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夜の罪悪感

作者: けんけん
掲載日:2026/03/31

## 第一章 乗客


 雨が降っていた。


 深夜二時をまわった国道は、対向車もなく、ガードレールの白線だけが濡れた路面に反射している。村瀬晃は助手席のシートに置いたコンビニの袋をぼんやり眺めながら、ワイパーの単調な音に意識を預けていた。


 袋の中には、白い菊が入っていた。


 コンビニで買える花ではなかった。二十キロ先の町まで行って、夜間営業の花屋で買った。わざわざ遠くまで行ったのは、近くで買うのが怖かったからだ。理由は自分でもうまく説明できない。ただ、この花を持ってこの道を走ることを、誰かに見られたくなかった。


 十年ぶりに、戻ってきた。


 転々とした。北海道から九州まで、住所を変えるたびに少しだけ楽になった気がした。でも楽にはなれなかった。眠れない夜が続いた。誰かを好きになるたびに、自分が何をしたか思い出した。笑うたびに、あの夜のことを思い出した。


 だから今夜、花を持ってきた。それだけでいい。墓参りの代わりに、事故現場に花を置いてくる。謝罪にもならない、けじめにもならない、それでもしないよりはましだと思った。


 見つけたのは、偶然だった。


 国道沿いの待避所に、女が立っていた。大きなスーツケースを引き、ショルダーバッグを斜めに掛けて、雨の中で誰かを待つわけでもなく、ただそこにいた。傘もない。


 村瀬は減速した。止まるつもりはなかった。ただ、なぜか足がブレーキを踏んでいた。


 窓を開けると、雨と夜の匂いが流れ込んだ。


「どこか、行かれますか」


 女は村瀬を一瞥した。三十代くらいだろうか。濡れた髪が頬に張り付いている。値踏みするような間があって、それから女は小さく頷いた。


「……遠くまで、お願いできますか」


 声は落ち着いていた。怯えてもいない。


 村瀬はトランクを開けた。スーツケースを積み、女が助手席に乗り込む。ドアが閉まる音がやけに大きく聞こえた。


「田中です」と女は言った。「田中朱里」


「村瀬です」


 それだけの自己紹介で、車は走り出した。


 朱里はしばらく黙っていた。シートに浅く腰掛け、膝の上のバッグを両手で抱えている。村瀬も話しかけなかった。深夜の国道に、ワイパーの音だけが続く。


 しばらく走ったところで、朱里が窓の外に目をやった。


「……昔、この道を通ったことがあります」


 独り言のような声だった。


「そうですか」


「ええ」


 それきり、また黙った。バックミラーに映る朱里の横顔は、どこか遠いところを見ていた。信号待ちで車が止まると、一瞬だけ視線がこちらに向いた——村瀬の顔を、確かめるように。


 気のせいだと思った。


-----


## 第二章 十年前の雨


 あれは十月だった。


 今よりずっと若い俺は、会社の付き合いで飲んでいた。断れない性分だった。いや、断る理由を作れない、臆病な人間だった。二軒目の居酒屋を出たのが、夜の十一時過ぎ。タクシーを使うほどの距離じゃないと思った。自分では、それほど酔っていないとも思った。


 国道に出て、五分も走らないうちだった。


 雨が降っていた。ワイパーが忙しく動いていた。カーブを曲がった瞬間、ヘッドライトの中に何かが見えた。反射材のついたランドセル。傘を持った小さな影。


 ブレーキを踏む間もなかった。


 後から知ったことがある。あの子が夜道を歩いていた理由だ。


 習字道具を忘れていた。翌日の一時間目に使うからと、夜の学校まで一人で向かっていた。担任が職員室に電話を転送して、取りに来られるよう手配してくれていたらしい。雨だったが、学校まで歩いて十分もかからない距離だった。沙織は一人で傘を差して、ランドセルを背負って、走らずに、ちゃんと歩いていた。


 習字道具。


 その二文字が、十年間ずっと、胸に刺さったままだった。あの子は何も悪くなかった。当たり前のことを、当たり前のようにしていただけだった。悪いのは俺だけだった。それだけが、俺に残った唯一の確かなことだった。


 衝撃があった。車が止まった。俺はしばらく、ハンドルを握ったまま動けなかった。外に出ると、雨が顔を叩いた。道路の端に、女の子が倒れていた。ランドセルが転がっていた。


 俺は、逃げた。


 今でもあの瞬間のことを、正確には思い出せない。気がついたら車に乗っていた。気がついたら走っていた。頭が真っ白だったとか、パニックだったとか、そういう言葉で説明できるほど、俺は自分に甘くなれない。


 ただ、逃げた。それだけだ。


 翌朝、ニュースを見た。小学三年生の女の子。名前は田中沙織。即死だった。


 俺はその日から、十年間、逃げ続けた。


-----


## 第三章 追跡


 田中朱里が妹の死を知ったのは、深夜に母親からかかってきた電話だった。


 大学の寮にいた。受話器を握ったまま、しばらく何も考えられなかった。次の日の朝、実家に帰ると、沙織のランドセルが玄関に置いてあった。警察が届けてくれたものだった。反射材が一つ、割れていた。


 葬儀が終わって、四十九日が過ぎて、警察の捜査が「迷宮入り」という言葉に変わっていくのを、朱里はただ見ていた。目撃者がいなかった。防犯カメラもなかった。車のタイヤ痕から車種の絞り込みを試みたが、特定には至らなかった。担当刑事は「引き続き捜査を」と言い続けながら、だんだん連絡が減っていった。


 朱里は、自分でやることにした。


 最初は素人の思いつきだった。事故現場を何度も訪ね、近隣の住人に聞き込みをした。あの夜に何かを見なかったか、聞かなかったか。ほとんどが首を振った。一人だけ、「黒っぽい車が速く走っていった」と言ってくれた老人がいた。それだけだった。


 就職してからも、続けた。


 休日を全部使った。事故当時に近隣で働いていた人間を一人ずつ当たった。周辺の会社の飲み会の帰り道として成立するルートを割り出し、そのルートにある居酒屋を全部リストアップした。十年前の常連客を尋ねた。不審がられた。何度も追い返された。


 三年目に、一つの名前が浮かんだ。


 村瀬晃。当時その地域の会社に勤めていた男で、事故から一ヶ月後に突然退職して姿を消していた。元同僚の一人が、「あいつは何かから逃げるように辞めた」と言った。何気ない言葉だったが、朱里にはそれで十分だった。


 そこから七年かかった。


 転居先をたどるのは難しかった。村瀬は転々としていた。北海道、宮城、愛知、福岡——住民票を動かさない時期もあった。SNSをやっていなかった。共通の知人を見つけるたびに、遠回しに話を聞いた。消えた先を追った。


 そして今年の夏、ようやく現在地が割れた。


 この県内に戻ってきていた。朱里は仕事を辞め、貯金を崩して、この町に移り住んだ。


 あとは、タイミングだった。


 村瀬が事故現場付近をいつか訪れると、朱里には確信があった。根拠のない確信ではなかった。罪悪感を抱えた人間は、いつか現場に戻る。それを朱里は、七年間の調査の中で何度も見てきた。加害者というのはそういうものだと、調べれば調べるほどわかった。あの男もそうするはずだと思った。


 十月に入ると、朱里は毎晩、現場近くの待避所で待った。


 夫のDVから逃げる女を演じるために、スーツケースを用意した。夜道に一人で立つ不審さを消すための道具だった。通り過ぎる車を一台ずつ確認した。雨の夜は特に念入りに待った。罪悪感のある人間は、雨の夜に動く気がした。根拠はなかった。でも、そう思った。


 そして今夜、深夜二時過ぎに、一台の車がスローダウンした。


 窓が開いた。運転席の顔を見た瞬間、朱里の心臓が止まりそうになった。


 十年間、写真と記憶の中にいた顔が、そこにあった。


 助手席には、白い花の袋があった。


 朱里は、深呼吸を一つして、頷いた。


「……遠くまで、お願いできますか」


-----


## 第四章 会話


 SAのランプが見えてきた頃、朱里がようやく口を開いた。


「……夫が、怖いんです」


 作り話だった。夫など存在しない。でも、この男を油断させるためには必要だった。か弱い女を演じる必要があった。


「三年間、ずっと怖かった。でも今日、やっと決めたんです。もう終わりにしようって」


「それは……よかったんじゃないですか」


「そうですね」


 朱里は窓の外を見ながら言った。この男は今、自分をDVから逃げてきた女だと思っている。同情さえしているかもしれない。


「妹のこと、今でも怒ってるんです」


 村瀬の指が、わずかにハンドルを強く握った。朱里はそれを、横目で確認した。


「妹さんが、何か」


「ええ。十年前に死んだんですけど……いまだに怒りが消えないんです。理不尽な死に方だったから」


「……それは、つらいですね」


「加害者って、覚えていると思いますか」


 唐突な問いだった。村瀬は一瞬、言葉に詰まった。


「……どういう意味ですか」


「自分がやったこと、ちゃんと覚えているものでしょうか。毎日思い出しているのか、もう忘れているのか。普通に生活しているのか。笑ったりしているのか」


 朱里の声は静かだった。怒鳴るわけでも、泣くわけでもない。ただ、静かに、問い続けた。


「わからないですね」と村瀬は言った。自分の声が、どこか遠くから聞こえるようだった。「……わからない」


 朱里はそれ以上、何も言わなかった。


-----


## 第五章 静止


 SAに入った。


 朱里がトイレに行くと言って車を降りた。村瀬はエンジンをかけたまま、駐車場に止まっていた。雨はまだ降り続けている。フロントガラスを流れる水が、ヘッドライトに照らされて光った。


 助手席のシートに、コンビニの袋が見えた。白い菊。


 田中朱里。


 田中、沙織。


 頭の中で、その二つの名前が重なった。


 偶然かもしれない。田中などという苗字はいくらでもある。妹が十年前に死んだというのも、別の話かもしれない。なにより、あの事故を知っている人間がどれだけいるか。轢き逃げは未解決のまま、時効も過ぎた。俺のことなど、誰も——


 でも。


 あの視線。バックミラーの中で、俺の顔を確かめるような目。「昔この道を通ったことがある」という言葉。「加害者は覚えているか」という問い。


 そして今夜、俺はなぜここにいる。


 十年ぶりに、現場に花を持って戻ってきた。深夜に、雨の中を。普通の人間がするような行動じゃない。あの女は、それを知っていたのではないか。俺がいつかここに来ることを、知っていて、待っていたのではないか。


 ドアが開いた。朱里が戻ってきた。


 濡れた髪をタオルで拭きながら、助手席に座る。村瀬は何も言えなかった。朱里も何も言わなかった。雨の音だけが車を包んでいた。


「出発しますか」と村瀬は言った。


「……ええ」


 車が動き出す。出口ランプを抜けて、国道に戻る。


 村瀬はアクセルを踏みながら、ただ前を向いていた。


 逃げようと思えば、逃げられた。この男はそれを選ばなかった。


-----


## 第六章 着地


 目的地を告げたのは、それから三十分後だった。


「次の信号を左に曲がってください」


 村瀬は黙って従った。細い道に入る。街灯が少ない。田んぼの匂いがする。


「ここで止めてください」


 村瀬がブレーキを踏むと、朱里は静かにシートベルトを外した。降りる気配がなかった。


 雨が、屋根を叩いている。


「妹がね」と朱里は言った。「死ぬ前に一度だけ、意識が戻った時間があったんです」


 村瀬は前を向いたまま、動かなかった。


「お母さんと私が手を握っていたら、妹は言ったんです。“犯人を恨まないで”って」


 静寂。


「小学三年生ですよ。そんな言葉、どこで覚えたんでしょうね」


 朱里の声は震えていなかった。


「私、ずっとその言葉が嫌いだったんです。妹のくせに、お姉ちゃんより先に大人なことを言って。……ずっと、怒ってた」


 村瀬の目が、じわりと滲んだ。


「十年間、あなたを探し続けました」


 朱里は静かに言った。


「警察が諦めても、時効が来ても、探し続けました。妹の言葉を裏切るとわかってても、このまま終わりにできなかった。だからここで待ってた。あなたがいつか戻ってくると思って」


 村瀬はハンドルを握ったまま、目を閉じた。


 朱里がバッグの中に手を入れた。


 村瀬はそれを見ていた。逃げなかった。逃げられなかった——いや、もう逃げたくなかった。十年間逃げ続けた足が、今夜初めて、動くことを拒んでいた。


 ナイフだった。


 朱里はそれを、ゆっくりと村瀬の腹に押し当てた。


「田中沙織の、姉です」


 村瀬は頷いた。声が出なかった。


 刃が、深く入った。


 痛みよりも先に、熱さがあった。それから、じわじわと、本物の痛みが広がった。村瀬はハンドルに両手をついて、呼吸した。


「……ごめん」


 その言葉が、口をついて出た。


「十年間、ずっと——ごめんなさい」


 声が割れた。涙が出た。十年間、一度も言えなかった言葉が、血と一緒に溢れてくるようだった。


「沙織ちゃんに、ごめんなさい。お母さんに、ごめんなさい。あなたに——」


 朱里が泣いていた。


 いつの間にか、泣いていた。嗚咽を押し殺すように口を手で覆って、肩を震わせて、泣いていた。


「なんで」と朱里は言った。「なんで今更——なんで今になって——」


 答えられなかった。答える資格がなかった。


 村瀬はただ、「ごめんなさい」を繰り返した。意識が遠くなる中で、繰り返した。沙織ちゃん、ごめんなさい。逃げて、ごめんなさい。十年間、ずっと、ごめんなさい。


 助手席の袋の中で、白い菊が、雨の気配の中で静かに揺れていた。


 雨が降り続けていた。


 朱里の泣き声と、雨の音だけが、暗い車の中に満ちていた。


-----


 逃げていたのは、最初から俺だけだった。


-----


## 終章 法廷


 田中朱里、被告人。殺人罪。求刑、懲役十五年。


 判決の日、傍聴席は満員だった。轢き逃げ犯を十年かけて追いつめた女として、事件はひと月前から週刊誌を賑わせていた。同情する声もあった。批判する声もあった。ネットでは連日、正義とは何かを巡って見知らぬ人間たちが言い争っていた。


 朱里にはどうでもよかった。


 裁判長が主文を読み上げる間、朱里はまっすぐ前を向いていた。弁護士が何度か耳打ちしたが、あまり頭に入らなかった。量刑がどうなっても、もう決まったことだと思っていた。


 判決が下った。


 閉廷を告げる声が法廷に響き、傍聴席がざわめいた。記者たちがメモを走らせた。弁護士が何かを言った。


 朱里は、窓の外を見た。


 高い位置にある小さな窓から、十月の空が見えた。雲が速く流れていた。雨が来るかもしれない、と思った。


 そのとき、かすかに、沙織の顔が浮かんだ。小学三年生のあの顔が。怒った顔でも、泣いた顔でもなく——ただ、笑っていた。


 田中朱里は、静かに、微笑んだ。

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