蘭陵王 その名を歴史に
金庸城の戦いから三年が過ぎた。北斉武成帝の治世は続いていたが、宮廷には暗い影が差し始めていた。蘭陵王高長恭の武名は日に日に高まり、民衆の間では「美貌の戦神」として崇拝されるようになっていた。
「蘭陵王の人気は危険な域に達している」
宮廷の奥深くで、武成帝は側近たちと密議を重ねていた。皇帝の顔には、血族への愛情と権力者としての警戒心が複雑に入り交じっていた。
「陛下、蘭陵王は陛下の甥君。忠義の心に疑いはございません」
「だが、民衆の心は既に彼に向いている。『蘭陵王入陣曲』は都のあらゆる場所で歌われ、子どもたちまでもが彼の名を口にする」
武成帝の声は低く、不安に満ちていた。権力者の宿命として、彼は自らの地位を脅かす可能性のある者を排除せねばならなかった。たとえそれが愛すべき甥であっても。
その年の秋、再び戦雲が立ち込めた。北周が大軍を率いて侵攻し、蘭陵王の出陣が要請された。
「殿下、これが最後の戦になるかもしれません」
老将軍は意味深な言葉を口にした。宮廷内の不穏な空気を察していたのだ。
「分かっている」と高長恭は鬼神の面を手に取った。
「だが、この身が北斉に仕える限り、戦場こそが我が居場所だ」
出陣の朝、都の民衆が街道に集まった。蘭陵王を一目見ようとする人々の波が続いている。その光景を宮殿の楼閣から見下ろしていた武成帝の表情は、さらに険しくなった。
戦いは蘭陵王の圧勝に終わった。しかし、凱旋の際の民衆の歓呼は、皇帝の心に決定的な楔を打ち込んだ。
「蘭陵王、今宵は酒を酌み交わそう」
宮殿に召された高長恭を、武成帝は表面上は温和に迎えた。しかし、その眼の奥には冷たい光が宿っていた。
「陛下のお召し、光栄に存じます」
二人は幼い頃よく遊んだ思い出を語り合った。しかし、会話の端々に皇帝の猜疑心が垣間見えた。
「そなたの人気は凄まじいな。民はそなたを王以上に敬愛している」
「陛下、それは誤解です。臣は陛下への忠誠のみを胸に戦っております」
「分かっている。だが、時として忠誠だけでは済まぬこともある」
武成帝は立ち上がり、自ら酒を注いだ。その杯には、ほのかに甘い香りが漂っていた。
高長恭は杯を受け取った。皇帝が自ら注いだ酒を拒むことはできない。彼はその瞬間、全てを悟った。
「陛下…」
「許せ、長恭。これは皇帝としての務めなのだ」
武成帝の声は震えていた。血族を手にかける苦悩が、その言葉に滲んでいた。
高長恭は静かに微笑んだ。その美貌は、死を前にしてもなお輝いていた。
「陛下に心配をおかけしたこと、申し訳なく思います。この身が陛下の重荷になるのなら、喜んでお役に立ちましょう」
彼は躊躇することなく杯を口に運んだ。毒は静かに、しかし確実に彼の体を蝕んでいく。
「最後に一つ、お願いがございます」
「何なりと申せ」
「民衆には、蘭陵王は戦場で名誉の死を遂げたと伝えてください。美貌ゆえに命を落としたなどと、笑い話にはしたくありません」
武成帝は無言で頷いた。涙が頬を伝い落ちていた。
高長恭は最期まで美しかった。毒が回り始めても、その顔には苦悶の表情は浮かばなかった。むしろ、何かから解放されたような安らかさがあった。
「長い間、この顔は重荷でした」と彼は微かに笑った。
「戦場では面を着け、宮廷では心に面を着けて生きてきました。ようやく…全ての面を外せます」
彼の手は、まるで剣舞を舞うように宙に舞った。金庸城で見せた、あの神々しい舞の最後の一振り。
「『蘭陵王入陣曲』を…最後に聞かせてください」
武成帝は震え声で歌い始めた。宮廷楽師たちも加わり、美しいが悲しい調べが宮殿に響いた。
高長恭の瞳は次第に力を失っていった。しかし最期の瞬間まで、その美貌は変わることなく輝いていた。まるで永遠の美を体現するかのように。
『北斉書』より、北斉武成帝四年の冬、蘭陵王高長恭は三十一歳の若さでこの世を去ったという。
公式には戦場での名誉の戦死と発表されたが、真実を知る者たちの間では、美貌ゆえの悲劇として語り継がれることになった。
『蘭陵王入陣曲』はその後も愛され続け、美しき武将の物語は時を越えて人々の心を捉え続けた。鬼神の面の下に隠された絶世の美貌、戦場での神業のような剣舞、そして宿命的な最期。
蘭陵王高長恭は死後、伝説となった。美しさと武勇を兼ね備えた稀有の英雄として、永遠に人々の記憶に刻まれることになったのである。
彼の生涯は短かったが、その輝きは千年の時を経てもなお、人々の心に光を投げかけ続けている。