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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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098

 1826年。


 ペラセロトツカで徐々に奴隷解放運動が強まりつつあり、徐々にバラクシア全土が戦火の匂いを漂わせていた頃。


 端的に言えば、歴史的な浄化戦争が始まる2年前。





 レガリス内のブローニン地区、キュクロー技術研究所にて、ヘンリック・クルーガーは寝不足の日々が続いていた。


 ここ最近は寝ても覚めても、機械や装置、実験や計算が頭から離れなかった。


 頭から離れないどころか、頭に染み付いていたと言っても過言では無い。


 近年の乱れた髪型に加え、荒れた生活を送る姿からクルーガーはよく他人から誤解されていたが、別にクルーガーは生活に困窮している訳では無かった。


 期日に追い掛けられている訳でも、これを完成させなければ博士号を剥奪される訳でもない。


 ましてや自身が所属している、レガリス未来技術アカデミーを追放される訳でも無かった。


 そこまでクルーガーを追い込むのは、クルーガー自身の“自身は天才だ”という絶対的な自信に他ならない。




 今まで在籍した学院の記録、成績からしても確かにクルーガーは優秀な技術者だ。


 著名な教授に感心された事も多く、話題に出ただけで終わったとは言え、学院では飛び級の話まで出た事すらある。


 若年にも関わらず様々な経験を積み、技術者として順風満帆とも言える道を歩き始めたクルーガーに、ある日転機は訪れた。




 新たな思想や発想を宿すべく文献を読み漁っていたクルーガーはある日、目の前のジャイロコンパスの文献から画期的な改良案を思い付いたのだ。


 何度試算しても、確かにジャイロコンパスの性能を現行型から大幅に向上、具体的には起動してから正確に方角を指し示して静定するまでの時間を、大幅に短縮する事が出来る筈だった。



 試算と違い、確かめるまでもなくこの理論と改良案は自身が初めて思い付いた事は明白だ。


 使命感にも似た、ある想いがクルーガーの中で太い根を張り、大木の幹の如く育っていく。



 それは、“自身は天才だ”という余りにも尊大な自尊心であった。



 それから少しの年月が経ち、新技術開発部門の主任を務める傍ら、改良型ジャイロコンパスの開発に着手する事となる。



 クルーガーの予想通り、幾ら試算に問題が無くとも開発は順調とは行かなかった。


 試算では見えなかった数多の問題に直面し度々開発は難航したが、それでもクルーガーはその問題の一つ一つに的確に対処していく。






 そして、天才を自負しているクルーガーは最後の問題に直面していた。


 その問題は今まで解決してきた問題と違い、どう解決して良いか分からない上に深刻かつ複雑な問題だった。



 天才としての自信が揺らぐ様な問題だったが、それでも“天才でなければここまで辿り着く事も出来なかった”と自身を納得させ、自尊心を燃やしながらクルーガーは最後の問題に取り組んでいく。





 そんなある日、何日も着替えていないままの服でクルーガーはふと目覚めた。



 すっかり日は沈み、部屋の中は締め切られたまま真っ暗になっていた。


 呻き声と共に机のディロジウム灯を点けると、机の“失敗した理論”にはコーヒーの染みが出来ている。



 最後の記憶を辿ると、寝不足のまま考えた理論が直感通りに失敗している事が試算の時点で分かり、数えきれない失敗がまた増えたと天を仰いだのを最後に記憶が無い。





 いい加減顔でも洗って、今日ぐらいしっかり寝た方が良いかも知れない。



 そんな事を考えながら歩いていると、ふと研究室の一角から灯りが漏れている事に気付き、クルーガーは妙な顔をした。



 寝不足で随分と頭の巡りが悪くなってはいたが、それでも研究員で無い事は直ぐに想像が付いた。


 研究員なら、この時間帯まで残っている事はまず無い。


 こんな夜遅くまで熱心に働く事はクルーガー自身が断っている。自身の様な“天才”でも無いのに、こんな誰もが寝静まる様な時間まで働いて寝惚けた様な仕事をされても、クルーガー自身が迷惑だからだ。



 恐らくは最近また低賃金で雇われた、亜人の清掃員だろう。


 意外に思われるかも知れないが、重要施設の清掃において亜人は重宝されている。



 理由は単純。キセリア人と違い亜人は無教養の者が殆ど故に、重要施設や研究室の清掃を任せても、理屈を理解出来る教養が無いからだ。



 それに、亜人達も自分の立場を分かっている。何か物が無くなったり、書類が無くなったりして騒動にでもなればまず疑われるのは自分達亜人だと。



 結論からして、物の価値も分からない上に下手に触る事も無い、更に賃金まで安いというラグラス人こと亜人は理想的な清掃員だった。




 クルーガーは、少し考えた後に堂々と部屋に踏み込んで、研究所から清掃員を追い払う事にした。


 幾ら亜人が仕組みが理解出来ず、下手に手を出せば自分が処罰されるかも知れないとしても、「これぐらいは大丈夫だろう」と勝手に書類を纏められたりするかも知れない。


 自身の知識と研究に絶対の自身を持っているクルーガーとしては、そうして配置を勝手に変えられるだけでも、顔をしかめて睨み付ける程には不機嫌になる要因だったからだ。



 どんな清掃員かは知らないが、取りあえずは威嚇も兼ねてはっきり注意しておいた方が良いかも知れない。


 寝起きに叱る様な声を出すのは中々に堪えるのだが、とまで考えていたクルーガーの考えは、灯りの付いている研究室を覗いた瞬間に霧散してしまった。





 そばかすが目立つ、あどけない亜人の少年。


 その亜人の少年が清掃道具を脇に置いたまま、上機嫌そうな鼻歌と共に黒板いっぱいにジャイロコンパスの構成と理論を、チョークで書き連ねていたからだ。





 注意など頭からすっかり抜け落ちたクルーガーは、覗き見の様な体制のまま見入ってしまっていた。



 見えている部分の試算をする。


 間違いない。理屈は合っている。


 ラグラス人の少年が書き殴る様にして黒板に書き連ねている理論と構成は、そのまま組み立てられる程に確かなものだった。



 扉をゆっくり押し開けると、思った以上の音を立てて扉が軋み、少年は面白い程に飛び上がった。





 真っ青になって謝り続けるラグラス人の少年を脇に押し退け、暫し黒板の理論を眺めた後、足早に立ち去ろうとする少年の首根っこを掴んでクルーガーは立て続けかつ無遠慮に質問した。





「何処でこんな理屈を学んだんだ?キセリア人ですらなく、この自分よりかなり歳も若いのに、どうしてこんな物が書ける?全て覚えているのか?」





 切っ先を突き付けられた様な顔のまま、ラグラス人の少年が白状した言葉は、クルーガーの常識を根本から打ち砕く様な出来事となった。




 少年曰く、自分は学院に行った事は無く奴隷育ちで読み書きも自分で覚えたと。


 各所の研究所の清掃員を続けながら、備え付けられた学術書を清掃ついでに読み漁り、理屈を全て覚えたと。


 勿論、持ち帰る事など出来る筈もなく、全て頭に叩き込んで手ぶらで帰っていたと。



 そして、このキュクロー研究所で開発されている物がジャイロコンパスと知り、夜半の研究所なら誰も居ないと思って一人、理論の試算をしていたと。





 自身を天才と自負していたクルーガーには、少年の言葉は目玉が転げ落ち、顎が抜け落ちる程の衝撃だった。


 まともな教育も受けず、書物ですら盗み読む事しか出来ない年端も行かない少年が、クルーガーに負けない程の知識と頭脳を持っていたのだ。


 それも、只の清掃員がだ。





 クルーガーは、ある取引をする事にした。



 この事を黙っていてやる代わりに、暫くここの清掃員の仕事を続けてくれ、と。


 そして、駄賃を渡すからこの時間帯に自分と一緒に研究の手伝いをしてくれないか、と。



 少年は戸惑ったものの、クルーガーの払う駄賃の額を聞いた途端、二つ返事で承諾した。





 その件以来、クルーガーと少年は研究所で幾度となく密会する事となった。





 少年がクルーガーに語る知識や理論は高い水準にあるだけでなく、自身を含め其処らの研究員が驚く様な物ばかりであり、中にはクルーガーを心底感心させる様な斬新なアイディアもあった。





 知り合ってそれなりに経った頃、少年の名前を知らないクルーガーがそれを訊ねると、少年は「完成したら教えるよ」と笑った。


 クルーガーが「じゃあ完成したら、君の名前を付けよう。何かの洒落だと言えば通るさ」と返すと、此方まで笑顔になりそうな顔で少年が笑っていた。




「自分の名前を付けたら良いのに」


「じゃあ、二人の名前を付けようじゃないか。どうだ?」


「カッコいいじゃん、賛成」


「よし、約束だぞ」



 少年とクルーガーは次第に親しくなり、ある時、空腹の少年の為にクルーガーが軽食を用意すると、少年は夢中になってかぶりついては食べ滓の付いた顔で笑い、そんな笑顔を見てクルーガーも笑いながら、同じ軽食を食べるのだった。









 忘れられない、あの運命の日。








 クルーガーは言い様の無い不安に駆られていた。


 昨晩、少年が研究室に来なかったからだ。


 少年が今までに約束を違えた事は一度も無かった。


 来れない日には必ず説明があったし、それはクルーガーも同様だった。


 それに加えて、“遂に改良型ジャイロコンパスを完成させる最後のピースを見つけた”と少年は意気込んでいたのだ。


 加えて、サンドイッチを一緒に食べる約束までしていた。


 なのに、少年は研究室に来なかった。清掃も勿論していない。



 気を紛らわせるのも兼ねて最後のピースがどんな物かと頭を捻って考えてみたが、結局何一つ上手く行く理論は思い付かなかった。



 そんなクルーガーが頭を捻っていると、研究室の扉を丁寧に開けて帝国軍の憲兵が入ってきた。


 憲兵に踏み入られる心当たりなど当然無かったクルーガーは身構えたが、想像以上に憲兵の態度は柔らかいものだった。



 憲兵が、「これはあんたが発明してた装置だろう?あんたの名前があった」と数枚の書類を差し出す。



 書類には見覚えのある筆跡の字が書き連ねてあり、その文字に重なる様に真っ赤な血糊がべったりと張り付いていた。



 息を呑み、何とか絞り出す様に事情を訊ねるクルーガーに、憲兵は親切そうな顔のまま語り始める。





 憲兵曰く、昨晩ある亜人の少年を捕まえた所、持ち物にこの書類が出てきたそうだ。


 清掃員の格好からしても、何処かで盗んできたのだろうと直ぐに分かった。


 亜人がこんな物を理解出来る筈は無いから、確実にブラックマーケットで売り捌く代物の筈だと憲兵は考えた。


 これを売り飛ばすブラックマーケットは何処だと、何度聞いても少年は否定するばかりでまるで答えず、終いには殴った拍子に首の骨が折れて息絶えてしまった。


 書類は取り敢えず憲兵が預かっていたが、良く読むとヘンリック・クルーガーの名前があったから、こうしてわざわざ返しに来てやったと言う訳だ。





「次に雇う清掃員は気を付けた方が良いぜ」と言い残し、煙草を咥えながら憲兵は部屋を出ていった。




 血糊が張り付いた書類に、目を落とすクルーガー。



 そこには、改良型ジャイロコンパスを完成させる最後のピースが興奮した書体で書き連ねてあった。 


 クルーガーが何れだけ頭を捻っても思い付かなかった、完璧な理論と構成だった。



 皺が寄るのも構わず、クルーガーが書類を両手で握り締める。


 赤い血糊に重なる様に、大粒の涙が握り締められた書類に染みを作っていく。







 試験も無事に終え、遂に改良型ジャイロコンパスを完成させたキュクロー研究所だったが、研究員達は困惑の色を隠せずに居た。



 ヘンリック・クルーガーが、改良型ジャイロコンパス開発者の名誉を辞退すると宣言したからだ。


 勿論このジャイロコンパスは公表して構わないが、自身の名前は絶対に出さないで欲しいと。




 ある研究員が、つい言葉を溢した。


「こんな画期的な装置を発明出来る天才が無名のまま消えていくなんてあんまりです、考え直してください」と。





 クルーガーはその日、人生で初めて人に掴み掛かった。加えて同じく、人生で初めて喉が枯れる程に叫んだ。



 自分は天才などではない。少しばかり手先が器用で、少しばかり周りより秀でただけの凡人に過ぎない。


 豊かな環境に恵まれ、貴重な学術書を読み漁り、高い水準の教育を何年も受けて尚、平均より秀でた程度の凡庸な研究員の一人に過ぎない。



 二度と、私を天才などと呼ぶな。



 そう叫んで研究員を突き飛ばし、クルーガーはキュクロー研究所及び、ブローニン地区からも去っていった。



 そして、クルーガーはレガリスの地区全てから姿を消す事となる。










 数ヶ月後、ヘンリック・クルーガーは丁寧で穏やかな人格者として、技術開発を指揮していた。


 黒羽の団の一員、技術開発班の聡明な技術者として。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 悲しい。 ついぞ彼の名前を知ることが出来なかったことが切ないです。
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