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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
108/294

106

 クルーガーが、息を呑む音が聞こえた。





「あんたみたいな化け物が、暇潰しに乗る様なものじゃないのよ、ウィスパーは」


 ラシェルが獰猛な笑みを浮かべたまま、静かに此方に歩み寄ってくる。


 何気無い動きに見えるが、その歩みと重心移動に隙は無い。


 仮に、歩み寄ってくるラシェルに今すぐ俺が殴りかかったとしても、ラシェルは俊敏にかわして反撃するだろう。


 殴り合いになれば、鼻骨を潰されたマルセルが近くに横たわっている事からも、一筋縄に行かないのは間違いない。


「一回は見逃してあげたけど、懲りないってんなら話は別ね」


 一時は落ち着いていたが、どうやらウィスパー訓練をしていたのが相当気に喰わないらしい。もしくは、この訓練場に居る自体か。


 クソ、面倒な事になったぞ。


 ラシェルが、歯を剥く様にして唸る。


「女に手は上げられない、なんて気取ったクソみたいな文句は言わない方が良いわよ。明日からスカートしか履けない様に、あんたのナニとタマを蹴り潰して口に突っ込まれたくないならね」


 黙った所で今更、か。


「俺がイステルをどうしたか聞いてないのか?膝を蹴り砕いて耳を削ぎ落として、鼻の骨をへし折ったんだぞ。紳士的に扱って欲しいなら、ドレスでも着てパーティにでも出るんだな」


 傍に居るクルーガーが、俺と相手の顔を交互に見ているのが顔を向けるまでもなく分かる。


 悪いな、クルーガー。紅茶にカップが欠かせない様に、スラングにはスラングが必要な時があるのだ。


「イステルを叩きのめしたから何?口から屁が出る様なブスと私を同じ目に合わせるとでも?生憎と、私は其処らのケツと頭の区別が付かない様なクソアマとは訳が違うわよ」


 ラシェルが手を振り、指を鳴らす様にして拳を握る。


 此方も、腕を下げたまま指を鳴らして拳を握った。


「そうでもないぞ。“喚き散らしている自分の方が、相手より上に居る”と勘違いしている所なんて瓜二つだ。この調子じゃ、強がったのに殴られて泣き出す所もそっくりだろうな」


 ラシェルの笑みが、益々獰猛な色を増していく。頬に残った微かな血糊も相まって、正しく血に飢えた獣の様に見える。


 “上等じゃない”


 はっきりと、眼がそう呟いていた。


 口では罵倒の応酬だったが、目の前のラシェルが実力者な事は分かりきっている。


 体勢を変えないまま、地面を踏み締める。


 白濁の様子から、左目は見えないと踏んだ方が良いだろう。微かな顔の動きからしても、左目の視力は失明、もしくは物を捉えられる程の視力は無いと見るべきだ。


 しかし先程、マルセルを文字通り叩き潰した辺りからも、こいつ程の実力者がその死角を自覚していない訳が無い。


 左目の死角から狙われる事は、重々承知しているだろう。むしろ、それを餌として左目の死角に放たれた攻撃を利用するかも知れない。


 悟られぬ様に息を吸った。


 左目の死角に、フェイントを入れる。


 そして餌にしろ餌で無いにしろ、死角に対応する相手の腕を取るなり、逆に右目の方角から攻撃するなり、先手を取る。


 見るからに体重差がある事からも掴んで投げに移行すれば、かなり有利に働く筈だ。


 だが、マウントポジションや耳掴みに関してあれだけ把握しているなら、当然体重差の有利不利も熟知しているのは間違いない。


 掴み投げからの抜け、もしくは体重差を覆す手法にも詳しいと見るべきだろう。


 頭の中で、目の前のラシェルへの策が決まる。


 左目の死角へのフェイントの後、死角へと意識が向いた右目への攻撃。その後腕を取る、もしくは右目への攻撃を掴まれたら、その腕の間接を極めるか指を折る方向に仕向けつつ腕を上げさせ、脇の下の肋骨に掌底か拳底、肘で強打を入れる。


 上手く行けば、肋骨を砕く事が出来る。


 そこから隙を作れたら、そこに片手の目潰し等で顔面に注意を引きつつ、脚、もしくは膝関節を壊す。


 ……これだけの事をすれば間違いなく問題にはなるだろうが、今更だ。


 鼻を潰されてマウントポジションから両手で拳底を振り下ろされるぐらいなら、ここで相手の間接を脱臼、骨折させてでもこいつを倒す。


 どのみち、私闘で一方的に殴られて任務に支障が出る程の負傷を負う訳にも行かないだろう。


 先程のマルセルの一件からしても、こいつは闘技場で相手をしたあの二人の様に“丁寧に”対応するのは難しい。


 重度にしろ軽度にしろ、どちらかが行動不能にならなければこの私闘は終わらない。


 ここまでの策だって上手く行くとは限らない。臨機応変に組み替えつつ、戦わなければ。


 動かず睨み付けている俺に対し、ラシェルが油断ない足取りで少しずつ距離を詰めてくる。


 お互いが、お互いの射程距離に入っていく。


 薄い血糊を頬に残したままのラシェルが、顎を引くのが見えた。


 目の前の敵に全てが集中し、周りが澄み渡る様に静かになっていく。


 ラシェルが更に距離を詰める。数歩で、手が届く距離に入る。


 息を薄く吐き、軽く握った左手に微かに熱が篭った。


 相手の動きに素早く対応出来る様に、両足の重心を僅かに移動させる。




 そんな中、肩に羽音と共にカラスが留まった。




 ラシェルの眼が、間が抜けて見える程大きく見開かれる。


 その直後、耳が痛くなる様な大声で肩のシマワタリガラスが威嚇を始めた。


 首を前に突きだし、嘴を大きく開き、気迫で押し返さんとばかりに全力で吠えている。


 思わず隣を見やるも、まるで雛を守る親かの様な気迫でカラスが威嚇していた。


「クソ、よりによって今かよ」


 そんな言葉と共に少し下がり、手で払いのけようとするも、意外にもカラスは意地でも離れない。


 傍で、顎が外れた様に口を開けたままクルーガーが呆然としているのが見えた。


 カラスは相変わらず、ひたすらに俺を守ろうと大声でラシェルを威嚇している。


 不本意だが、強引に叩き落とすしかないかと手を振ろうとした辺りで、心底楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


 思わず顔を正面に戻す。


 先程まで噛み付かんばかりだったラシェルが、両手で腹を抱える様にしながら大笑いしていた。


 何とか息を整えようと腹や胸を抑えつつ、それでも時折堪えきれない様に笑うラシェルに、自分の身体中から覇気が抜けていく。


 どうやら相手に敵意が無くなったのが伝わったらしく、漸く威嚇を止めて大人しくなったカラスに目線をやりつつも、笑い続ける相手を眺める。


 何だ?どうした?


 隣で呆然としていたクルーガーが、思い出した様にラシェルに歩み寄るも片手で制される。


「良いの、大丈夫、クルーガー、大丈夫」


 クルーガーを片手で制しつつ、笑いを堪え、それでも堪えられない様にラシェルが笑う。


「あんた、本当に、本当に“悪魔”なのね」


 そんな言葉に、眉間に皺が寄る。


「何がだ?」


 そんな言葉を返すもどうやら、もう何が起きても面白いらしくまたもや吹き出しそうになりながら、何とかラシェルが言葉を続ける。


「だってそんなに、分かりやすく、カラスが肩に留まるなんて、有り得ないじゃない」


 そんな言葉にクルーガーも此方を振り向く。が、肩を竦めた。


 “確かにそうかも知れないが、笑い話にはなりませんね”


 呆れた様な眼が、そう語っていた。


「こんなに分かりやすい悪魔なんて居る?こんな、肩にカラス留まるなんて、童話みたいな悪魔が」


 漸く息が整ったのか、そんな言葉と共に何とか区切りを付けたラシェルが、それでも上機嫌そうに歩み寄ってくる。


 先程の空気から少し身構えるも、相手に全く敵意が無いのは明らかだった。


 また、相手もそれを自覚しているらしく、先程まで一触即発だったのが嘘の様に気軽な足取りで、後ろ手を組んだまま距離を詰めてくる。


「何、このカラス飼ってるの?」


 そう言いながら目の前まで歩み寄ったラシェルがカラスに気軽な様子で手を伸ばすも、カラスが抗議する様に濁った声で鳴き、伸ばした手を啄む様にして威嚇した。


「……勝手に寄ってくるんだ。ここ最近はこんな調子でな」


 啄まれそうになった手を引くも、それでも口角を上げたままラシェルが上機嫌そうにカラスを眺める。


「散々ラグラス人を虐殺してきて、今更帝国に逆らって、黒魔術を使って貴族や上級尉官のクソどもをブチ殺して、しかもカラスが肩に留まるって?正しく“悪魔”ね、聖母テネジアは何て言うかしら」


 そんな言葉と共に楽しそうにカラスを眺め、またも手を出そうとするも威嚇されている様子に眉を潜める。


 …………もう一人、カラスを手懐けている知り合いは居るのだが、触れない方が良いだろうな。


 “魔女”と“悪魔”だなんて、それこそ悪い冗談だ。


「長年、テネジア教徒をやったが実際には“悪魔”や“黒魔術”の方がよっぽど役に立つからな。それに生憎と、今は無宗教だ」


 そんな俺の言葉に、少しの間を置いてラシェルが笑う。


「同感ね。聖母テネジアなんて、どれだけ崇めた所でケツ拭くか煙草巻く時ぐらいしか役に立たないもの」


 …………何故かは分からないが、“悪魔の遣い”の肩にカラスが留まるという、余りにも分かりやすい光景が随分と気に入ったらしく、目に見えてラシェルは上機嫌になっていた。


 先程まで、血塗れのハヤブサか何かの様に殺気立って居たのに、今ではバーで一杯奢ってくれそうな程に上機嫌に見える。


 こんな事を言うのは不本意だが、まるで友人の様な空気だ。


 どうやらラシェルは、俺が聖母テネジアに真っ向から対抗する存在なのが相当気に入ったらしい。


 言うまでもなく、どうしてそこが気に入るのかは、まるで分からないが。


 肩に留まっているカラスに少し触れてみるも、俺には対しては首を伸ばし、大人しく触られていた。


 どうやら、あの時聞いたグリムの話は思った以上に信憑性がある話だった様だ。


「ケツを拭いて煙草を巻く…………成る程、聖書か」


 カラスから手を離してそう呟くと、再びラシェルが上機嫌そうに笑い始める。


「神様の顔にクソ擦って、“聖なる煙草”がどうしても吸いたい時には丁度良いわよ。大した値段でも無いしね。神様の言葉ってのは、随分安いみたいだから」


 また随分とスラングの入った会話だが、それだけに率直な意見となって意志が伝わってくる。取り敢えず、今の彼女に俺の鼻骨や睾丸を叩き潰すつもりは無いらしい。


 長く、安堵混じりの息を吐いた。


「ミスターブロウズ」


 そんな声に振り返ると、ラシェルとは対照的にクルーガーは命懸けの綱渡りでも見た様な、疲れた顔をしている。


 ああ、そうか。


 考えてみれば元々面識がある事から考えても、クルーガーはラシェルの性格を知っていた筈だ。そして、俺の性格も勿論知っている。


 俺達2人が真正面から衝突すればどうなるか、容易に想像は付いただろう。


 現に、もしカラスの介入が無ければ確実に二人のどちらかは無事では済まなかった筈だ。


 此方は何処かしらの脱臼か骨折を狙っていたし、向こうも恐らく同等かそれに近い事は考えていたに違いない。


 今考えれば、正に殴り合う直前だったあの瞬間、クルーガーとしてはとても生きた心地がしない立ち位置だっただろうな。


「気が気じゃありませんでしたよ」


 何度も肩のカラスに眼をやりながらも、それでも此方に歩み寄ってきたクルーガーが、俺に言葉を溢す。


 こうしている今も、少なからず動悸がしているかも知れない。


「ごめんねクルーガー、もう血腥い真似はしないから安心して。この男を八つ裂きにするのはまた今度にするわ」


 機嫌良さそうにおぞましい事を言うが、恐らく彼女はいつもこんな調子なのだろうな。物騒ではあるが、“路地裏の流儀”ではありふれた会話でもある。


「ねぇ、ちょっと」


 静かに嘆息していると、ふとそんな声を掛けられる。


「何だ?」


 そう返しながら向き合うが、胸の前で腕を組んだままラシェルは何も言わず、此方を見つめていた。


 肩にカラスを乗せたまま、見つめ返す。


 左目が白く濁った双眸が俺を見定める様に、見つめている。


 何かあるのだろうか。


 そんな双眸を真っ直ぐ見返しつつ、胸中で僅かに警戒する。


 十秒近く見つめあった後、ラシェルの表情が感心した様な顔で「ふぅん」と呟いた。


 何だ?


 眉を潜める俺を全く気にしない様子で、ラシェルが尻の方のポケットから紙箱を取り出した。


 思わず目線が、惹き付けられる。


 紙箱から紙巻き煙草を取り出し、自然な動きでその吸い口を咥え、ラシェルがポケットをしばしまさぐった後にオイルライターを取り出した。


 思った以上に上質な、ディロジウム式オイルライターのフリントを擦って手慣れた様子で煙草に火を付ける。


 どうやら、喫煙者らしい。


 穏やかな顔で紫煙を燻らせているラシェルに対して、此方は禁煙の意思をその火で炙って試されている様な気分だった。


 いや、俺が禁煙する理由などもう無いのだ。分かっている。分かっては居るのだが。


 しかし何とも、禁煙中の紫煙とは悩ましい香りがするものだ。


「何よ、モクやるぐらい良いでしょ?赤ん坊が居る訳じゃあるまいし」


 煙草を咥えたまま、ラシェルが此方に怪訝な眼を向けてくる。


 どうやら抗議的な目に見えたらしい。


「悪い、前に禁煙したんでな。少し羨ましいだけだ」


 何とか惹き付けられる視線を引き剥がし、余所へと視線を投げながらそう呟くと、ラシェルが咥え煙草のまま小馬鹿にする様に笑う。


「禁煙?あんた、レイヴンの癖に長生きでもするつもり?バカじゃないの?」


 頭を掻いた。


 何と言うか、そこまで言い切られるとそれはそれで清々しいものだ。


 何より、まるで返す言葉が無かった。


 言葉に賛同する様に、肩に留まったカラスが鳴く。


「今日が新年だろうと誕生日だろうと、明日にでも死ぬかも知れない。皺だらけの老後の心配する程生きられるなんて、ほんの一握りだけ。そういう存在よ、私達は」


 煙を吹かしながらそう呟く彼女は、自分なんかより余程潔く生きている様に見えた。


 少なくとも、迷いだらけのまま悪足掻きの様に生きている自分よりは余程鋭く、真っ直ぐな生き方だった。


「あの、ミス・スペルヴィエル」


 少しばかり暗くなっていた思考に、クルーガーの声が割り込んでくる。


「使ってください」


 そんな声と共に、クルーガーが刺繍入りの高級そうなハンカチーフをラシェルに差し出していた。


「何?どうしたのクルーガー?」


 紫煙を吹かしつつ煙草を口から離したラシェルが、指に煙草を挟んだまま眉を潜める。


「言い出せなかったんですが、その…………」







「そこの彼を叩き潰した返り血が、まだ頬に残ってます」


 肩のカラスが、促す様に小さく鳴いた。

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