最終話 灰色の――青い、青い空へ
彼を見送ったあと、フローリアは、ぼんやりとした顔で椅子に座りこんでいました。そろそろ彼は戦場に到着し、宿敵と対峙する頃でしょう。私は影から姿を現し、フローリアの前に立ちました。
フローリアと初めて邂逅した日のことを思い出します。眉唾の噂を信じ、私を呼び出した時、彼女はひどく取り乱していました。ただ彼を取り戻したい一心で、自分の命を対価に私に願いました。
「こんにちは」
「あぁ、あなた。また来たの」
声にはいつものような棘は込められていませんでした。彼を自ら送り出してしまった以上、とげとげしさを前に出す必要性がなくなったのでしょう。
――心を知らぬ私には、心というものを忘れてしまった私には、推測することしかできませんが。ただ、願いを叶え続けることで、人の心を推測することくらいはできるようになってきました。
「私はそういうものですので。ところで、本当に良かったのですか?」
「何が」
彼に関することだからでしょうか、フローリアの言葉にはわずかな棘がよみがえる。彼女は強い。それこそ、妬ましいほどに。
「彼を送り出してよかったのかと、私は聞いているんです。あなたの望みは」
「私の命を彼にあげること。彼を生き返らせるためなら、死んでもよかった。まさか、こんな形になるとは思わなかったけど」
「私は、貴女の願いの本心を叶えただけですよ」
私は私自身の力を使って彼女の願いを叶えたわけではない。人一人の命を生き返らせる。魔法を超えた奇跡を為すには、命を対価しても惜しくないほどの、焼け付くような願いが必要でした。
魔力も、魔法も、奇跡も、全ては心より生まれ出る。私はその心の強さで世界を変えられるように、ほんの少しの手伝いをしただけです。
全てはフローリアの願い。
修道院での二人きりの日々こそが、フローリア自身が焼け付くほどに願ったことだったのです。
「一つ、質問があります」
フローリアにはもう時間は残されていません。トリカブトのハルバードを使っても、彼はプルーストには勝てないでしょう。よくて捨て身の相打ち。彼が生き残る可能性はありません。仮に生き残ったとしても、フローリアは間もなく奇跡を為した対価を支払うことになる。
フローリアが彼と再会し、別れた時点で、彼女の願いのほとんどは叶えられたのですから。
「どうして彼の命を救おうと思ったのですか? あなたは、彼を恨んでいたのでは?」
ずっと不思議でした。フローリアの生涯は、決して幸福なものではなかった。位の高い貴族の家に生まれるも、非才ゆえに家族から疎まれ、求められない生を送る。
物質的には恵まれていても、精神的には恵まれない。それどころか身の回りにあるものは彼女の劣等感を苛むものばかり。
時は経ち、彼女をめとったのは新規新鋭の騎士。彼女の実家からすれば、吹けば飛ぶような家格の人間で、どれほどの屈辱を味わったことでしょう。その上、彼女は利用されただけに過ぎず、国のため、民のためと言われ、彼からも捨てられた。
それなのになぜ、フローリアは彼を生き返らせようとしたのか。復讐のためだとするなら腑に落ちない。理解できませんでした。だからこそ、興味がわいた。
「どうして、ね。あなた、意外と馬鹿なのね」
フローリアの言葉に、思わず苦笑がこぼれます。馬鹿なんて、久しぶりに言われました。ただ、まぁ。
「あながち間違ってはいないのでしょうね」
「そう。私がどうして彼の命を救おうとしたのかよね。……そんなの分かり切ったことじゃない」
フローリアは、天井に両手を掲げました。それはまるで天から注ぐ恵みを抱き留めるようで、決して届かないものに手を伸ばしているようでもありました。
「私が、彼を、愛していたからに決まっているじゃないの」
彼女の言葉は、決して揺るぎがないように感じました。
「愛して、ですか」
「そう」
その時、フローリアの手からさらさらと、灰色の塵がこぼれ落ちました。手からだけではありません。足元から、顔から、フローリアの全身から零れ落ちます。
彼女はわずかにだけ、目を見開きました。
「刻限ですね」
「……そう、ね」
彼女の崩壊はすなわち、彼の死でもあります。戦いは決着し、死に行く最中なのでしょう。
「彼が私をどう思っていたのかはわからない。道具だと思っていたとしても、それでよかった。理由なんていらなかった。私は、彼を愛していた。それだけで、十分だった」
独り言をつぶやくように、彼女は言いました。
「私よりも国を守りたい彼が好きで、私よりも民を大事にする彼が狂ってしまうほど愛おしくて、まぶしかった。私のことを見てくれなくてもいい。愛してくれなくてもいい。私は影でいい。それでも、彼のそばにいたかった。そばにいて、共に死にたかった」
なぜでしょう。私は胸を押さえました。彼女の言葉を聞くと、私のどこかがひどく痛い。
「だからこそ、彼を憎んだ。恨んだ。彼は自分勝手な理屈で私を遠ざけた……捨てたのだから。殺してやりたいくらい憎くて、うらめしくて、でも……やっぱり好きで」
ファサリと、掲げていた右腕が灰色に散りました。フローリアの足元には、灰色の塵がうずたかく積みあがっています。彼女は、手首から先が崩れ、今もなお消えていく腕を見て、ため息をつくように、顔を歪めました。
「彼の亡骸を見た時、私の中にこみあげてきたのは怒りだった。勝手に死ぬな。そう思ったの。どうせ生き返らせても、また死にに行くことは分かっていたのにね。生き返らせることにためらいはなかった。だって、彼はそういう人だもの。愚かなほどに、騎士だったんだもの。でも、そんな彼を、そんなだから彼を、私は、私は彼を――」
死んでもいいくらいに、愛したのだから。
あぁ。
空が、晴れました。
「あ――」
フローリアは窓の外を見ました。窓から見える景色は、荒れた大地と、雲の晴れた空。ずっと灰色で覆われて、晴れることのないと思っていた空が晴れたのです。フローリアの目は大きく見開かれる。これまでこぼれることのなかった涙が、一粒流れ落ちる。彼女は、手首から先のない手を、空に伸ばしました。
窓の外から差し込む温かな光を、日の射さないところから見る。願いが成就する時、空を覆う灰色の雲は晴れる。最期に奇跡は訪れる。フローリアは崩れゆく足で一歩、また一歩と歩み出しました。彼女の頭にもはや私の姿はなく、その瞳は、彼女にとって何より大切な、何かを映していました。
「私、私は――ようやく」
存在しないはずの手が、何かを掴み、フローリアは浅く息を吸い込みました。腕を胸に抱き込み、涙を浮かべた顔で、頬を緩めました。幸福を抱きしめるように、安心するように、笑いました。膝をつき、顔を伏せて、そして、
ふわりと風が吹き、フローリアは、塵へと変わりました。身に着けた衣類だけが、その場に残りました。陽光に照らされた塵はきらきらと輝き、開け放たれた窓から吹く風に連れられ、どこか遠くへ飛んでいきました。
窓の外は晴天。塵はすぐに見えなくなりました。けれど見えなくなる瞬間、かすかな光が、彼女を追うように飛んでいったように見えました。
外から、人の声がしてきました。戦場から避難してきた人々がやってきたのでしょう。疲弊し、けれど安堵の込められた気配がします。
誰もいなくなった修道院も、まもなく人であふれかえるのでしょう。彼が救った人々によって。
私は、窓を静かに閉じました。小さく笑みが浮かんで、言葉は、自然と口からこぼれました。
「さようなら。フローリア。彼との再会を、心より願っていますよ」
愛国の騎士と、彼を愛した修道女 了
トリカブトの花言葉 ――騎士道、人嫌い、あなたは私に死を与えた
けれど、
けれどその死に、きっと後悔はないのだろう。
最期まで読んでいただきありがとうございました。
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