301号室 矢田夫妻の災難-①-
人は誰しも、もう一度やり直したいと思う過去がある物だ。
それは些細なことであったり、その裏には大きなことが隠れていたり、いなかったり。
もちろん私だって例外ではない。このマンション「安楽荘」の名前を登記した時だ。
まず、「荘」がつくだけでダサく思えてしまう。もっと「コーポ○○」とか「○○キャッスル」とか、そんな名前にすれば良かっただろうかとも思う。そうすればもっと部屋を埋めることができたはず・・・。
そして今回、事務所の扉を叩いた相談者、301号室の矢田昭彦氏(29)も、そうした思いを持った一人だ。
「浮気したでしょ!!」
ある日、仕事から帰宅した昭彦氏を、妻の彩華さん(27)が問い詰めたそうだ。
「今日クリーニングに出したシャツに変わった色の口紅がついていたわ!ジャケットの上着からはいかがわしいお店の名刺と・・・ホテルのライターまで出てきて・・・!これはどういうことなのよ!?」
まぁ内容としては、夫婦生活においてよく聞くことと言えばよく聞く、「あなた浮気したでしょ」事件だ。
「その晩は、いくら説明しても聞いてもらえませんでした。全部濡れ衣なのに・・・」
事務所の接客用ソファで、そのまま埋もれそうなほど肩を落とした昭彦氏が語る。普段は、見るからに「出来る若手のサラリーマン」といった風貌だが、それが今はしおれた植物のようだ。せっかく出した紅茶には手もつけていない。高い葉なのに・・・。
「元々疑り深い上に嫉妬が激しい性格だったんです。それが最近、さらに酷くなって・・・。」
「まぁ誰しも間違いはありますよ。私だって昔は・・・」
「だから!僕は浮気はしていないって言っているでしょ!?」
机を叩く音が響く。ものすごい剣幕だ。
「口紅は満員電車でたまたまついた物!名刺は接待で言ったクラブの物!ライターだって、たまたま持っていなかったから同僚にもらった物なんです!本当なんですよ!っていうか、前々から思ってましたけどなんなんですかその帽子とマント!ふざけてるんですか!?!?」
唾が飛んでくるほど強い口調でまくし立ててくる。口角泡を飛ばすとはこの事だなと実感した瞬間だった。
「いやふざけてませんよ。これが私の仕事着みたいな物でして・・・。」
「・・・あんた本当に探偵ですか・・・。そんな格好で調査とか尾行とかできるんですか。」
「いやぁこれが案外効果ありまして。中々口を割ってくれない人にはこれで迫ると色々話してくれましてね」
「シルクハットとマントの怪しいファッションアゴヒゲのおっさんに迫られたら誰でも怖いわ!」
正直、少し傷ついた。このファッションアゴヒゲはそんなに怪しいだろうか・・・。
「おっさんとは酷いですねー。これでもまだ30代前半・・・。」
「いやそんなことはどうでもいいんですよ!ていうか思ったよりも若いな、オイ!」
怒濤の突っ込みだ。この人には関西人の血でも流れているんだろうか。
「とにかく!私はやってもいないことを疑われているんです。この無実を晴らすことと、それからもう一つ、依頼をしたいんです。」
軽く咳払いし、少し落ち着きを取り戻した様子で昭彦氏が切り出してきた。
「それならまず、やったことを白状して謝るか、それがだめならいい弁護士を紹介し・・・」
「だからやってませんてば!」
またもや口角泡を飛ばす、だ。このやり取りがだんだん楽しくなってきた。
「それに!妻だって浮気しているみたいなんです!」
楽しくはなってきたが、この言葉には少し驚いた。
これは真面目に対応しなければと、背筋を伸ばした。
「・・・なぜ、そう思われるのですか?」
「3日ほど前、会社の外回りに出たとき、妻の彩華が知らない男と喫茶店に入るのを見たんです。最初はただの友人かとも思いましたが、あまりにも親密そうに話していたので・・・。」
「では、もう一つの以来とは・・・」
「は、はい・・・。妻の、浮気調査です。」
少しためらいながらも、昭彦氏は言った。
こうなると色々とややこしい。
「ちなみに、そのお相手の男性は誰かご存じでは?」
「もちろん知りませんよ。初めて見た男です。後ろ姿だけですが、長身で細めの…。念のため、写メだけはその場でとったんですが。」
ズボンのポケットから携帯を出そうとする昭彦氏。
ふむふむ。とっさにしては良い判断だ。
「これが、その時の写メです。」
ポケットから出した携帯を受け取り、問題の写真を見せてもらった。
「あ・・・。」
今度は驚きのあまり、つい声が出てしまった。
「知っているんですか!?この男!?」
昭彦氏は、その声を聞き逃すことはなかった。身を乗り出してこちらの顔をガン見している。
「あ、いえ。この喫茶店、よくいく店だなと思いまして…。」
とりあえず驚きをもう一度喉の奥に引っ込めることに成功した。・・・顔に出ていないか心配だ。
「なんだ、そうなんですか・・・。」
またがっくりと肩を落とし、そのままソファに座り込んでくれた。どうやら、顔には出ていなかったようだ。
「しかし、あなたが言うほど親密そうには見えませんが…」
手元の写メにもう一度目をやり、なるべく真面目な口調で返してみる。
「写真にはありませんが、妻が泣きながら何かを話していたんです。内気な所もある妻が、あんな風に他人と話をするところを見たことがなくて…。」
なるほど、そういうことか。そりゃ夫からしてみれば、自分以外の男に涙を見せていたら、親密そうに見えても仕方がないか・・・。
「わかりました。」
すっと立って帽子を取り、昭彦氏に一礼する。紳士たる者、礼節も重んじねばならない。
「あなたの依頼、引き受けましょう。」
「あ、ありがとうございます!」
さっきとは打って変わって、とても嬉しそうな表情だ。握手を求められ、少しためらったがその手を握り返した。
「ただし、昭彦さん。あなたに一つ質問です。」
少し強めの口調で切り出した。
「調査の結果いかんによっては、あなた方の夫婦生活は破たんしてしまいます。それでもかまいませんか?」
しばらくの沈黙。それもそうだ、こんなこと言われたら誰だって尻込みして、場合によっては依頼の取り消しを・・・
「かまいません。」
あれ?
「結婚当初は二人で仲良く生活をして、そりゃ疑い深いところや嫉妬深いとこはありましたが、うまくやっていたんです。」
再びソファに腰を落とし、昭彦氏の話を聞くことにした。
「それが最近じゃ、何をするにも無気力で常にイライラしてて。ここ1ヶ月ほどは、まともな食事すら作ってくれなくなりました。自分が気持ち悪くて食べられないからって・・・。」
「奥様は、どこかお体の具合が?」
「分かりません。」
少し俯いたまま、首を横に振る昭彦氏。
「フルーツなんかは食べられるようです。病院に行くことも勧めましたが、病院は嫌いだと・・・。」
子供みたいなわがままだな、と思ったがなんとか口には出さなかった。
「結婚してもう3年・・・。正直、この生活にうんざりしてきたんです。もしできるなら、過去に戻って最初から・・・。いや、そもそも結婚自体を無かったことにしたいとすら思い始めたんです。
だから、お願いします。結婚生活が破綻してもいい。真実を知りたいんです。」
なるほど。彼がそれなりの覚悟をしてここに来たことは分かった。
だが・・・。何だろうか、この違和感は。
「では、改めて。あなたの依頼、引き受けましょう。」
そう言って、今度は私から手を伸ばした。
握り返した彼の手は、何故か汗でぐっしょりしていた。
「さぁて、面倒なことになったなぁ・・・。」
昭彦氏が帰った部屋の中で、思わずため息と独り言が出てしまった。
依頼が二つあることは別に珍しくない。ただ、その内容だ。
写真に写っていた男。私はこの男を確かに知っている。
なぜなら・・・。
「これ、私です・・・なんて言えないよなー。」
-3日前-
「結論から申し上げると、旦那様は浮気をしていない可能性の方が高いですね。」
古びた雰囲気の喫茶店の中で、私は昭彦氏の妻、彩華さんにこう告げた。
なんでも、浮気をしている証拠3つを見つけたそうだ。
見つけたそうだが・・・。
「彼の会社の同僚や上司を調べ、出待ちして伺った情報です。名刺については、2週間ほど前に上司の方と共にクラブへ接待に行った時の物だそうです。さらにライターについても、同僚の方が同じ物を持っていました。なんでも彼女と一緒によく行くのだとか・・・。タバコを吸うのに明彦さんが貸して欲しいといわれた物を、そのまま差し上げたそうです。」
向かい合った女性、彩華さんは俯いたまま冷静に・・・とは言いがたい様子でこちらの話を聞いていた。俯いているせいか、肩の辺りから何やら禍々しいオーラでも立ち上っている様に見えてしまう。
私自身も、誰かに見られたらまずいと仕事着のマントと帽子の着用を断固として拒まれたので、少々落ち着かない気分なのだが・・・。スーツは着ているのに、なんだか裸の様な気分だ。
「ですので、彼の浮気の可能性は大変低いと・・・。」
「可能性なんてどうでもいいんですよ。うちの昭彦さんは、浮気してるんですか?どうなんですか?」
俯いたままの彼女から、明らかにイライラした声で質問してきた。長い髪が垂れて顔を隠しているので、まるで怪談物に出てくる幽霊のような雰囲気だ。
「いやですから、証拠品の裏付けは取れたんで、旦那様は浮気をしていないと思われ・・・。」
「思うじゃ話にならないの!!」
怒鳴り声と机を叩く音が店内に響く。店内に客が少ないのが幸いだったが、周囲の視線を一斉に浴びるというのはあまり気持ちの良い物ではない。
「だって昭ちゃんのシャツに口紅がついてたんですよ!?変わった色の!それも首元に!なのにどうして浮気していないと思うんですか!?」
目にいっぱいの涙を溜めながら、私に食い下がってきた。いつもの普通の表情なら、童顔で可愛い顔をされているのだが・・・。
「いやですから、それは偶然ついた物としか言い様が・・・。第一どうやって調べるんですか。」
「そんなの臭いとかで調べてよ!」
「私は犬ですか!?」
「もうおしまいよ・・・。私の何がいけなかったのよ・・・。がんばって良い妻であろうとしたし、家事だってがんばってきたし、何よりこんなにも愛しているのに・・・。」
ポロポロと涙を流す彩華さん。っていうか犬扱いしたことは無視?
「私だって疑いたくはないわよ・・・。でも・・・でも・・・。」
ううう、と泣き崩れてしまった。
私はこういった女性の扱いが大変苦手だ。そもそもこの人、ずっとイライラしてると思ってたが、こんなにも情緒不安定とは…。よく結婚したな、昭彦さん。
「ですが、これだけ裏付けが取れていますし、何より旦那様が浮気をされるとはとても思えな…。」
「だって!彼禁煙するって言ったのに嘘ついてたんですよ!?人からライターまで借りて!」
ガバっとこっちを向いてきた。その顔は涙と鼻水でデロデロになっていたのは、言うまでもない。
「他にもきっと嘘をついてるのよぉ!」
ワーッっと泣き出した。こうなってはもう手におえない。
とりあえずその場は彩華さんをなだめ、再度調査したのちにもう一度報告することを約束し、そのまま別れて帰ることにした。
「本人の希望で外で会ったが、やはり事務所にしておくべきだったかなー…。」
またも独り言が出てしまった。一人暮らしが長いと独り言が増えるというのは本当かもしれないな。
それにしても、気になることがいくつもある。確かに彼は浮気はしていないのかもしれない。だが、それとは別で何かを隠している風な部分もある。
それに、浮気の証拠とされているあのシャツの口紅も気になる。
話でしか聞いていないが、明彦氏の首元についていたとか。そもそもそんな所についていたら、服を脱ぐときやトイレの鏡なんかで気づくはずだ。
それに、明彦氏の身長は185cm以上あって私よりも少し高いくらい(おっと、見栄ではない)だが、そんな人の首元に口紅をつけられる人は、果たして何人いるのだろうか。
彩華さんにも、少し気になる点はあるが・・・。
何かが、おかしい。彼の言動には、どこか違和感というか、ズレがある。これはもっと調査する必要がありそうだ。
本当に離婚してしまったら、貴重な住人が減ってしまう。
(もう少し明彦さんの身辺調査と、それに明彦さんが接待で行ったという店にも行ってみるか。)
そう思い、いつものマントとシルクハットを手に、外へ出ようと扉を少しあけた所…。
(おや?昭彦さん?)
先ほど相談に来ていた昭彦氏が、ちょうどマンションの玄関をいそいそと通過していった。
こちらに気付かないほど、何やらずいぶんと急いでいるようだが…。少し気になるので追跡することにした。先ほどの違和感の事もある。
ひとまず仕事着に着替え、彼がある程度離れてから事務所を出ることにした。
追跡開始からおよそ1時間-。
夕暮れ迫る町中を突っ切って来たが、明彦氏が「ある場所」に入ったまま出てこない。
明彦氏が入っていった場所。そこは――
(消費者金融。しかしここは・・・。)
マンションから見て、駅の反対側にある雑居ビルの中の、「いかにも」といった風の消費者金融。
近所からもあまり評判の良い場所ではなく、出入りしているのもどう考えても「あっち側」の人たちだ。
(借金の返済だろうか?)
そう思ったが、それにしては中に入ってからが長い。
この雑居ビルまで、マンションから徒歩でおよそ15分。そこからビルに入って、もう30分以上が経過している。
(いったい、中で何を・・・。)
乗り込むわけにも行かないので、ビルの出入り口が見える物陰から、彼を待つことにした。
妻に内緒で借金くらいする人もいるだろうが・・・。
そうこうしているうちに、明彦氏がビルから出てきた。
―――手には怪しげな、分厚い封筒を持って。
(ちょっと入り用で、って金額じゃなさそうだな・・・。)
探偵の性と言うやつだろうか。流石にここまで見てしまった以上、事の顛末を見届けなければ。それに、違和感の正体も分かるかもしれない。
私はそのまま、明彦氏の追跡を続行することにした。
明彦氏は駅前でタクシーを拾い、私もその後ろからタクシーで追跡。所謂「前の車を追って」というやつだ。
一度は乗車拒否されたが、なんとか乗せてくれるタクシーを見つけて追跡。
今度は町はずれにある病院らしき場所に止まったのだが、私はその建物の看板を見て驚いた。
(産婦人科?)
なぜ彼がこんなところに?
奥様が一緒でないなら、もしかしたら内緒で不妊治療でもしているんだろうか?だが、あの彩華さんの様子、それに不妊治療にあんな高額そうな借金は必要ないはずだ。
そう思いながら監視を続けているが、彼は一向に院内に入ろうとしない。
玄関近くで周りをキョロキョロしながら、誰かを待っている様子だ。単純に、ここが待ち合わせ場所なのだろうか。
(となると、待ち合わせ相手は・・・。)
いやーな予感しかしない。
そうしているうちに、とうとう相手が来たようだ。
キャバクラにいそうな、濃い色の口紅をした派手目の女が。周りには親族なのか、男が一人。明彦氏を睨み付けながら立っている。
(あっちゃー・・・。)
やはり浮気をしていたのか。しかもこんな場所で落ち合うとなると、あのお金はまさか・・・。
「ちょっと失礼しますよ。」
明彦氏がその場から帰った後、彼が待ち合わせをしていた女性に声をかけた。
「私、探偵の安町と申しますが、矢田明彦さんについて少しお話を・・・。」
これで真実が分かる。そう確信したからだ。
――――――――――――続く。