1.マリちゃん
美優は不思議な子だった。生まれたときから赤ん坊らしくない、とても静かな子だった。ぼうっと何もない空間を眺めていることも多かったように思う。
夜泣きもほとんどせず手のかからない子ではあったのだが、あまりに静かすぎて時々不安になる。笑うことも滅多になく何か障害でもあるのかと病院で調べてもらったが異常はなかった。
一人遊びが上手で、人形やぬいぐるみ相手に何時間でも飽きることなく遊んでいた。特にお気に入りだったのは祖母が手作りしたウサギだかクマだかわからないようなぬいぐるみである。美優はいつもこれを抱えているようになった。マリちゃんという名前をつけたらしく、マリちゃん、マリちゃん、と話しかけていた。
そんなある日、主人が突然猫を連れてきた。真っ白な雄猫。会社の同僚が飼っていたらしいのだが、急に海外への転勤が決まり困り果てていたという。幸い私たち家族の住むマンションはペットが飼える。そこで同僚のために一肌脱いだというわけだ。私も主人も動物は大好き。娘にも特にアレルギーなどはない。山のような猫用品と共にわが家にやってきたその猫はミルクという名前だった。
キャリーバッグをカーペットの上に置き、バッグの横についた蓋を開ける。すると猫はおそるおそる前足をバッグから出し、カーペットに足をつけた。そして、ビクッとしたように足をひっこめる。何度かそれを繰り返し、やがてゆっくりとキャリーバッグから出てきた。
と、美優のまんまるな目と猫の金色の目が合う。猫は、かすれた声でニャ、と鳴いた。
「あら、ずいぶん声がかすれているのね」
私がそういうと、主人が説明してくれた。
「この猫、まだ子猫のときに拾われたらしいんだけど、死にかけてたんだってさ。ずっと母猫を探して鳴いてたんだろうな。拾われたときには声がすっかり枯れちゃっててこんな声しか出せなくなってたんだって」
なんとも痛ましい。懸命に母猫を呼ぶ姿を想像して悲しい気持ちでいると、突然猫がトトト、と走り出した。そして美優お気に入りの“マリちゃん”に近づいたかと思うとすぐに身を翻し、ベランダの前に座りシャーッと威嚇しだした。
「なに?どうしたの?」
驚く私に主人はのんびりと、
「ベランダに鳥か虫でもいるんだろ」
と答え猫トイレの設置をしている。猫はすぐに落ち着き、ソファーの上に陣取ると毛繕いを始めた。猫は家につく、と言われるがこの猫はなかなか肝が座っているらしく数時間で新しい住処にも慣れたようだ。
翌朝のこと。美優の泣き声が聞こえる。私は慌てて娘に駆け寄った。
「美優ちゃん、どうしたの?」
すると娘が困ったような顔で言う。
「いないの」
「なにが?」
「あの子、いなくなっちゃったの」
いなくなった…?もしかして昨日来た猫が脱走でもしたのかとドキリとして部屋を見回す。大慌ての私を他所に猫はソファーの上でしっぽをパタパタさせてこちらを見ていた。ホッとしてもう一度娘に尋ねる。
「いなくなったって、なにがいなくなったの?」
「マリちゃん」
あのぬいぐるみ…?しかし当のぬいぐるみは娘の手にしっかりと抱えられている。
「何を言ってるの?マリちゃんそこにいるじゃない」
私がぬいぐるみを指差すと娘は少し苛々したように言った。
「ママなに言ってるの?これはぬいぐるみでしょ?いなくなったのはマリちゃん!いつも美優と一緒のお友達!」
何となく皮膚がゾワッとするような感覚に襲われた私は美優から“マリちゃん”の話を聞いた。
彼女は美優よりも少し年上の女の子で、美優が小さいときから側にいたという。そして周りに大人がいないときにだけ現れて遊んでくれた。いつしか美優はそのお友達のことを“マリちゃん”と呼ぶようになったという。私がぬいぐるみの名前だと思っていたのは娘の架空のお友達だった。
架空の……。
子供の頃はそういった想像上のお友達を作ることはよくある。きっと“マリちゃん”もそうだろう。でも……。
昨日猫が取った行動を思い出す。
確か、おもむろにぬいぐるみに近づいたかと思うと身を翻しベランダへ……。それはまるでぬいぐるみの側にいた“何か”を追い立て外に追い出したような動きだった。
「まさかね」
私は泣きじゃくる美優を宥めた。しばらくの間ぐずっていたが、おやつにホットケーキを焼いてあげると現金なものですっかり泣き止んだ。
それからは猫とよく遊ぶようになり、マリちゃんの名は口に出さなくなった。やがて美優はよく笑う普通の女の子になっていった。