スクリュードライバーにはご注意を
2杯め
女はどうにか男を馴染みのバーへ連れてこれたことに安堵した。
「ここがタコちゃんのおすすめの店なの?」
男は少し頬を赤らめ、店名が記された袖看板と地階へとつづく階段を交互に見たあと女へ視線を戻した。
「はい。このお店のスクリュードライバーがめっちゃ美味しいってメンバー間でもすっごい話題になってるんですよー」女は身内に対するのとは変えた声色で男を見上げた。
「そうか、それは楽しみだな。ぼくはお酒にはちょっとうるさいからね」
ご機嫌な様子で階段を降りていく男の、少し薄くなった後頭部に冷めた目を送りながら女は後につづいた。
店の扉を男が引くと、日付が変わった一時過ぎともあって、背筋を伸ばしてグラスに向き合っている者はほとんどおらず、7割方埋まった店内も陽気な人と今にも眠り落ちそうな人、他人関せずの客たちで混在している。
「いらっしゃいませ。お二人様ですか、こちらへどうぞ」
先ほどの店を出る前にこっそり連絡していたので、問題なくいつものカウンター席を確保することができた。また、マスターの配慮だろう。隣の席では大学生風の男女が二人の世界に浸っている。間違いなくこちらへ絡んでくることはない。逆隣は壁になっていて、その背後がトイレへと通じる通路となっている。
バーテンダーが二人におしぼりを渡したところで女が男へ顔を向けた。「社長、何にします」
男はおしぼりで顔をひとぬぐいして、「そりゃあ、やっぱりスクリュードライバーだろう。タコちゃんもだよね。・・・じゃあ、ふたつね」最後の部分はバーテンダーにいって、彼は、ふぅと息をついた。
女は駆け出しのアイドルグループ【女子】のメンバーの一人で、50音の≪あ≫から≪わ≫までの子音に≪コ≫を付けた10人で活動している。アコにカコ・ナコ・ワコといった芸名でファンの反応はいまのところいい感じだ。男は彼女たちが主に活動している劇場の支配人で、仕事の打ち合わせと称した食事会やご機嫌伺いのような飲みの席へ、彼のお気に入りの序列によって話がくるのだった。まだ彼女たちに専業のマネージャーはいない。
半円型の背の低いグラスに大ぶりの氷が鎮座して、ウォッカとオレンジジュースで満たされたスクリュードライバーがコースターに置かれ、女と男の前に差し出された。
「オレンジのいい香り」女はグラスを鼻先へ持っていくと笑みを浮かべた。男は、じゃあといってそのグラスへ自身のそれを静かに合わせるとゴクリと喉へ流し込んだ。
「このお店って、注文を受けてからフルーツを絞るらしいですよ。絞り置きじゃないから、すっごい美味しくないですかー」女はカクテルをぺろりと舐めながらいった。
「うん。たしかにこれは美味しいな」
男はふた口でスクリュードライバーを飲み干すと、バーテンダーへ向けてグラスを振った。女は笑顔のままハンドバッグを手にすると、男へ「ちょっと失礼しますー」といってトイレへゆっくり消えていった。
1940年代、イラン油田で働くアメリカ人が暑さをしのぐため、ウォッカを入れたカップにオレンジを握力でギュッと絞り、腰掛の工具入れのドライバーで混ぜて飲んでいたのがスクリュードライバーの由来とされている。
時代は移り、日本の昭和中後期。ぱっと見ではただのジュースにしか見えないソルティードッグやブラッディ・メアリ、そしてこのスクリュードライバーが別名”レディーキラー”として暗に知られていたわけだが、下心をもつ男たちによって多くの女たちがアルコール度数をいいように調整して飲まされ、身体を犠牲にしてきた、という明るくない過去がある。
男の5杯めのグラスは半分ほどになっている。体はゆらゆらと左右にちいさく揺れはじめていた。女の仕掛けは3杯めからはじまっていた。バーテンダーへ目配せをして、彼のスクリュードライバーだけアルコール度数40のウォッカを96のそれに変えて作ってもらっていた。
アルコール度数が倍以上になったらふつう気づくでしょ、と思うなかれ。数件も飲食店をホッピングした人は程度の差はあっても、おおむね似たような顛末になる。
女は周到に、男の意識がまだしっかりしているうちに、笑顔を振りまき都合のいいキャラクターを今回も植え付けられたと感じていた。罪悪感は微塵もなく、この泥酔した男を一人タクシーへと押し込むのはバーテンダーに任せることで問題はない。会計は後日支払いにくるよう仕向けるのは容易く、バーテンダーとの利害は一致している。そう、なんにも問題はない。
あたしは、あたしだけはこの世界で生き残ってみせる。女は思った。