黒い海
「――さあ、着いたぞ」
父はそう言って車を停めた。
僕は車のドアを開けて外に出た。夏の熱気が全身を包みこむ、と同時に、磯の香りが鼻の奥に入ってきた。慣れないその匂いに、思わず咳き込みそうになる。
僕と父の前には、立派な白いマンションが建っていた。
「俺達はここの四階だ。行こう」
父の後に続き、僕もそのマンションの階段を登っていった。四階の一番隅の部屋にたどり着くと、父は鍵を開け、中に入った。
小じんまりとした玄関。そこから続くフローリングの廊下を進んでいくと、すぐにリビングに到着した。そこにはダンボールに入った荷物が積まれている。
「ここが、今日から俺達の家だ」
父は言った。
「ほら見てみろ。ここから海が見えるぞ! いい景色だろ? お前の部屋にも窓があってな、そこからも見える」
「そうだね」
僕が適当に相槌を打つと、父は困ったような顔で言った。
「……そんな顔するなよ。仕事の都合なんだ。分かってくれ」
「うん。分かってるよ。大丈夫」
僕は大きな窓に近づいた。試しに窓を開けてみれば、先程の磯の香りが熱気とともに部屋に入ってくる。今はまだこの匂いに慣れないが、次第に平気になっていくんだろう、と僕は思った。
「さて、それじゃあ荷物を出そうか」
「うん」
そして僕は父と共に、リビングに置かれたダンボールを開けていった。
◇
僕らが一通りリビングの荷物整理を終わらせた頃には、もう日が暮れていた。僕も父も疲れていたため、夕食は近所のコンビニで弁当を買って済ませることにした。
「明日、俺は職場に挨拶しに行ってくるから、その後にお前の転入手続きに行くぞ」
弁当を食べながら父は言った。
「俺も地図で確認しただけなんだが、道が結構入り組んでてな……」
「遠いの?」
「いや、せいぜい歩いて十五分くらいのところなんだが……慣れないうちは迷うと思うぞ」
「へぇ……」
僕はコンビニ弁当の中身を口に運んだ。どの町でも変わらない、おいしいけれど淡白な、いつもの味がした。
◇
食事を終えて自室に戻ると、僕は自分の荷物をダンボールから出し始めた。
……自分ではよく分からないことだが、僕の持っている物は、同年代の人と比べて随分と少ないらしい。いつだったか同級生の部屋を訪れた時、その雑然とした感じに驚いたことがある。
父は仕事の関係であちこち転勤を繰り返し、その度に僕らの住所は変わっている。そうして引っ越しを繰り返しているうちに、あまり物を持たないのが習慣になってしまっているのだ。僕だけでなく、父も私物はあまり持っていない。
少ない荷物を出し、整理すると、もう寝るのに丁度いい時間になっていた。
就寝する前に、部屋のカーテンを開け、窓の外を見てみることにした。父が言っていたように、その部屋からは海が見えた。
夜の海は、黒い。空と海が混然と、一つの闇を作り上げてしまっている。そしてその中に、月がぽつんと浮かんでいる。
その黒い海は、まるで底の見えない深い井戸のようなものを連想させた。僕はその景色が恐ろしく感じ、すぐにカーテンを閉めなおした。
◇
「父の転勤の都合でこっちに来ました。よろしくお願いします」
教室の前に立ち、僕はいつもの調子で言った。転校の挨拶といえば、最初こそ緊張したものだが、何度も繰り返しているうちにもう慣れてしまっていた。
そうして朝のホームルームが終わると、近くに座っていた男の子が僕に話しかけてきた。
「ねぇ、ここに来る前はどこにいたの?」
「東京にいたよ」
「えっ、東京!? 都会だ! すごい!」
彼は目をキラキラさせながら言った。するとそれを聞いていたまわりのクラスメイトが集まり、僕に色々と質問を始めた。
僕はそれにきちんと答えていった。これもまた、僕にとってはもう慣れたものであった。
◇
学校から家に帰る時、父が心配していた通り、少し道に迷ってしまった。
住宅の間の細々とした道を行かなくてはならないというのが問題だ。いくつもの道を曲がるうちに、どこがどこだか分からなくなってしまう。もちろん、迷いにくい大きな道で通学することもできるのだが、そうすると時間が倍くらいかかってしまうのだ。
迷いながらもなんとか帰宅すると、僕はさっさと宿題に取り掛かった。
宿題を片付けた後、余った時間は部屋でのんびりすることにした。既に何度かクリアしたゲームをやりながら、ただ時間を潰していく。
そうしているうちに気づけば夕方になり、部屋にオレンジ色の陽光が差し込んできていた。
ゲームにも飽きてしまい、やることがない僕は部屋の窓から海を眺めた。海面に反射する太陽の光が眩しかった。
――その海の砂浜に、一人の女の子がいた。
女の子はスクール水着を着て、海で泳いでいた。僕は何と無くそれをぼんやりと眺める。
やがて彼女は海からあがり、自らの荷物が置いてあるところに歩いていく。そしてバスタオルを取り出し、体を拭き始めた。
その女の子は、僕より少し年上のようだった。白い肌と、それにぴったり張り付くスクール水着。夕日に照らされる彼女の姿に、僕の視線は自然と引き寄せられていった。が、すぐに、見てはいけないものを見ているような気分になり、慌てて窓のカーテンを閉めた。
心臓がどくどくと速く打っている。体の奥に、妙な熱がこもってきている。
……小学生の頃は、女の子を見てもほとんど何も思わなかった。
それが中学校に上がってから、少し変わった。異性と話していると、時々妙に緊張したり、恥ずかしくなったりすることがあった。
転校を繰り返す身でありながら、時折、クラスメイトの誰々が付き合っているだとか、そういう噂を耳にすることもあった。
女の子というものが、僕にはよく分からなかった。
よく分からないからこそ、そこに興味を抱いてしまい――そしてそれと同じくらい、恐怖のような感情もあった。
◇
翌朝。僕が学校に通うためにマンションを出ると、
「あ、おはようございます」
突然、横からそう挨拶をされた。
「え、あ、おはよう、ございます」
急なことに戸惑いながらそう返す。
見れば、そこには学校の制服を着た女の子の姿があった。彼女を見て、僕は内心でどきりとしてしまう。昨日の夕方、海で泳いでいた女の子だったからだ。
「えっと、この前引っ越してきたっていうのが……」
「あ、えっと、僕とお父さん、です。よろしくお願いします」
「四階だったよね。私は二階。よろしくね」
彼女は明るい笑顔でそう言った。
初対面の僕に対して、こうして明るく声をかけてくるのだ。随分と社交的な性格なのだろうと僕は思う。そして実際のところ、僕はこういうタイプの人と話をするのが少し苦手だった。
「――へぇ、お父さんの仕事の都合で。大変だね」
行く道が同じだということで、僕と彼女は自然と一緒に歩くことになった。
歩きながら、彼女は僕に色々な質問をした。ここに来る前はどこにいたのだとか、部活はやっているのかだとか、そういうことだ。僕はそれに、ぽつぽつと返事をすることしかできなかった。少し緊張してしまっていたのだ。
「あ、それじゃあ私はこっちだから。またね」
僕の通う中学校までもう目と鼻の先というところで、彼女と別れた。
――後から知ったことだが、中学校からすぐのところに、高校があるのだ。彼女はそこに通う女子高生だった。
◇
気づけば、引っ越してきてから一ヶ月が過ぎていた。
学校では、特別親密な友達ができたというわけではなかったが、それなりにうまくクラスに馴染むことができていた。
今回もまた、少しすればまた別の学校に転校するだろう、と僕は予想していた。そう考えると、まだクラスメイトとの距離はあるが、それくらい問題はないだろうと思っていた。
それよりも、僕の中を大きく占めているのは、あの女の子のことだった。
彼女とはほとんど毎朝のように道で会っていた。家を出るタイミングが同じなのだろう。道で会い、簡単な世間話をしながら彼女と通学するというのが、もはや僕の日課になりつつあった。
もっとも、世間話をしているとはいえ、話しているのはもっぱら彼女のほうであり、僕はほとんどそれを聞いているだけなのだが……。
僕にとって、彼女は少し苦手なタイプの性格だ。さらに、異性、それも年上の人だということで、どうしても萎縮してしまう。
緊張と、怯えがあった。しかし、彼女と会うのが嫌というわけではなく、むしろどこか楽しみにしている部分もあったのだ。
◇
さらに、瞬く間に時間は過ぎていった。暑かった夏が終わり、季節は秋になろうとしていた。
その休日、僕は近くの商店街に訪れていた。授業のノートを使い切ってしまったため、それを買いに来たのである。
商店街にある小さな本屋でノートと文房具を購入し、少しぶらぶらしながら家に帰ろうとしているところに、見慣れた姿が目に入ってきた。
それは、朝、一緒に通学しているいつものあの女の子である。彼女はどこか落ち着きの無い様子で、商店街をうろうろしていた。
僕が声をかけるべきかどうかを迷っている間に、彼女と目があってしまった。彼女はなぜだか慌てたような顔をした。僕は彼女のそんな表情を見たことが無かった。
僕は彼女に近づいていった。
「何をしてるんですか?」
「いや、えっと、プレゼントを買おうと思って……」
歯切れ悪く、彼女はそう言った。
こうしてしどろもどろになるのは、普段なら僕のほうである。
「誰へのプレゼント?」
「あ、あの、いや、えっと、クラスの、男の子の……」
わたわたと慌てた様子で続けた。
「えっと、その、私、その男の子のことが……えっと、だから…‥来月の、誕生日プレゼント、気に入ってもらいたくて……」
それははっきりしない物言いだったが、僕にはそれがどういう意味か、分かってしまった。
彼女は、どこか照れたような、困ったような顔をしていた。それを見て、僕はひどく嫌な気分になった。胸の奥がずしりと重たくなり、喉が乾いていく。
「ねぇ、どんなものを買えばいいと思う?」
そう尋ねる彼女が、急に憎たらしくなり、
「僕に言われても、知らないですよ」
普段はしないような強い口調でそう返し、僕はその場を去った。
◇
すぐに帰る気にならず、僕はそのまま近所を歩いていた。
頭の奥が熱くなっている。何か強い感情が渦巻いているのが分かる。
そんな気分を落ち着けるために、町を歩いて行く。僕が来てまだ間もない、海のあるこの町を。
ここに来る前、僕は東京にいた。だからどうしても比較してしまう。ここは東京の町並みとは全然違う。良く言えば落ち着きがある。言い方を変えれば、何もない田舎だ。
まわりは知らない景色ばかりだった。僕はまだこの町に馴染んでいない。知らないことが多すぎる。
この町に僕の居場所はない。いや、そもそも居場所などというものが、今までにあったのだろうか。あちこちの町を点々としてきたこの僕に。
寂しい気持ちで歩き、気づいた時にはもう日が暮れていた。
僕はマンションに戻った。部屋に入る前に振り向き、そこに広がっている海を眺めた。
水平線の彼方に、うっすらと陽光が残っている。しかしじきに闇に飲まれ、それは消えていくのだろう。それを見ながら、僕は泣いてしまいそうになるのをぐっと堪えた。
◇
夕食の準備をしていた時から、父はどこか落ち着きがなかった。その様子を見て、僕はなんとなく察していた。
「その、すまないんだが……」
食べ終えたタイミングで、父は言った。
「何度も急なことですまんが、また、引っ越すことになった」
今までに何度もあったのだ。こういうことを言う時に、父がどういう顔をするのか、僕は知っていた。
「ん、分かった」
僕も父も、この町を去っていく。今までに通り過ぎてきた、いくつもの町と同じように。
◇
「え? 転校? 来たばかりなのに?」
朝の通学の時間。顔を合わせた彼女に、僕がここを去ることを伝えると、彼女は悲しげな顔をした。
「でも、そうか……お父さんの仕事の都合なんだ……大変だね」
彼女のその言葉に、僕はただ無言で頷いた。
――あまり、彼女と話をしていたくなかった。
先日、彼女が誰かのプレゼントを選んでいる場面に遭遇してから、僕は彼女のことを少し避けていた。
一緒にいると、居心地が悪いのだ。早く立ち去りたいと思ってしまう。前までは、緊張しながらも、彼女と会うことに幾らかの安らぎのようなものを感じていたような気がするのだが……。
僕が転校すると聞いて、彼女は残念そうな顔をした。僕はその表情を見て、喜びではなく苛立たしさを感じていた。
◇
暗闇の中、僕は唐突に目を覚ました。
時計を確認すると、時刻はまだ深夜と言ってもいいような時間だった。日が昇り始めるまで、まだ二時間ほどはかかるだろう。
胸の奥がざわついていた。何か強い、得体の知れない衝動のようなものが蠢いていた。悲しみとも、怒りとも言えないような、感情の本流がそこにあった。
僕は居ても立ってもいられなくなり、部屋を抜け出した。靴を履き、マンションから外に出る。
そして気づけば、僕の目の前には海が広がっていた。
水平線の彼方まで、闇に沈んでいる。海の闇はどこまでも深い。空に浮いている丸い月は、あまりにも孤独だ。
ざあっと波が引き、また寄せてくる。
黒い海。普段なら恐ろしいと思うそれが、今はなぜか、あまり怖くは感じなかった。
ふと、この海で泳いでいた彼女のことを思い出した。
彼女のことを考えると嫌な気持ちになる。大きな棘を飲み込んでしまったような、強い違和感と嫌悪感がある。……しかし、本当に嫌な感情しか無いかと言えば、それは嘘になるのだ。
唐突に、僕もこの海で泳いでみたいと思った。
そして一度思い立ったらもう、その衝動を抑えることはできなかった。もちろん水着など持って来ていない。何より、夜の海はすごく危険だ。
僕は靴を脱いだ。さらさらした砂の感触が心地よい。ゆっくりと海に向かって歩いて行く。
ざあっと寄せる波とともに、足が海水に浸った。冷たい。その冷たい流れと共に、自分の中にある何かが洗い流されていくような気がした。
僕はさらに進んだ。膝まで海に浸かり、やがて太もも、腰まで。ズボンが濡れることは気にならなかった。
そしてそのまま、僕は全身で海に飛び込んだ。
ざばぁっという音とともに、冷たい海水が僕を包み込んでいく。
そのまま、僕は泳いだ。もちろん、服を着ているせいでうまく泳ぐことはできなかった。ただバタバタと手足を動かす。傍から見たら溺れているようにしか見えないだろう。
そうして泳げば泳ぐほど、自身の中にあった強い衝動が落ち着いていくのを感じていた。
黙々と、僕は泳いだ。
泳ぎ疲れて僕が海を出た頃には、空はうっすらと白み始めていた。
黒い海は消えようとしていた。日が昇っている時の、穏やかで、優しい姿へと変わっていく。
その表情の移り変わりに目を奪われているうちに、太陽は昇りきった。
水平線の彼方から鮮やかな陽光が照りつけてくる。その白い光が眩しく、僕は目を細めた。
◇
出発にはまだ時間があった。
自身の荷物をまとめ終えた僕は、父の準備が終わるまでの間、この町を歩くことにした。
僅か数ヶ月しかこの町では過ごしていない。この町の光景の多くは、このまま忘れ、もう思い出すことは無いだろう。通った中学校のことも、そこで少しの間共に過ごしたクラスメイトのことも、僕は多分、思い出したりはしないだろう。
色々なことを考えながら町を歩き、やがてマンションの前に戻ってくると、そこで偶然彼女と会った。
「朝、よく一緒に話してたから、居なくなると寂しくなるよ」
彼女はそう言った。
それから少しの間、僕と彼女は取り留めのない話をした。その去り際に、僕は言った。
「そういえば、この前の……プレゼントがどうというのは、どうなったんですか?」
「え? あ、ああ、あれね」
少し慌てた様子で彼女は続けた。
「ちょうど、来週なんだ、その子の誕生日。一応、用意しておいたけど、うん……どうだろう……」
おどおどしたその様子がおかしく、僕は思わず笑いながら、言った。
「プレゼント、喜んでもらえると良いですね」
彼女は不安げな様子のまま、それでも嬉しそうに、
「うん。ありがとう」
と言った。
――この町の光景の多くは、このまま忘れ、もう思い出すことは無いだろう。
しかし、無心になって泳いだあの黒い海と、そして、この時の彼女の表情だけは、もしかすると、少しは思い出したりもするんじゃないかと思う。
◇
そうして、僕と父はその町を去った。
父の運転する車の助手席に、僕は座っていた。
「いつも、本当にすまんな。次は落ち着けると良いんだけど」
ハンドルを握りながら、父は申し訳なさそうに言った。
「いや……」
僕は窓の外に目をやった。
「確かに大変だけど、でも、結構楽しかったりもするんだ」
そこには青い海が広がっていた。こうして昼間に見る優しい海も、夜に見る深い闇を携えた黒い海も、どちらもがとても美しいと、僕は思った。
思春期というのは、不思議な時期だと思います。
何もかもに怯えながら、それでいて湧いてくる興味を押さえられない。書いている間に、そんな当時の自身のことを思い出しました。