魔法はかかった
ひざ上三センチ。
周囲の女子生徒と比べたらお利口さんなスカートが、濡れた。
キャップの空いたミックスジュースが、上から降ってきたのだ。
ちょうどわたしは弁当箱を机に広げ、手を合わせたところだった。
冬服の分厚い生地が、太ももへの浸水を防いだことだけは幸いだ。
「わあ、ごめんねー」
悪びれた様子のない謝罪に、昼休みのにぎやかな教室が凍りついた。
けれどそれは一瞬だけで、すぐに忍び笑いがざわめく。
女子特有の、吐息みたいな笑い方。
はて。どうしたものか。
顔を上げたくない。
わたしの肩から下は甘く香っている。
わたしだって高校生の女の子だから、自分の体が甘い香りを漂わせているなんて、喜ばしいことだろうに。
こんな状況でさえなかったら。
ああ。せっかく何事もなく、一週間が終わろうとしていたのに。
誰にも聞かれないように、こっそりとため息をつく。
高校生とは、他人のうわさ話が大好きな生き物だ。
これでわたしは今日の残り半日、そして来週あたりまで、こそこそ笑われる覚悟をしなければならなくなった。
ごみの日のごみ捨て場には、カラスが群がる。それと同じだ。
カラスの気がすむまで、ごみはつつかれ続ける運命にある。
静かに騒ぎ立てるクラスメイトたちは悪くない。
わたしはどんくさくて、引っ込み思案で人見知りをしてしまう。
うつむくばかりで、なにも言い返せない。だから、わたしが悪い。
なにも言えないから、なにかを言われるんじゃないか。
勇気を出して顔を上げる。
へらっと笑う鴉間(からすま)くんと目が合った。一応、眉が垂れ下がっている。
ミックスジュースの持ち主が彼であることが、なによりの不運だろう。
みかん色の髪をかき分けながら、鴉間くんは間延びした口調で言う。
「佐藤さん、制服、濡れちゃったね。ジャージ持ってる? って、今日は体育ないし持ってないか」
学生服のボタンは五つ全部、開いている。
下に着ている黄色のシャツが眼に痛い。
参ったなあ、が、どこまで本気なのか。
わたしにはわからなかった。
「あーあ、鴉間サイテー」
「ぶっかけるのはベッドの上でだけにしなよお」
「佐藤さん、かわいそー」
鴉間くんは教室中の揶揄を一喝して、ため息をついた。
わたしだって、ため息をつきたかった。手足が震える。うまく体を動かせない。
校則違反をして着飾ることに夢中な人種に、鴉間くんは人気がある。
軽いノリと派手な見た目、歯の浮くような会話の受け答えや浮ついた話し方、自然と人が集まるほどの存在感。
わたしがもっとも苦手で、極力関わりたくないタイプの代表が、鴉間くんだ。
「ほんっとにごめんね。立てる?」
「怪我したわけじゃないんだから、立てないわけないっしょ」
誰かが勝手に答えた。けらけらけら。手をたたいて、笑いながら。
消えたい。みじめだ。
わたしは鴉間くんから目をそらし、ひざの上に握ったこぶしを見つめた。
「とりあえずまあ、うん、行こうか」
顔を上げて発言の意味を確かめるより先に、二の腕を掴まれた。
鴉間くんに引っ張られるままに、立ち上がる。
彼の整った顔が苦笑していた。
さっきのへらっとした笑い方に似ていても、口の持ち上げ方が少しだけ違う。
なるほど。鴉間くんはこうやって女の子を落とすんだ。
強い力に引っ張られながら、わたしはそんなことを思った。
鴉間くんの歩幅は男のものだ。
当然、わたしのものよりも大きい。
わたしは足がもつれないように気をつけつつ、ついていくのが精一杯だった。
教室を出て、廊下を歩いている間に、鴉間くんは何度も名前を呼ばれていた。
その度に手を振って、一言二言あいさつをする。
わたしの頭一つ分くらい高い位置にある口は、軽やかによく動いた。
その上、笑った形を崩さないときた。
わたしは引っ張られるままに、普通教室の並ぶ本館を後出る。
特別教室ばかりが集まる別館に踏み込む。
こっちの校舎はずいぶんと静かで、二人分のスリッパが鳴る音しか聞こえない。
「さあて。ついたついた」
音楽室や視聴覚室、図書館を通り抜けたところで、わたしの腕はようやく解放された。
丸っこい瞳が表札を見上げる。
被服室。
授業では使ったことのない教室だった。つい身構えてしまう。
知らない場所に、うまく足を踏み入れることができない。
入口の前でもたついていると、室内からひょっこり顔を出した鴉間くんが、被服室の中から手招きしていた。
「なにしてんの、おいで」
これまで関わらないようにしてきて、関わらずにいたクラスメイトと、使ったことのない教室で二人きり。
息がつまる。さっさと自分の席に戻りたい。
おなかが小さく鳴った。早くお弁当を食べたい。
少し迷って、結局は言われた通り、鴉間くんに歩み寄る。
四人一組で座れる大きな机が九つ並ぶ。教室の前に黒板があって、窓際や後ろに棚がある。
それだけ見れば理科の実験室と変わらない。
けれど、ビーカーやフラスコ、標本の代わりに、ミシンや裁縫道具、折り紙があった。
教室の後ろには、二体のマネキン。男の子と女の子。
それぞれのこの高校の制服を着ている。
見下ろされているみたいで、わたしはますます息苦しくなった。
鴉間くんは女の子のマネキンの前で微笑んでいる。
優しげな瞳を向けているのは、本物の女の子ではなくて、作り物なのに。
鴉間くんには、生きていてもそうでなくても、女の子は女の子なのかも知れない。
「佐藤さん、本っ当にごめん。ほら、これに着替えなよ」
言いながら、フェミニストはマネキンに手を伸ばし、制服を脱がしていく。
するすると、戸惑うことなく、慣れた手つきで。
流れるような華麗な動きに、思わず釘付けになってしまう。
ぼうっとしているうちにマネキンは裸にむかれた。
鴉間くんは冷たそうな制服を適当にたたみ、わたしに差し出した。
「……えっと」
「これに着替えな。濡れたままだといやじゃん」
「え、あの、でもこれ勝手に」
「大丈夫だと思うよー、たぶん」
たぶん。
なんと無責任な。
受け取ってもいいものか。
戸惑うわたしの手に、スカートのひだが触れる。
揺れるたびに、くすぐったい。
結局、反射的に、先端をきゅっと握ってしまった。
同時に鴉間くんが手を離す。カッターシャツとスカートが、わたしの手の中から垂れ下がる。
「脱いだら貸してね」
「へ?」
「佐藤さんの制服。脱いだら貸して」
「な、え、なんで」
「クリーニング、出しとくからさ」
「えっ、そんな、でも」
「じゃ、廊下で待ってるから。着替えたら制服、貸してな」
有無を言わせない。
なんと強引なやり方だろう。
鴉間くんの取り巻きたちを思い浮かべる。
こういうところも、胸がキュンとくるポイントなのだろうか。
わたしには首をかしげ、ため息をつく原因にしかなりえない。
裸にむかれたマネキンと見つめあってみる。
無表情だ。マネキンはまっすぐ、正面だけを向いている。
ごめんなさい。あなたの制服、借りますね。
なんとなく、頭を下げた。
カーテンを閉めて、机の影に身をひそめる。
誰もいない教室で一人、着ているものを脱いでいく。
妙にドキドキした。心臓の音と、唾を飲み込む音がうるさい。
どちらも自分のものなのに、うまく調節ができないのがもどかしい。
袖を通す。脚を入れる。
スカートもカッターシャツも、生身のわたしに、しっくりと肌になじまない。
借り物の制服は新品ではなさそうなのに、どこかぱりっとしていて堅苦しい。
サイズの心配は必要なかった。
スカートはウエスト部分を調節すれば、わたしもマネキンと同じく、ぴったりはけた。
シャツも袖を二回まくればちょうどいい長さだ。
その場でくるりと一回転。スカートは、ちゃんとふくらんだ。
「思ったより早かったね」
濡れた制服を抱えて被服質を出ると、本当に鴉間くんは、わたしの着替えを待っていた。
ドアを開けてすぐ、堅い音に反応して、犬のように元気よくこっちを向いた。
「女の子の着替えって、時間がかかるものだと思ってたなー」
陽気な彼は、さも当たり前のように、わたしから制服を奪う。
一瞬の出来事だったけれど、乱暴ではなかった。
鮮やかで、自然で、優雅な手つき。
軽くなったわたしの手のひらに、すうっと風が吹く。
「明日か明後日には返せると思うから、それまではそのスカートで我慢してね。
こっちが汚しといて我慢させるってのも変な話だけどさー。本当にごめん」
顔の前で両手を合わせると、鴉間くんは目をぎゅっと閉じた。
心臓が小さく鳴る。
鴉間の口が笑った形を崩したのだ。
そんな表情、はじめて見た。
わたしはとっさに、首を横に二回振った。
そうしてから気づいた。
彼は目を閉じているから、言葉にしないと伝わらない。
いつもと違うクラスメイトの顔つきに、動揺している場合ではない。
「ううん。平気」
「ジュースかけられて、佐藤さん、平気なの」
恐る恐るといった様子で、鴉間くんが目を開ける。
「え、いや、あの、そこじゃなくて」
「あー、でもよかった。一生恨むとか言われたらどうしようかと思った」
ほっと胸を撫で下ろした鴉間くんの口は、また笑った形に戻っていた。いつの間に。
一生恨むだなんて、そんなこと、ここまでしてもらっておいて言えるわけがない。
わたしの知る鴉間くんの性格からして、着替えを用意してもらえるとは思っていなかったのだから。
ふと、鴉間くんが不思議そうにわたしを見下ろしていた。
なんだか恥ずかしくて、わたしは思わず目をそらしてしまう。
「んじゃ、おれ、教室戻るわ。またなー」
ひらりと手を振って、鴉間くんが駆けていく。
またな、だって。
わたしも同じクラスだから、教室に戻れば顔を合わせることになるのに。
変なことを言う人だ。
●
「それで、ちわ、制服をそいつに貸したのか」
素直にうなずく。
わたしはこの幼馴染相手に、嘘なんてつけない。
図書室は静かだ。
部活動や放課後デートに精を出したいからか、わざわざ別館四階の一番奥のこの教室まで訪ねてくる生徒はほとんどいない。
西洋の歴史や伝統文化に関する本が、ずらりと二人を見下ろしている。
うつむかれると、真(しん)ちゃんの表情は読み取れなくなってしまう。
ただでさえ黒縁めがねが瞳を隠しているのだから。
そんなわたしの不安など知らないまま、真ちゃんは手にしている西洋魔術の本の表紙を、指先でそっと撫でた。
二年生の真は、幼稚園のころから変わらずわたしと仲よくしてくれている。
二人でずっと一緒にいた。
それなのにこうして表情を隠されてしまうと、真ちゃんがなにを考えているのかわからなくなってしまう。
真ちゃんがくるくるでふわふわの黒髪を上に向けた。
それとほぼ同時に、そっか、と小さなつぶやきが、わたしの耳に飛んできた。
「どうしてぼくに、もっと早く言ってくれなかったの」
眉を寄せた顔が、わたしを覗きこむ。
高校二年生になっても、真ちゃんの声は、幼稚園に通っていたころとそう変わらない。
もちろん声変わりをしたのだから、あのころのような高い声は聞けなくなった。
それでも落ち着いたトーンが、穏やかで優しい「宮村真」そのものを表していることに変わりはない。
わたしは、この声が好きだ。
「困ったことがあったらなんでも言ってって、ずっと言ってきたでしょ」
「急だったし、その、鴉間くんってけっこう強引で」
「鴉間?」
真ちゃんの声が、荒い。
わたしはぐっと息を呑む。
「鴉間って、鴉間里央のこと?」
「りお? 鴉間くんってそんな名前だったんだ」
下の名前で呼ばれているのを聞いたことがなかったから、はじめて知った。
「一年の鴉間里央。有名じゃないか。
女の子をとっかえひっかえしながらも、いつも必ず一人は隣に連れ歩いているって。
この間、ぼくのクラスの女の子も、鴉間に泣かされたみたいでさ。
その子と仲のいい女の子グループが、一日中カリカリしてたよ」
いつもと同じ、のんびりした口調だった。
それでも目が笑っていない。
わたしはちゃんから目をそらし、自分の上履きを見つめた。
「ちわ」
千綿という名のわたしを「ちわ」と呼ぶのは、真ちゃんだけだ。
大きな手のひらが、わたしの髪を上からなぞる。
「ぼくはこれからも、ちわを守っていくつもりだよ。
子供のころから同じように、隣にいてほしいんだ。
ちわといると、ぼくはどこまでも、なんでもやれるように感じるから、だから」
髪に触れていた手は、いつしか肩の上にあった。
気づいたとたん、強く引き寄せられる。
真ちゃんの、胸の中に。
「ぼくはちわが好き。ちわに泣いてほしくない。
約束して。鴉間とは、もう関わらないって」
そうは言っても、制服、返してもらわないといけないのだけどな。
小さな肩を支える手が震えている。
これは、気づかないふりをしたほうがいいのだろうか。
真ちゃんの口調も体温も穏やかなのに、どうして今日は、不安にさせるのか。
わたしはそっと、まぶたを閉じた。
鴉間くん。
ひょうひょうとしていて、いつもへらへら笑っていて、女の子にだらしがない。
今日だってジュースをこぼしておいて、まず初めに「わあ、ごめんねー」だった。
一瞬、わざとだろうかとも疑った。だって、鴉間くんから。
けれど着替えを用意して、汚した制服をクリーニングに出してくれるとまで言った。
本気で申し訳なさそうに、頭を下げて。
前ほど、関わりたくないとは、思わなくなった。
もしかしたら、いい人なのかな、と。思ってしまったくらいだ。
わたしは真ちゃんの背中にしがみついた。
鴉間くんと違って、真ちゃんはきっちり学生服のボタンをかっている。
その下には学校指定のカッターシャツがあることを、幼馴染だからよく知っている。
冬服への移行期間まっただ中だから、多少は着崩していても、ある程度は許される。
先生に指摘されるたびに言い訳をする生徒はたくさんいる。
冬服を着てきたけれど暑くなっただの、久しぶりに着ると息苦しいだの。
それでも真ちゃんは、きっちりと制服を着こなす。
温かい胸に顔をうずめたまま、わたしは小さく、うなずいた。
「……鴉間なんて」
ひとり言のように、真ちゃんは言う。
「鴉間なんて、本当に名前の通り、カラスにでもなっちゃえばいいんだ」
「カラス?」
「そう。鴉間だから、カラス」
真ちゃんの口は、ちょうどわたしの耳の位置にある。
吐息がこすれて、くすぐったい。
直接ささやかれているようだ。体のほてりを感じて、わたしは身じろぎをした。
もし、誰かきたら。
考えて、すぐにやめた。
誰もこないことくらい、よくわかっている。
この高校に入学して、もう半年がたったのだから。
「ちわ、知ってる? カラスはね、古代エジプトでは太陽の鳥って言われてたんだよ。
ギリシア神話では太陽神のアポロンに使えてたみたい。
イギリスのアーサー王は魔法をかけられてカラスになっちゃったんだって」
わたしは黙って聞いていた。
真ちゃんはおとぎ話や不思議な物語が好きなのだ。
この年になっても、こうして図書室で魔術の本を手に取って、真剣に読んでいる。
小学校の高学年になるまでは、将来の夢を聞かれると、必ず魔法使いだと答えていた。
「だけど、町で見かけるカラスはどう?
ニュースやドキュメンタリーで取り上げられるカラスは?
ごみをあさったり、猫の死体をつついたり、悪いことをして駆除されているだろ」
「鴉間くんもそうなればいい、ってこと?」
「ちゃらついて、ちやほやされて、でも実際は、対して褒められるようなことをしていないんだ。
同じじゃないか。カラスも鴉間も。ね、ちわ」
肯定するのをためらってしまう。
真ちゃんも返事は期待していなかったのだろう。
わたしが黙って固まっていても、なにも言わなかった。
いつしか表情も声色も戻っていて、いつもの子供みたいな表情でにこっと笑っている。
「さ、帰ろうか」
●
幼いころのアルバムを開いてみる。
幼稚園に上がる前までの写真は、ほとんど家の中か旅行先で撮られたものだ。
父と母はお見合いで知り合ったらしい。
お見合いがうまくいったから二人は結婚して、一人娘が生まれた。
わたしの母は、もともとこの町に住んでいたわけではない。
父と結婚して、こっちに住むようになった。
大人しくて人見知りが激しい母は、知っている人がいない場所に、自分から赴きはしなかった。
だからわたしは幼稚園に通うまで、家でずっと、母と遊んでいた。
幼稚園に入園しても、そこに母親はいない。
もちろん知っている子もいないしで、幼いわたしは毎日泣いていた。
だからわたしにとって、幼稚園にいい思い出なんてほとんどない。
幼稚園と聞いてわたしがぽわりと思い浮かべるのは、青い滑り台と、さびたブランコ。
わたしは園内でも、特にその二つの遊戯を激しく拒絶した。
ほかの子供たちは取り合ってまで遊んでいたけれど、わたしには、なにが楽しいのかわからなかった。
近寄ればけんかに巻き込まれて転んでしまうし、遠くから眺めていても、はしゃぎ声を上げた子供たちが群がっている様子に背筋を震わせていた。
怖い。
とにかく、そう思っていた。
みんなが同じところに集まって、同じものを囲って、同じことをする。
そうするために群れて、突っかかって、泣き出してしまう子もいるのに。
ほかのものには見向きもせず、それにばかり意識を集中させる。
まるで、憑かれてしまったかのように。
昼休みは、雨が降っていなければ、必ず外で遊ばなければならなかった。
わたしはいつも絵本を持ち出して読んでいた。
砂場の脇のベンチに、一人で座って。
ベンチの目の前には、ジャングルジムがあったのだ。
ちょうど視界をさえぎってくれて、滑り台もブランコも見ずにすんだ。
木の葉が赤や黄色に衣替えをした、秋の日のこと。
その日は絵本に集中できなかった。
一つ上の年中組の子供たちが、ジャングルジムのてっぺんで、よからぬ遊びをしようとしていたのだ。
「こっから砂場に飛び降りて、ちゃんと立てたやつがゆーしょーな」
男の子が三、四人、ジャングルジムから砂場に飛び降りようとしていた。
着地位置は、ちょうどわたしの正面になる。
もし、うまく飛べなくて怪我をしたら。
そう考えはしないのだろうか。
危ないと声をかけてやめさせるのも、その場から立ち去ることも、わたしにはできなかった。
知らない年上の子供が、すぐそばにいる。
緊張せずにはいられない。
泣き出してしまいそうなほどだった。
動く勇気なんて出てきやしない。
巻き込まれたらどうしよう。
わたしは絵本で顔を隠す。くまのイラストが、大きく目に飛び込んできた。
「わあ、くまさんだあ」
能天気なやわらかい声が、空から降ってきた。
女の子みたいな声。あの中に、女の子なんていただろうか。
わたしが驚いて顔の前から絵本をどかすと、今度は男の子が降ってきた。
男の子はしゃがんだ体勢で砂場に降り立つと、跳ね返った砂を体中につけたまま、わたしめがけて駆けてくる。
「これ、ぼくも、せんせえに読んでもらったよ。くまさんが魔法でお菓子を作るんだよね」
わたしはぽかんと固まった。まだ途中までしか読んでいない。
くまが魔法を使おうとしているシーンまでは読んだ。
その魔法でお菓子を作るとは、まだ書いていなかった。
「この絵本、ぼく、大好きなんだあ。ねえ、ぼくも一緒に読んでいい?」
物語の先を強制的に教えられたショックを受ける暇なんて、与えてくれなかった。
返事をするより先に、男の子はわたしの隣にぴょこんと座り、音読を始めた。
それが、わたしと真ちゃんの出会いだ。
年中組では、四月三日生まれの真ちゃんが一番早く年を重ねる。
だから真ちゃんはみんなのお兄さんをしていた。
その日から、わたしも真ちゃんの「妹」に加わった。
ほかの「弟」や「妹」とも仲良くなって、ようやく幼稚園に馴染むことができた。
わたしに気を配って、優しくしてくれる真ちゃんが大好きだ。
わたしと真ちゃん、どちらが先に、ほかの意味での大好きを持ち出したのか。
はっきりとは覚えていない。なるべくしてなったのだろう。
真ちゃんが一足先に中学校を卒業した日から、自然と交際を始めていた。
●
鴉間くんは女の子に囲まれて登校してきた。
肩からぶらさがる学生かばんは薄っぺらい。
かばんよりも、そこにぶら下がるキーホルダーやぬいぐるみのほうが重たそうに見える。
女の子たちは朝からなにかはしゃいでいる。
鴉間くんは静かに相槌を打って、へらへら笑う。
手首に下げているオレンジ色のかわいらしい紙袋が気になった。
女の子にプレゼントでも贈るのだろうか。
一昨日にマネキンから借りた制服を返したい。
作られたままの姿をしているであろう彼女に、こっそり着せに行ってもよかった。
でも、黙ってこそこそするよりは、きちんと恩人に一言告げてからのほうがいいように思う。
それなのに。
授業中、休み時間、昼休み、ホームルームの間。鴉間くんは常に誰かとしゃべっていた。
女の子だったり男の子だったり、大人数だったり二人でだったり。
その時々で相手は変わるものの、人気者はそこにいるだけで人を引きつけた。
そういえば、わたしの制服はどうなったのだろう。
クリーニングに出してくれると言っていた。
あの日以来、わたしは以前と変わらず、鴉間くんとかかわりを持たない学校生活を送っている。
真ちゃんと約束したから、というより、そっちのほうがわたしにとっての「日常」だからだ。
鴉間くんとはあの一件で、一つの接点ができた。
それでも、わたしの日常は変わらない。
「さーとうさん」
変わらない、はずだった。
帰りのホームルームが終わり、わたしはのんびりと帰る準備をしていた。
携帯電話には真ちゃんからメールが入っていた。
――部活の展覧会についての話し合いがあるから、遅くなりそうだし、今日は先に帰っててね。
申し訳なさそうにぎゅっと目を閉じた顔文字つきで、そうあった。
――わかりました。帰ったらまたメールするね。
送信ボタンを押したところで、後ろから声をかけられた。
振り向けば、鴉間くん。
珍しい。隣に誰も連れ歩いていないなんて。
部活に行こう。どこで遊ぶ? 掃除当番なんて面倒くさいよね。
にぎやかな教室の中で、わたしと鴉間くんだけが、黙ったまま向かい合っている。
振り向いたのはいいものの、わたしの頭はぐるぐる回っている。
日常が打ち破られたのだから、当然だ。
「これ、遅くなったけど」
さすがは鴉間くん。沈黙をやぶってくれた。
鴉間くんがまっすぐに差し出した、オレンジ色の紙袋。
見覚えがある。
そうだ、あれは今朝、鴉間くんの腕にぶらさがっていたものだ。
かわいらしいそれと、へらりと笑う鴉間くんを、交互に見やる。
「制服、クリーニングが終わったから。本当にごめんねー」
「あ、ああ、うん。こちらこそ、こんなに丁寧にありがとう」
受け取りながら気づいた。
この紙袋の色は、鴉間くんの頭の色と同じだ。
それじゃ、と鴉間くんが背中を向ける。
「ま、待って」
呼び止めた。
つい、腕をつかんでまで。
きょとんとまばたきをする鴉間くんと、視線がぶつかる。
顔が熱くなっていく。
まずい。これではうまく話せなくなってしまう。
「これ」
あわてて鴉間くんを離し、閉じかけていた学生かばんのチャックを開ける。
質素な本屋の紙袋を取り出して、鴉間くんに向ける。
「借りてた制服。ほら、マネキンの。どうすればいい?」
「あー、あれね。おれが戻しとくよ」
「じゃあわたしも一緒に」
「いーって、いーって。おれ、家政部だから。
被服室なんて部室だし、部活ついでにちょちょいっとできるし」
鴉間くんが、家政部?
家政部って、料理をしたり裁縫をしたりする、あの部活? 鴉間くんが?
「……佐藤さん?」
「ご、ごめ、だって」
笑いをうまくこらえられなくて、肩が震えてしまった。
だって、鴉間くんが家政部なんて、似合わないじゃないか。【改ぺーじ】
ひくつくお腹を抱えて、けらけら笑う。
失礼だなあと鴉間くんは頬を膨らませたけれど、仕方がない。
でも、確かに。
鴉間くんにはエプロンが似合いそうだ。
家庭的なことが似合わなくても、姿格好だけは一人前に似合う気がする。
「ひどいなー。おれのマドレーヌ、女の子にすごく人気なのに」
そうなのか。知らなかった。
しかし、それは、作った人の影響なのだろうか。
それとも本当に、鴉間くんの作ったマドレーヌがとびっきりおいしいからなのだろうか。
やれやれとため息を落とす鴉間くんに、そんなことは聞けなかった。
わたしなんかが聞いてはいけない。
クラスで目立つ存在でもなく、これといった特技もなく、成績もよくも悪くもない。そ
んなわたしが、鴉間くんに聞いていいことではないように思う。
となると、ここはどう反応をしめせばいいのだろう。
口をつぐむ。
「佐藤さん、今日の放課後って予定ある?」
鴉間くんが会話をつないでくれた。
今日の放課後は、真ちゃんと会えなくなったから、暇になってしまった。
鴉間くんの質問に、首を横に振って答える。
「今日は部活でプリンを作るからさー、佐藤さん、食べてよ」
「……え」
「絶対おいしいからさー。おれ、料理は自信あるんだよ」
「で、でも」
「マドレーヌはまた今度作ると思うから、そのときね」
そうではない。
わたしが鴉間くんのものをもらうなんて。
家政部といえばしごかれるのをいやがり、二言目には「面倒くさい」で、手を抜きたがる女の子が多い。
そういう女子はスカートを短くしたり、しかられない程度に化粧をすることに命をかけたりしている。
つまり、いつも鴉間くんが連れ歩いているような子ばかりなのだ。
そんな女子を差し置いて、わたしが鴉間くんから手作りプリンをもらってしまったらどうなるか。
想像はつく。
そして、これからの学校生活を思う。
全身が寒くなる。鳥肌を抑えたくて、身震いした。
「……マドレーヌ?」
心臓が、いやな跳ね方をした。
冷や汗がたれる。
声をするほうを向けない。
聞き覚えのある声だ。
それどころか、幼いころから隣で聞き続けてきた声ではないか。
どうしてここに。
今日は会えないと言っていたのに。
鴉間くんの顔も見ることができないから、必然的に、うつむくことになってしまった。
「ちわ、なんだよ、マドレーヌって」
「え、なになに、誰?」
「ぼくのことじゃなくて、マドレーヌのことを聞いてるんだ」
「いやいや、おれはあんたのことを聞いてるんだけど」
「やめて、真ちゃん」
鴉間くんの軽い口調が、わたしの頭を重くさせる。
それを受けていらだつ真ちゃんの声色を耳にしたくなくて、二人を止めにかかる。
いつの間にか教室には人がいなくなっていた。
静けさが、うるさい。
「部活で忙しくなる前に、ちわに渡しておきたいものがあったんだけど、お邪魔だったかな」
「そんなこと、なんでそんな言い方……」
「え、佐藤さん、知り合い?」
真ちゃんは鴉間くんをきつくにらみつける。
あの日の図書室でも、こんな目をしていたのかも知れない。
眼鏡の奥で、いつもの柔和さをみじんも感じさせず、嫌悪感をむき出しにして。
胸に額を預けていたから知らずにいただけで、もしかしたら、あの日も。
鴉間くんは真ちゃんの視線を気にも留めずといった様子だ。
わたしと真ちゃんを交互に指差し、口をぽかんと開けている。
この場で一人だけペースを乱していない。
うらやましいというか、鴉間くんらしいというか。
「知り合いもなにも、ぼく、ちわの彼氏だけど」
「彼氏? へー、佐藤さん、彼氏いたの」
肩を強く引き寄せられ、転びそうになる。
真ちゃんが受け止めてくれた。
細長い指が、ぎりりと食い込んで痛い。
「おまえ、鴉間里央だろ。女たらしでちゃらついてるだけのばかが、ぼくのちわに近寄るな」
「佐藤さん、ちわって呼ばれてんのかー」
「ふざけるなよ、まじめに聞け」
「真ちゃん、やめてってば」
手で口をふさごうと腕を伸ばす。
あっさり捕まってしまい、かなわなかった。
真ちゃんはわたしの腕をつかんだのと反対側の手を、制服のポケットに突っ込んだ。
中を探りながらも、鴉間くんから目をそらさない。
どうしよう。どうしたらいいのだろうか。
わたしは、今ここで、どうすれば。
真ちゃんがポケットから手を出した。
拳になにか握っている。なんだろう。手のひらに収まるサイズのもの。
この雰囲気だ。もし鴉間くんに危害を加えるためのものだったら。
「……鴉間なんて」
かさ、と、真ちゃんの手のひらの中で音が鳴る。
わたしも鴉間くんも、自然と真ちゃんの拳に釘付けになってしまう。
見えた。
小さくて丸くて、かわいらしい包装紙だ。
あれは、あめ玉、だろうか。
包装紙を解きながら、真ちゃんは繰り返す。
「おまえなんて、鴉間なんて」
そこに続く言葉は、予想がついた。
前に聞いた。意味はよくわからなかったけれど。
黄色いあめ玉が、真ちゃんのしなやかな手の上を転がる。
はちみつのように、つややかに光っている。
真ちゃんはそれをひょいと口に放り込み、わたしが予想していた通りの言葉を口にした。
「鴉間なんて、カラスになっちゃえばいいんだよ」
「……カラス? おれが?」
真ちゃんは答えない。
眉間にしわをよせたままうつむいて、あめ玉を頬で転がしている。
右側と左側が交互に膨らむ。子供みたいだ。
わたしはその様子をじっと見つめていた。
「んー、カラスになったら、空も飛べちゃうねえ」
「空を飛んで、電線にでも引っかかって、駆除されちゃえ」
「へー、なかなか手厳しい彼氏さんだね、佐藤さん」
鴉間くんは最後まで笑っていた。
少なくとも、顔は。
わたしたちに背を向けると、それじゃあ、と小さく手を振って教室を出て行ってしまった。
わたしの頭の上で、真ちゃんがせわしなく周囲を見渡す。
完全に二人きりになったことを確認しているのだろう。
「ねえ、ぼく、言ったよね。鴉間にはかかわるなって」
「そうだけど、ごめん。ほら、制服返してもらってたから」
あめ玉が歯にあたる音がした。
何度も、何度もかちゃかちゃ鳴って、耳に痛く響く。
「真ちゃん、部活は?」
「……うん、いってくる」
肩が解放される。どっと疲れた。
しゃがみ込みそうになるのを必死でこらえて、なんとか自分の足で立つ。
真ちゃんも教室を出て行った。
取り残されたわたしは、いすを引いて腰を下ろす。
真ちゃんと一緒にいて疲れるなんて、はじめてだ。
よほど鴉間くんが嫌いなのだろう。
おおらかな真ちゃんが人を嫌うなんてことも、はじめてだったはずだ。
鴉間くんが、カラスに。
なるはずないのに。
真ちゃんはどうしてそんなに、そんなことにこだわるのだろう。
拒絶の言葉として本人にぶつけるくらいだ。
よほど望んでいるに違いない。
頭のいい、みんなのお兄ちゃんである、あの真ちゃんが。
それにしても、鴉間くんは。
思い出して、吹き出してしまった。
真ちゃんがあんなに本気で嫌悪感を突き刺していたのに、見事にひょうひょうとかわしていた。
気にしていないのか、なにを言われているのかわからないのか。
どちらもあるのかも知れない。だって、鴉間くんだから。
受け取った紙袋を見つめる。
同じ色の頭を脳裏に浮かべ、机に体を預ける。
そっと目を閉じた。
口元は、まだ緩んだままだ。
●
朝は毎日、真ちゃんが迎えにきてくれる。
幼稚園に通っていたときも、小学校の集団登校も、中学校に上がってからも、毎朝並んで歩いている。
真ちゃんはわたしより一年先に、次のステージへ行ってしまう。
それでも一日も欠かさず、朝の七時半になるとわたしの家の呼び鈴を鳴らした。
「真ちゃん、昨日は何時に寝たの?」
このところ、朝の風はずいぶんと冷たくなった。
それでも歩いていれば体は熱くなるから、制服の着こなしには困ってしまう。
ブレザーの生地は厚くて重たい。
「最後に時計を見たときは、今日の三時だったかな。それから牛乳を温めて飲んで、ぼーっとして……」
かくかくと揺れる真ちゃんの首に力はない。
目も開いているのかいないのか。
ときたま眉間に大きくしわを寄せ、呼吸を止めている。
きっとあくびを飲み込んでいるのだ。
ご飯を三食きっちり食べること、夜は六時間以上寝ること、寝る前に温かい牛乳を飲むこと。
一日の生活の中から一つでも欠けてしまえば、真ちゃんの体の調子は崩れてしまう。
幼稚園のお泊り会の前の晩、興奮して寝付けなかった彼は、熱を出してしまった。
お兄ちゃんなしでの幼稚園へのお泊りは、わたしにとって地獄だったことをよく覚えている。
「朝ご飯は食べた?」
「うん、食べてきた。ご飯と味噌汁と納豆と、シークワーサージュース」
「なにそれ」
「シークワーサーだよ。知らない? 沖縄の果物かなんか。
スーパーで安かったみたいで、半額シールが貼ってある紙パックが、冷蔵庫にいっぱいあってさ」
甘くもなく、すっぱくもなく、どことなく口の中がきゅんとする味わいらしい。
眼鏡の下にくまを隠す真ちゃんは、ふわついた口調で、変わったジュースの感想を教えてくれた。
ちわのところにも一つおすそ分けしようか、なんて気を使ってくれたけれど、遠慮しておく。
「あ」
真ちゃんが正面を見据えたまま、ぴたりと立ち止まる。
「おすそ分けといえば、ちわ、これ」
肩からぶら下げているかばんを開けて、がさごそと探る。
覗き込んでいいものか迷いながら立ち尽くしていると、真ちゃんはうれしそうになにかを取り出した。
無邪気な握り拳を見つめる。
じゃじゃーん、と小学生みたいな効果音とともに、拳が解かれた。
「これ、なーんだ」
ほんのりとした淡いピンク色に包まれている。
きれいな丸っこいものの両端では、リボンのように、包装紙がねじられていた。
つい最近、同じ形のものを見たことがある。
いつだったろう。ああ、そうだ。最近どころか昨日じゃないか。
あれもやはり、真ちゃんが持っていた。
「……あめ?」
「正解。だけどね、ただのあめじゃないんだよ。これは」
魔法のあめ玉さ。
言いながら、真ちゃんは屈託なく笑う。
朝の日差しを背に受けて。
太陽はおだやかに暖かいのに。
じりじりと、焦がされている。
そんな気がして、背筋が粟立った。