第1話 生物部の怪異は、猫じゃらしに屈する
数ある作品の中から、本作を見つけていただきありがとうございます。
広島県呉市を舞台に、未確認生物オタクで観察中毒の少年と、数百年生きたワガママな化け猫、そして「猫吸い」中毒の美少女生徒会長が織りなす、少しおかしな青春を描いています。帝国海軍の「船魂」を宿したアンドロイドなど、この街ならではの歴史とSF、超自然的な要素が交差する物語です。
呉の潮風と、ちゅーるの香りが混ざり合う不思議な日常を、ぜひお楽しみください。
呉の山々の稜線に夕日が沈み、古いクラブ棟の窓ガラスが、血のような赤に染まる時間帯。カビ臭い部室の片隅で、俺、天応翔は机に手をついたまま観察していた。
「……美味しそうだニャ。あの、ぷりっとしたケツ。最高に脂が乗ってるニャ」
じゅるり、と嫌な音がした。クラスメイトの福浦が、じゅるじゅると音を立てて涎を零している。温厚そうな糸目の奥で、金色の瞳だけが獣のように爛々と輝いていた。その視線の先では、生物部のアイドル――ハムスターの『ハム美』が、ひまわりの種を抱えたまま、彫像のように硬直して小刻みに震えている。
「よせよ、ミケたろう! ハム美ちゃんは俺の数少ない友達なんだ、食うなよ!」
俺の声は、情けなく裏返った。女子と話す時は石像のごとく無口になる俺だが、この厚かましい謎の居候猫(人化中)にだけは、なりふり構わず言葉が出る。クラスメイト福浦として化けているこいつ――中身は謎。俺の見立てでは恐らくUMA(未確認生物)だろう。それとも異星人なのか? 絶賛観察中のこいつは、残念そうにピンク色の舌でペロリと唇をなめた。
「ケチだニャ。翔は食べもしない獲物をよく愛でるもんだニャ。わしなら三秒で骨ごと粉砕して、綺麗に成仏させてやるのにニャ」
「そういう物騒な発言はやめろって。……誰だよ、春の雨の中、道端でズタボロのぬいぐるみみたいに転がってたのは」
「フン、あの時お風呂に入れてドライヤーしてくれた恩は、わしがビッグな男にして返すと言ってるニャ。……だが、その前に腹が減ったニャ。学食のうどんを奢るニャ」
「学食はお昼しか営業してないよ。家に帰るまで我慢しろよ」
数日前まで、俺の弱点は「女子とまともに喋れない」という一点だけだった。まあ未確認生物学者を目指す俺にはどうでもいいような悩みではあったが。だが今は違う。正体不明の化け猫を、自分の小遣いで養うという破産寸前のピンチ。そして何より、こいつが「人間じゃない」という事実を隠し通さなければならないという、極限の緊張感。毎日の観察は楽しいが、日常生活は明らかに別のジャンルに突入していた。
――そして、その『聖域』は、あまりに無残に、暴力的に破壊された。
ドォォン!!
合板のドアが内側へ吹き飛び、壁に叩きつけられた。廊下の白い蛍光灯が、逆光となって部室に流れ込む。長い影が床を這い、俺の足元まで届いた。
「……やはりね。澱んでいるわ。マグロと、カツオと、ササミの混ざった――邪悪な妖気が」
静かだが、鼓膜の奥にキリリと刺さる凛とした声。そこに立っていたのは、原宮高校・生徒会長の三条奏先輩だった。学園の頂点に君臨する、圧倒的な美。俺が入学式で一目見た瞬間から、心臓のリズムを狂わされている特異な存在。
奏先輩は、俺のことなど一瞥もせず、その高く形の良い鼻を―― クン……。 と、不吉に鳴らした。
「一年の天応くん。……今すぐ、その『固太りの同級生』から離れなさい。そいつ、中身は三毛猫の妖怪よ」
「ニャ!? ギニャァァァ!!」
福浦の身体が跳ねた。人間に化けているはずなのに、ズボンの内側で、ありえないボリュームの「何か」が膨らむ。「わしの正体がわかるのかニャ!」と叫ぶ声は、もう完全に猫の悲鳴だった。
「当然ですわ。……清明流陰陽師・三条家を甘く見ないことね。危険な妖怪は、私が根こそぎ退治しますわ」
奏先輩の手が、制服の内ポケットへ滑り込む。俺は息を呑んだ。退魔の札か、呪具か、それとも――
夕日に照らされて煌めいたのは、銀色のテープがシャラシャラと揺れる、ただの『猫じゃらし』だった。
「ほら。こっちよ。無視できるかしら?」
奏先輩の白い指先が、猫じゃらしを不規則に、かつ魔性的に振る。カシャ、カシャ、と乾いた音が、静まり返った部室に響く。
「……ッ、ソンナモノニ……わ、わしが、引ッ掛カルワケ……ニャ、ニャニャニャ!!」
次の瞬間、福浦の姿が掻き消えた。ポンという音を立てて空中に踊り出たのは、丸々とした三毛猫。ミケたろうは本能に逆らえず、空中で無様に手足をバタつかせ、奏先輩の猫じゃらしに向かって一直線に飛びついた。
「確保。……往生しなさい」
奏先輩の指が、迷いなくミケたろうの首根っこを掴み取った。ぐにゃり、と力が抜ける。伝説の妖怪は、一瞬でただの「だらりと伸び切った液体のような猫」へと成り下がった。
「三条先輩! 止めてください! その個体は、僕が初めて邂逅した『生きたオーバーテクノロジー』なんです! 消滅するなんて学術的な損失です!」
無理やり声を押し出す。喉が焼ける。彼女にどう思われるか。でも、ミケたろうが退治されて消滅するのを見ていられるわけがない。こいつが消えるのは、データ的にも……いや、普通に困る。
「……は?」
奏先輩は、猫をぶら下げたまま、ゆっくりとこちらを向いた。
「君、この子の正体を知っていて庇っているの?」
視線が、皮膚を貫くように突き刺さる。
「……天応くん。憑りつかれたままだと、死にますわよ?」
その瞳にあったのは、優しさではない。代わりにあったのは――獲物を前にした捕食者の、乾いた渇望だった。俺の検体? 愛猫? は、このままだと、どうやら生徒会長に退魔されて消えるらしい。
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