸中で否定する。
杭ではない。これは、柄だ。それも棒状の肋骨が飛び出した様な、“杭や柄にも見える”といったものではなく、この骨は“柄”として造られたものだ。
その認識を裏付けるかの様に、その骨の“柄”は血と油に覆われてはいるものの、手で握れる程の細さに削り込まれ、文字や記号の様な物が名前の如く人為的に刻まれている。
“柄”を突き出したクジラの悲鳴染みた鳴き声が薄らいでいき、遂には事切れた様に止んだ。事実、事切れたのかも知れない。
冷えきった世界の中で、突き出した“柄”が僅かに熱を放っていた。
手を翳して漸く分かる程の微かな熱だが、明らかに単なる生物としての温もりとは違う熱を放っている。
血と脂にまみれ、見た事も聞いた事も無い文字と記号が刻み付けられている“それ”を、ゆっくりと握り締めた。
“柄”を握る理由は無い。そもそも“クジラの骨”を触る理由も勿論無い。だが、何処かそれが当然かの如く俺は左手に“それ”を握り締めていた。端から落ちる物を、受け止める様に。投げ渡された物を、考える前に受け取る様に。
促されるまでもなく、握り締めた“それ”をクジラの肉から引き抜く。
想像よりも“それ”は長く、深く肉に埋まっており、血と脂にまみれて尚分かる程に研ぎ澄まされていた。
何だ、これは。
骨から削り出された、余りにも奇妙かつ不気味な肉厚の両刃剣。
刻まれた文字列が柄と刀身に縄の如く絡み付いている“それ”は、処刑人が振るう斧の様な異質な空気を漂わせていた。
左手の痣がまたもや脈打ち始めたかと思えば、握り締めている“骨の剣”は焼き焦げる様な匂いと共に、痣の光と同じ蒼白い色を帯びていく。
クジラの肉が張り裂けてからは、追い払われた様に辺りを飛び回っていた目の無いカラスの一羽が、またもや肩に留まった。
歓声の様に濁った声が辺りから聞こえ、フカクジラの亡骸に再びカラスの群れが再び集まり始める。
奇妙な色合いを帯びた骨の剣を握り締め、血を振り払う様に回転させて握り直すも、“それ”は不気味な程に手に馴染んでいた。
何か斬り付けるまでもなく、手にしているこの長大な両刃剣が異様に鋭い事が伝わってくる。
そんな中、骨の剣に未だ巻き付いていたフカクジラの血と脂が唐突に焦げる様な音を立て、飲み干される様に刀身へと赤黒く染み込んでいった。
しかしその直後、骨の剣に刻まれた文字列と記号が左手の痣と同じく蒼白く発光し、赤黒い染みは再び元の色へと塗り潰されていく。
骨から削り出された奇妙な両手剣を握ったまま、息を呑んだ。
周囲の冷えきった空気に劣らない、冷たい物が脊椎から広がっていく。
刀身や柄に刻み付けられた文字列が蒼白い光を脈動させる様子は、まるで骨の剣が蠢動しているかの様だった。
両手で握られた骨の剣が、クジラの様な声で微かに哭いているのが掌から伝わってくる。
「つくづく、お前は愉しませてくれる」
弾んだ調子の嗄れ声が、何処からか聞こえた気がした。




