一章一幕
第一章 僕、ニートやめます 一幕
「八木本君、お願い。第一幹部を任せられるのは、八木本君しかいないの」
「僕には無理ですよ、三条先生。こんなクソメンヘラニートが勤められる仕事なんて、無いんです。組織に入っても迷惑をかけるだけで、ましてや第一幹部なんて、きっと全うできません」
僕、八木本翼は、スカウトを受けていた。僕の主治医の三条響先生。彼女が総監をしているという、情報屋組織アティーナの第一幹部として、僕を迎えたいという話だった。
一体こんな僕のどこが買われたのか。過去にはさまざまな人に期待をかけられて育ってきた僕ではあるが、持病の悪化により中学校を卒業してからはこれといった実績も無く今となってはただのしがないニートと化していた。到底わからない話であった。いくら昔は優秀だったからといって、そんな過去の栄光だけで人を買ったりするのだろうか?しかし、僕も今年で19歳、高校卒業と同等以上の学力があると認められたわけでもなく、大学に行かないとするならば真面目に働き口を探さないといけない時期であり、かといって精神的に芳しくないために就職活動に億劫になっていたところでのこの話である。乗らない理由はないはずなのだが……僕にはどうしても受け入れられないわけがあった。
闇医者風の(無論、実際に免許を持たないわけではない、彼女は自ら出張して子どもたちを診ているらしく、拠点の病院をもたないところが彼女を謎めかせた存在にさせていた)胡散くさい女医のもってきた胡散くさい組織の話であるのもそうなのだが、今に至った理由が理由だけあって、それが僕に大きく自信を失わせていたのだ。
三条先生は僕を説得し続ける。その言葉が僕に希望を持たせたかと思えば、その一方で、僕を取り巻く暗闇が、お前には無理だと繰り返し告げる。暗闇は、いつからだろうか、気がつくと僕のそばにいた。ことあるごとに僕に囁き、心を乱す存在だ。無理だ……、無理だ……、だってお前は、今までにもたくさんの人たちを裏切ってきたじゃないか…………。僕はかつての忘れかけていた罪を再び責められたかのような気持ちになっていた。思い出がありありとよみがえってくる。自ら引き受けた仕事を挫折するという経験を何度もして、何度も周りに迷惑をかけてきたのだ。今の僕は過去の僕ほど体調が優れないわけではないから、形だけであれば仕事にはなるだろう。「しかし、何かのきっかけで病気が再発したら……?」暗闇が囁いた。
僕の病気は、再発するリスクの高い病気だと聞いている。しかも、僕の足を引くのは初めに発症した自律神経の病気だけではない。僕は、いくつか病気を併発していた。その中には、言わずと知れた精神疾患もあった。薬で抑えているものの、僕はそのせいか、いつも見えない何かを怖がってばかりいた。暗闇は時として囁き、いつも僕の恐怖をあおった。それは、いつも決断をさせるときに僕を気後れさせ、恐れさせ、逃げ出させたくしていた。そしてそのうち、心臓が暴れだして心が悲鳴をあげるのだ。今まさに、そうなろうとしていた。僕の本能が叫ぶ。
逃げたい、早く逃げたい、僕の心をかき乱すのをやめて、お願いだから僕をこの空間から解放して……
「僕なんかが頑張っても結果なんて残せないんですよ。『その通り』これ以上……これ以上、僕は僕自身に失望したくないんです。『我儘に逃げ出してしまえ、自分を守るために』これ以上傷ついたら、きっと、もう、僕、は、」
涙は僕の意思に反してあふれ出てくる。暗闇は囁くのをやめない。風となって、僕の心を荒らしはじめる。僕の心のロウソク。強い風に吹かれて、今にも消えそうだ。ああ、揺らめく……火が小さくなって……消えきる前に、風がやむ。暗闇は気まぐれで意地悪だ。いっそ、心の明かりをすべて消してしまえばいいのに。そうしたらもう、僕が生きている理由は……
「ごめん」
三条先生の言葉で、我に返った。
「いいんです。ほんの我儘ですから」
涙を拭った。いい加減、気持ちを切り替えなきゃ。
「八木本君、寂しくない?」
「えっ?」
予想外。そうきたか……、僕の心の弱みにつけ込む女医。
「学校やめてからずっとひとりでしょ?」
「ひとりではありません。家族がいますから」
「そっか……じゃあさ、友達とか、ほしくない?ほら、あのね、実は、八木本君と同じ時期にアティーナに入る予定の女の子がいて、その子と……仲良くなれるかなって思ったんだけど……どうかな?」
……駄目だ。希望では無い。
「……僕は、女の人は無理なんです。その人は、きっと僕とは合わないでしょう」
僕の第二の問題。僕は基本的に女性が苦手だった。かつて、母に過剰に期待をかけられた挙句、僕が病気で将来を諦めざるを得なくなると、途端に虐待するようになった彼女を、僕はひどく恐れていた。母とは既に別居しているけれど、それは僕に深い傷を作り、今も僕に女性を恐れさせる原因となっていた。
「合わないって決めつけちゃうのは、良くないと思うけどな」
「その人の件はともかく……僕は今は怖いんです」
怖い。無意識に出てきた言葉に、はっとする。視界に暗闇がちらついた。すぐにそれは人の形となって、僕の目の前に現れる。
そうだ。僕は、「お前は、」『怖かったんじゃないか』
すぐにさっきの恐怖感が戻ってきた。暗闇が手を伸ばして迫ってくる。首筋に触れられる……嫌な冷たさが走った。怖い!思い出せ、俺に呑み込まれたお前を……あの絶望感を!暗闇は唆した。そしてその瞬間、僕は感情に支配された。
「先生ならわかるでしょう?突然足が止まるのが。涙に支配される心が。世界が表情を変えて僕を姦しようと手を伸ばす恐怖が!僕だってこのままじゃいけないのはわかってます。だけど……だけど…………僕はもう駄目です。どうか、他の人をあたってください。僕の救いは、家族……望月だけで十分です」
限界だった。僕の救いを、早く……早くあの子、望月に会いたい。僕の唯一の理解者であるあの子。あの子がいれば、僕は心安らかに生きられる。何にも考えなくても、あの子を愛する気持ちだけで、心は満たされるから。暗闇が消えるわけではないけど、少なくとも、僕の命の一線は、守られるから。
「そう……私は、絶対八木本君にするって決めてるんだけどな。……うん、今日はもう遅いから、帰るね。気が変わったら、すぐ連絡してね。それじゃあね」
「はい……ありがとうございました」
響は笑って、立ち去るときにこう言った。
「今度来るときに、その女の子、連れてくるから!」
諦めの悪い人だ、と思った。