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301号室 矢田夫妻の災難-②-

 昭彦氏を追跡した日から3日後。私は、二人を事務所へ呼び出した。

 突き止めた真実を、告げなければならないからだ。

「まず最初に、お二人にお話ししなければならないことがあります。」

 そう切り出し、正面に座る二人の顔を見やる。

「今回のご依頼についてなのですが、お二人からほぼ同じ内容の依頼を頂きました。」

 二人の表情が、少し驚きに動いた。が、彩華さんは次の瞬間にはもう自分の夫を睨み付けていた。

「明ちゃん!自分が浮気してるのは認めないくせに、私の浮気を疑ったの!?」

 ものすごい剣幕。今にも掴み掛りそうな勢いだ。

「い、いや…だって、この前知らない男と会ってたじゃないか!会社の外回りの時に見たんだぞ!」

「あー・・・、すいません。それ、私です。」

 こういうことは早めに言った方がいいと思ったので、口論を遮り切り出した。これには流石に昭彦氏も驚いた様だ。

「え!?だってこの男、全然怪しくないじゃないですか!?それになんで外で?」

 目を白黒させながら、慌てて出した携帯の写メと私を見比べる。そこまでこの髭は怪しいのだろうか…。

「私が頼んだのよ。さすがにこの格好は目立つし、事務所だとご近所の目とか、相談内容が聞かれる可能性があるじゃないの。」

 ムスっとしたままの彩華さんが説明してくれた。しかしその眼はこちらをとらえ、「なんでバラスのよ!()らすわよ!?」と言わんばかりの眼になっている・・・。

 さすがに少し目線を外し、続ける。

「え、えっと・・・。とにかくですね、昭彦さん。あなたからご依頼いただいた彩華さんの浮気調査なんですが・・・。まぁ見ての通りで、完全なる無実です。あの日、あの場所でお会いしていたのは、あなたの浮気調査の経過報告のためだったんです。」

「そんな…。」

 妙に絶望したような様子の昭彦氏。

 この反応。やはり私の思った通りの様だ。

「さて次に、彩華さん。あなたからご依頼いただいた、昭彦さんの浮気調査の件で・・・す・・・。」

 目線を彩華さんに戻し、話を続ける…つもりだが、彩華さんはさき程の剣幕はどこへ行ったのか、すでに泣きそうな顔をしている。少し話し辛いな・・・。

「まぁえーっと・・・。結論から申し上げるなら、浮気はしてました。」

 きっぱり。やっぱりこういう事は、はっきり切り出した方が良い。

「やっぱり・・・!」

 先ほどと同じ目線が、明彦氏に移る。私がいるのもお構いなしに噛み付きそうな勢いだ。

「あの口紅!やっぱり浮気をしていたのね!!なんで浮気なんか!!」

「な・・・!だから!あの口紅はたまたまどこかでついた物だって言ってるだろ!」

「でも浮気はしてるんじゃない!あんな派手で変な色の口紅なんかつけて!」

「だから僕は・・・!」

 ギャンギャンと言い合う二人。もはや、私のことは目に入っていないようだった。



「あー・・・コホン。調査報告の続き、よろしいですか?」

 いつまでも終わらない言い合いをなんとか遮って、話を元に戻す。

「浮気はしてるんでしょ!?だったらなんの続きがあるのよ!?」

 怒りと涙で真っ赤にした彩華さんの目が、こちらを睨む。

 うーん、やはりこの情緒不安定っぷりは面倒くさい・・・。

「あー・・・、ですから、明彦さんの浮気自体はそこまで重大なことではないんですよ。」

「浮気が重大じゃない!?」

 バンっと机を叩く音が響き、机の上のティーカップが躍る。

 それにしてもこの夫婦、思ったよりも似たもの同士かもしれない。

「未婚のあなたには分からないでしょうけどね!浮気ってのは夫婦生活で最もあってはならない、重大な裏切りなのよ!?」

「いや、それはお二人の様子を見ていれば・・・。」

「だったらなんでそんな軽々しく言えるのよ!?」

 だめだ。この人完全に怒りで我を忘れている・・・。

「ですから!浮気って言ってもキャバクラへ行った程度なんです!!」

 思わず大声が出てしまったが、ようやく彩華さんの耳に届いたようだ。

「え・・・?」

 さっきまでの剣幕が嘘のようなキョトンとした顔だ。怒ってない顔をすれば、可愛らしい顔なのに。

 それに比べて・・・。

「・・・。」

 明彦氏の方は、脂汗を浮かべたまま石のように動かなってしまった。その表情は、緊張と焦りと、悲しみと絶望が混ざったような表情だ。

「・・・とりあえず、この手を離してもらえます?」

 いつの間にか、胸ぐらを掴んでいた彩華さんの手をさして、お願いする。

「あ!わわ・・・すいません、つい・・・。」

 慌てて手を離して、着席してくれた。この人、実は元ヤンなんだろうか・・・。

「コホン。では、よろしいですか?」

 胸元を直しながらわざとらしく咳払いをして、話を続けた。

 ただ、わざとらしすぎたのか、彩華さんはすっかり恐縮してしまったようだ。これならこのまま落ち着いて話を聞いてくれそうだ。

「ではまず、明彦さん。『ガールズオブクイーン』というお店、ご存じですか?」

 石のようだった明彦氏の体が、動揺でわずかに動いた。

「・・・ご存じのようですね。調査の結果分かったことですが、先月の初め頃、ちょうど彩華さんがご実家に帰省されている隙に、ご友人と一緒に行かれましたよね?」

 少し震えながら、ゆっくりと頷く。

 浮気とはいえたかだかキャバクラに行った程度。にもかかわらず、これはただの浮気を咎められている人の態度ではない。 

 その尋常ならざる態度に、彩華さんも、明彦氏に対する怒りを完全に収めてくれたようだ。心配そうな顔で、明彦氏を見ている。

「では、そこで何があったのか、お話頂けますか?」

「・・・。」

 長い沈黙。明彦氏の汗が、床にポタポタと小さな水たまりを作っている。

「・・・お話し頂けないようですね。いいでしょう。では私からお話ししましょう。」

「!!」

 再び、しかし今度は大きく、明彦氏の体が動揺に動く。

「や・・・安町さん・・・!それだけは・・・!」

「いいえ、だめです。」

「!!」

 明らかに明彦氏の肩に力が入る。よほど妻に話されたくない、という感じだ。

「先ほど彩華さんが仰いましたよね?夫婦生活において、浮気は最もやってはならない裏切り行為である、と。しかし、話さなければならない真実があるのに、嘘をついて隠し続けることもまた、愛する人への重大な裏切り行為なのではないですか?」

 体の震えが大きくなる。もはやその表情は、緊張と焦燥のみが支配していた。

「僕は・・・!何も覚えていないんだ・・・!ただ憂さ晴らしがしたくて・・・!でも・・・何も、何もなかったはずなんだ・・・!なのに・・・!なのに・・・!!」

 俯き震え、言葉に嗚咽が混じり始めた。後悔と、できれば知られたくなかった事実を暴露されるという悔しさで、涙がこぼれているのだろう。

「・・・続きをお話しします。」

 それでも、容赦なく離さなければならないのが、探偵という物だった。

「明彦さんは先月の初め頃、ご友人の誘いを受け、街へ飲みに行かれました。その時、ご友人の勧めでキャバクラへ行くことにしたそうです。ただ、遊び慣れておられないんですね。道ばたでキャバクラのキャッチに捕まり、そのままお店へ向かわれた―――。ここまでは、よろしいですか?」

 うつむき黙ったまま、頷いて応える明彦氏。

「そのお店でお酒を飲まれ、ご友人と二人で楽しい時間を過ごされたのでしょう。ですが・・・そこまでは良かった。」

「そうです・・・。そこまでは・・・覚えています・・・。」

 ようやく落ち着いたのか、俯いたままではあるが、明彦氏が口を開いてくれた。

「勧誘の人が言うように、気さくで聞き上手な人がいて、ずっと僕の話を聞いててくれました。そして勧められた、知らない名前のお酒を飲んだんです。そしたら、そこから何も覚えていなくて・・・。」

「気がついたら、お店で眠っていたんですね?」

「はい・・・。それも・・・なぜか裸で・・・。」

「!!」

 今度は彩華さんの体が動揺で動いた。その顔からはみるみる血の気が引いていく。

「裸って・・・!明ちゃん、なんで・・・!」

「覚えていないんだ・・・。本当に気がついたら店員に起こされてて・・・。朝で・・・。」

 とうとう明彦氏は、頭を抱えてふさぎ込んでしまった。

「何があったかなんて覚えていないんだ・・・!友達はいつの間にかいなくなっているし・・・、店からは迷惑料と慰謝料と飲食代を含めた金額だと、50万円も請求されるし・・・!」

「ご、50ま・・・。」

 思わず絶句する彩華さん。それもそうだ。専業主婦である彼女が、50万なんて大金を目にすることはないだろう。

「その50万円自体は、私のカードの限度額一杯まで借りて、何とかしました。・・・それで終わりになるはずだったんです・・・。」

 話が進むにつれ、彩華さんの顔からさらに血の気が引いていく。

 そして極めつけ・・・。

「その時のお店の女の子が・・・妊娠した・・・と言われて・・・。」

 ばたっ。

 とうとう話に耐えかねた彩華さんが床に倒れ込んでしまった。

「あ、彩華・・・!」

「・・・私がやりますので、どうぞ続きを。」

 倒れた彩華さんを椅子に戻しながら、続きを諭す。彩華さんは、見た目よりもちょっと重たかった。

「え・・・あ、はい・・・。」

 椅子に戻された彩華さんを見てから、改めて話を続けてくれる。彩華さんのお蔭で落ち着きを少し取戻した様子だったが、彩華さんはすでに魂が抜けたような状態だ。

「えっと・・・とにかく、その騒動から数週間が過ぎてから、お店から連絡が来たんです。大変なことになっているから来い、来ないなら家に行くぞ、と・・・。そこで初めて、私が酔ってその女性を襲ったこと、それが原因で女性が妊娠したことを告げられました。当然最初は疑いましたが、医師の診断書を見せられて・・・。それで、今度は慰謝料と堕胎するための費用に300万円用意しろと、言われました・・・。」

「結構な金額ですよね?そのお金は、用意したんですか?」

 答えは知っている。知っているが、私はあえて聞くことにした。

「・・・駅の向こう側にある、消費者金融から借りました。」

 思いもよらぬ場所だったのだろう。彩華さんの表情が、わずかに動いた。

「え、駅の、反対側のって、雑居、ビルのところ、よね?あそこって・・・。」

「ええ。どう考えても『あっち側』の人たちが経営している所ですね。」

 ふぅ、っと再び倒れそうになる彩華さんを、今度は寸での所で受け止めることができた。少し発言が不用意すぎたか・・・。

「とにかく、そのお金を相手には渡したんですね?」

 席に戻りながら聞いてみる。もちろん、これも目撃した内容なので知ってはいるが。

「・・・はい。堕胎手術をする予定だという病院で待ち合わせをし、そこで親族だと名乗る男性に渡しました・・・。」

「そうですか・・・。」

 全てを話し終わった昭彦氏。その顔には諦めの色がほとんどなく、どこか覚悟を決めたような顔をしていた。

「彩華・・・。これがお前が知りたがっていたことだよ・・・。スッキリしたか?」

 相手の顔を見ずに、彩華さんに告げる昭彦氏。私はなんとなく、彼の考えがわかった、とうか、以前からそんな気はしていたが・・・。

「・・・なんでこんなことになったのよ・・・。」

 うつむき、肩を震わせる彩華さん。それはそうだ。ここまでの内容をまとめると、彼は憂さ晴らしと称して浮気しようとして、もっととんでもない事態を招き、多額の借金まで作ってしまったのだから。

「今まで・・・。今までずっと仲良くやってきたじゃない。なのに何でこんなことを!!」

 後半はもはや怒鳴り声に近い口調だった。

「・・・お前のせいなんだ。」

「!!」

 予想外の言葉に、涙でいっぱいの目で昭彦氏をキッとにらむ彩華さん。

「私の何が原因だって言う気!毎日毎日家事をして良い妻であろうと・・・!」

「そこが原因なんだよ!」

 今度は明彦氏が怒鳴り声に近い声を上げた。その顔には怒りを無理矢理持たせて(・・・・・・・・)

「お前はいつも何かあると私が一番がんばっている、私が一番不幸みたいな言い方をして!そのくせ最近はダラダラしてばかりで家事もいい加減、いつもイライラして変なことや小さな事ですぐ怒る!そんなことばかり毎日毎日続いたら、誰だって外で息抜きしたくなるじゃないか!」

「イライラしたりするのはあなたが悪いんでしょ!?第一、だからって浮気していい理由にはならないわ!」

「ほらそうやってまた自分のことを棚に上げて!なんでも相手が悪いってことにして!」

「あなたもじゃないの!自分が何をしたかわっかってるの!」

「あーもう!これ以上君とは話してても気分が悪いだけだ!」

「こっちもよ!浮気して借金まで作るなんて!!こうなったら、もう離・・・」

「そこまでです!」

 大きな声を出してしまったが、おかげで危ういところで二人の口論を止めることができた。

「そこまでです、彩華さん。それ以上言ってはいけない。」

「人の家庭のことに口を・・・」

「いいから!それ以上は黙りなさい。」

 少しきつめの言い方をしたが、それが効果があったのか。彩華さんは驚いた表情こそしていたが、おとなしくソファに戻ってくれた。

「明彦さんも、座ってください。調査結果の報告は、まだ終わっていませんよ。」

 この言葉に、今度は明彦氏の顔が驚きに染まった。

「ですから、彩華さんを無理に煽ったりするのは、もう辞めてください。」

「・・・。」

 さらに意表を突かれた明彦氏は、ゆっくりとソファに戻ってくれた。

 それを見届けてから、話を続けた。

「まず、明彦さんが言うように、その日の夜は何もありませんでした。明彦さんが行った店、あそこは所謂ぼったくりバーというやつだったんです。」

「な・・・。」

「まずキャッチで捕まえた客を酔わせ、お酒に睡眠薬か何かを混ぜたのでしょう。眠った客の服を脱がせ、そのまま朝まで放置。朝になったら、迷惑料としてお金をせしめる。そういうことを常習的に行っていた店の様です。」

 二人とも黙って、こちらを見ながら話を聞いてくれている。彩華さんも落ち着きを取り戻してはいるが、その目には不安の色が浮かんでいた。

「もちろん警察に訴えた方はいらっしゃるようですが、残念ながら証拠不十分。警察に訴えたときには、被害者の体からは薬物も抜けているでしょうしね。そうして相手を追い詰め、今度はお店の子が妊娠したと相手に告げ、さらなるお金を要求すると行った手口です。もちろん診断書はニセモノでしょう。すでに何人もの被害者が出ていますし、おそらくご友人も、同じ目にあったのではないでしょうか。」

「そんな・・・。」

 彩華さんは思わず口元に手を当て、涙をこらえているような仕草をした。

 夫が裏切ったのではなく、実は詐欺に遭っていたのだ。怒りのやり場がなくなり、どうしていいのか分からないのだろう。

「調べてみたところ、獲物を逃がさないようその動向や住所、勤め先なんかの割り出しをしていた可能性があります。まぁ幸い、このマンション周辺にはそういった輩はいませんでしたが。

 むしろ、冷静に考えてみてくださいよ。いくらなんでも、数週間で妊娠が発覚するなど、不自然だと思いませんでしたか?第一、そんなことが店内で起きているのに、店側がその場で何も注意しなかったり、外へ放り出したりしなかったのは、おかしいと思いませんか?」

「いや・・・高いキャバクラってそういう店なんじゃ・・・。」

「んな訳ありません。」

 間髪入れず突っ込んでしまった。この人、ほんとに遊び慣れていないんだな。

「とにかく、追跡までして念入りに。ここまで手の込んだ詐欺も久々ですね。まぁ、相手を捕まえたり訴えたりする証拠は、完璧なまでに何もないわけですが。」

「・・・。」

 長い沈黙。それもそうだ。真実が分かったところで、何かが変わるわけではない。証拠もなく、警察に訴えても無駄。自分たちが無力であると、わかっただけなのだから。

「・・・私たちは。」

 彩華さんが、ようやく口を開いた。

「私たちは・・・。これからどうすれば・・・。」

 唇を震わせ、俯く彩華さん。

 その問いに答えられる者は、この中にはいなかった。



「・・・おっと、そうだった。少しテレビをつけていいですか?そろそろ見たいドラマの時間なので。」

 こんな時にテレビなんか・・・。

 俯いた二人の無言の訴えを無視して、リモコンでスイッチを入れる。ちょうど、定時のニュースをやっていた。

『・・・によりますと、昨日夕方5時頃、警察による一斉検挙がありました。逮捕されたのは風俗店「ガールズオブクイーン」の経営者と、従業員11名で・・・。』

 最初に気づいたのは、彩華さんだった。うつろな目のままだが、テレビの方を向いて耳をそばだてている。明彦氏もそれに気づき、二人はいつの間にか立ち上がってニュースに聞き入っていた。

『・・・で、所謂ぼったくりバーと呼ばれる違法風俗店であり、警察では余罪を追及する方針です。また、詐欺グループが頻繁に客を斡旋していた闇金業者にも、併せて捜査の手が入った様です。なお逮捕時、容疑者らは妙な格好の男が・・・』

 プツン、とテレビのスイッチを消す。

 その拍子に、二人も同じくスイッチが切れたように崩れ落ちた。

「おやおや。悪いことは出来ないものですね。」

 少しわざとらしかったかもしれないが、少々陽気な声で言ってみた。

「安町さん、これは・・・。」

「探偵という職業柄、警察関係者にも友人は多いもので。実は昨日、警察が検挙をした時に、私の依頼人が被害者かもしれないと教えてくれましてね。で・・・、本来こんな物は、証拠品として扱われるので、こんなところに回ってくる物ではないのですが・・・。」

 事務用机から、A4サイズの封筒と小さな茶封筒をだし、二人に差し出した。

「これは・・・?」

「まぁ、良いから開けてみてください。」

 おそるおそる、二人はそれぞれ封筒を開けた。

 ―――借金の借用書と、50万円の現金が入った封筒を。

「や、安町さん!」

「先ほど話した友人が届けてくれましてね。現金の方も、店の隠し金庫からこっそり持ってきてくれたようですよ。」

「じゃあ・・・これで・・・!」

「ええ。そういうことです。」

「あ…ああ・・・。」

 安堵と驚きで力が抜けたのか、二人とも涙を流しながらへたり込んでしまった。

「これで・・・全部・・・もう・・・。よかった・・・よかった・・・。ごめん・・・。ごめんな、彩華・・・。ごめん・・・。」

「よかった・・・。よかったよぉ・・・。」

 全てが終わった。そう確信した明彦氏は、彩華さんを抱きしめながら涙を流す。彩華さんもそれに答え、二人で抱き合ったまま、大声で涙を流していた。

「明彦さん。あなたは私に、結婚自体を無かったことにしたい。過去をやり直したいといいましたね。先ほどのケンカもそうですが、どこか変に相手を煽っている、無理矢理にでも離婚を推し進めたい、そんな違和感があったんです。」

「やっぱり、気づいてたんですね・・・。」

 私の言葉に、涙をぬぐいながら明彦氏が立ち上がった。

「ええ。私も最初は単に離婚したいだけだと思っていました。シャツにわざと(・・・)口紅をつけてまで。」

「・・・すごいですね。そこまで見抜いていたなんて。」

「ええ、これでも探偵ですから。ですが、そこまでされたのは奥様に迷惑をかけないため、だったんですね。」

「はい・・・。ここまで情緒不安定にさせてしまったのは、きっと僕のせいなんです。なので、これ以上苦労をさせたくないと・・・」

「気持ちはわかります。ですが、それがそもそもの間違いなのです。

 確かに奥様は、私とお話ししている時も常にイライラして、情緒不安定でした。よく結婚したなーと感心するくらいでしたよ。ですが、夫婦ならまず、その原因を突き止めないといけませんよ。」

「ええ、ですから今後は二人で不満を話し合って行こうと・・・。」

「いいえ、それも不正解です。」

「え?」

 二人とも、きょとんとした顔だ。それはそうだ。当の本人が気づいていないのだから。

「彩華さん。あなた、最近よく汗をかきますか?」

「え?ええ、もうすぐ夏ですし・・・。」

 唐突な質問に、少し戸惑った様子の彩華さん。

「では、少し答えづらいかもしれませんが・・・毎月生理はきちんときていますか?」

「なっ!?」

 これには思わず顔を真っ赤にしていた。・・・というか、一瞬にして殴る体制をとっていた。

「わわわわ!べ、別に変な意味で聞いたんではないですよ!ただ、イライラしたり情緒不安定で、汗を良くかくようになるって、妊娠の初期兆候に似ているなと思ったので!」

 恐怖のあまり手をバタバタさせながらの弁明になてしまった。我ながらかっこ悪い・・・。

 しかしそのおかげか、彩華さんの手が止まった。

「にん・・・しん・・・?」

「こ、コホン。ですので、妊娠の初期兆候ではないかと思ったので、聞いたんです。」

 わざとらしい咳払いで、何とか体裁を保つ。・・・保てたのだろうか。

「た、確かにここ2ヶ月ほど来てませんが、私は元々定期的に来るタイプではないので・・・。」

 顔を赤めたままだが、今度は答えてくれた。そして、ようやく自分たちのケンカの原因、彩華さんのわけのわからないイライラの理由がわかってきたようだ。

 二人は再び、喜びに抱き合い、独り身の私はそれを複雑な気持ちで見つめることになったのは、もはや言うまでも無い。

「ではこれにて、調査報告を終わります。」



「やれやれ・・・。」

 二人が帰った後、独り言と共にため息が出た。

 これにて一件落着。二人はこのまま産婦人科に行くと、手をつないで出かけていった。

 今度彼らが訪れたときには、何かお祝いを用意しておいた方が良いかもしれないな。

 おっと、一つ、まだほったらかしにしたままだった。まずは本棚を横にスライドさせて・・・っと。この本棚が意外と重いが、動かさないとこの「扉」が出てこない。

 実はこの事務所の中には、いくつかの仕掛けがしてある。先代の管理人、つまり祖父が趣味で作った物だ。いたる所に隠し部屋やらなんやら・・・。本棚の裏のこの「扉」も、その隠し部屋の一つだ。

 しかも誰かに見つかっても、この扉を開けることは出来ない。私が持っているこの専用のドアノブを、こちらから開けるときだけ、差し込まなければ開けられないからだ。

 私はドアノブを差し込み、重たい「扉」を開けて中に入った。薄明かりしかない部屋の中は、少し空気が淀んでいる。

「いやぁ助かりましたよ。あなたの証言のおかげで、あのお店は一斉検挙。芋づる式に色々捕まって、もう万々歳ですね。」

 部屋の中央で、パイプイスに座っている女性に声をかけるが、ヘッドフォンをしているせいか返事はない。それに、ぐったりと俯いている。

「おっと、これでは聞こえていませんよね?もしくは・・・。」

 パイプイスに|縛り付けられ、目隠しとヘッドフォンをした女性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・には、まだ私の声は届いていない。

「もう死んでしまいましたか?」

 だらしなくヨダレを垂らす女性のヘッドフォンをとってやる。近づいた時に水たまりを踏んだが、この女性が漏らした物だろう。少し異臭がする。

「あ・・・う・・・。あぁ・・・。」

「おや、生きていましたか。どうですか、人の断末魔や悲鳴を大音量で丸三日聞かされた気分は。」

 目隠しもとってやる。まぶしさで目をくらませるかと思ったが、もはや心身消失で何も感じないようだ。うつろに明後日の方向を見たままだ。

「も・・・う・・・やめ・・・て・・・。わた、しが・・・悪・・・か・・・た・・・」

 息も絶え絶えといった風だ。

 まぁ無理もない。丸三日、この部屋に目隠しをして監禁し、人の断末魔と叫び声を大音量でずっと聞かせ続けたのだ。何度も叫んだりしたのだろう。女性の声はガラガラだった。

「まぁ、自業自得という物ですね。それに、あなたが中々口を割ってくれないからこうするしかなかったんですよ。」

「りゅ・・・いち・・・は・・・」

「ああ。お連れの男性の方ですか?彼なら先に外に出ましたよ。借用書と現金を取ってきてもらわなければなりませんでしたから。ただ、残念ながらそのまま逃げてしまったようです。おかげで、私が直接説得(・・)しに行かなければなりませんでしたよ。」

「そ・・・・・・な・・・。りゅう・・・い・・・ち・・・。」

「おやおや、少しずつ意識が元に戻ってきましたね。」

「い・・・いや・・・も、う・・・やべて・・・・」

「そんなに泣いてもだめですよ?私はね、貴方たちのように人を陥れる方々、特にあなた方のように手の込んだ罠で人を追い詰める(やから)が特に嫌いでしてね。もう少しここで反省していてもらいましょうか。」

「い・・・。いや・・・!いや!」

 首を振る女性に、再び目隠しをする。再び戻った闇に恐怖したのか、失禁してしまった。

「おやおや、汚いですね。靴が汚れましたよ?お仕置きに、音量を三倍にしてあげましょう。」

「い、嫌っ!嫌嫌嫌っ!

 ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

「謝るのなら、最初からこんなことはしないことです。あなたが聞いた悲鳴と断末魔、すごいものでしょう?でもね、あなたが過去に追い詰めてきた人達も同じような叫びを上げて、中には死んだ人もいるかもしれませんよ・」

「ごめんなさい!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

「あなたは過去に戻ってやり直したいと、こんな事なら悪いことに荷担しなければ良かったと思ったでしょう?許しを請う前に、まずはその反省を、誠意で見せなければ。」

 そっと女性の頭をなでてやると、体の震えが伝わってくるのがわかった。

「ど・・・ど、どうずればいいんでずか・・・?わだじは・・・わだじは・・・!」

 恐怖にがくがくと震える女性。もう恐怖以外の感情はなくなってしまった様だ。最初に連れてきたとき綺麗な容姿が、今はよだれやらなんやらで見るも無惨な姿だ。

「んーそうですねー・・・。」

 わざとらしく考えこむふりをするが・・・。もちろん許すことはもちろん出来ない。

 何度も言うが、私は彼女たちの様な輩が大嫌いなのだ。

「・・・やっぱり、無理ですね。あなたは罪を重ねすぎた。」

「い、いや!いや、いや!」

「あなたが踏みにじってきた者たちの声を聞いて、その心に刻みなさい。」

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 悲鳴をあげる女性に再びヘッドフォンをつけてやる。そして音量上げると、がたがたと痙攣を起こしながら、派手な色の唇で叫び続ける。

 完全防音の部屋の中で、女性の声はただむなしく反響していた。




『・・・ました。この容疑者の女性は1週間前から行方が分からなくなっていました。警察によりますと、発見当時、女性は心身消失状態で、悲鳴が聞こえる、やり直したいなどと意味不明な発言を繰り返しているとのことです。先日河川敷で発見された男性と同じ状態に陥っているため、警察では関係性を調べる方針です。では、次のニュースです。大手出版社の贈収賄疑惑について・・・・・・。』



 ――――――――――――――――――――――――――――――301号室 矢田夫妻の災難 終

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