泡と消える夢
泡と消える夢
導入:色褪せた青春の残響と、一瞬の光
冷え切ったアパートの部屋で、田中健一(40代、独身)は縮こまる体を抱きしめていた。彼の部屋は、まるで時間が止まったかのようだ。壁には色褪せたアイドルポスターが残り、棚には大量のCD。若き日の「彼女」が出演した恋愛ドラマやミュージックビデオを繰り返し再生したビデオテープ、何度も聴き込んだカセットテープが無造作に積まれている。傍らには、埃をかぶったエレキギターが立てかけられていた。そのギターは、彼が中学時代に初めて手にした日から、プロのバック演奏者、音楽家になるという夢を静かに見守ってきた。しかし、その夢は叶わず、今は派遣社員として日々をやり過ごしている。
彼の部屋には古びたテレビデオが置かれ、中山美穂が出演する映画やドラマのビデオテープが擦り切れるほど再生されていた。特に、あの有名な恋愛ドラマの最終回は、彼の青春のすべてだった。毎週月曜の夜9時には、田中はテレビの前にくぎ付けになった。ドラマが始まると、彼は息をひそめ、画面の中の「彼女」の一挙手一投足を見逃すまいと集中した。時には、彼女のセリフに合わせて小さく口ずさんだり、胸が締め付けられるようなシーンでは、思わず涙を流したりすることもあった。放送が終わると、彼はすぐに録画したビデオテープを巻き戻し、お気に入りのシーンを何度も何度も見返した。特に彼女のアップの場面や、名ゼリフの箇所は、彼の頭の中に完璧にインプットされていた。ラジカセからは、時折、田中がエアチェックしたと思われる中山美穂の楽曲が流れてくるのだが、それはもう壊れかけていて、時折「ピー」という奇妙なノイズが混じり、テープが伸びたような変な音がした。彼は、深夜ラジオで中山美穂が出演する番組を聴きながら、熱心にカセットテープに録音していた。その瞬間だけは、まるで彼女が自分だけに語りかけているような、秘密の共有を感じられた。
日々の生活は、会社での理不尽な叱責や、成果が出せない焦りに満ちていた。特に、**時代遅れのITスキルは彼を日々苦しめていた。**朝、出社してパソコンを立ち上げる田中は、メールソフトの画面を前に、どこか及び腰だ。「また何か複雑な操作が…」と不安げにマウスを握る。数日後、上司に呼び出された。「田中君、あの件、なんで対応してないんだ?」「え、あの件ですか…?」「メールで連絡しただろう!」田中は焦ってメールソフトを開くが、フィルタリング機能や未読メールの管理が分からず、膨大なメールの海の中から該当の連絡を見つけられない。あるいは、添付ファイルを開けずに内容を確認できなかった、という具体的な失敗も効果的だ。上司の怒鳴り声が響き、同僚たちの冷ややかな視線を感じる。「申し訳ありません…」と小さくなる田中。この一件で、彼の社内での評価はさらに地に落ち、完全に「お荷物」扱いの自身に、仕事での自己肯定感は地に落ちていた。最近では、契約更新のたびに「このままでは厳しい」と遠回しに告げられ、まさにクビ寸前だった。転職も頭をよぎるが、転職サイトを眺めるたびに絶望した。求められるのはITスキルばかりで、彼の「強み」である音楽の才能はどこにも需要がない。就職氷河期世代である自分に、もはやまともな職はないのだと悟り、部屋で一人、頭を抱え込んだ。彼のギターやコーラスの腕前は、プロ並みと評されるほどだったが、その才能が日の目を見ることはなかった。数年前、職場で参加した会社の飲み会で、中山美穂にどことなく似た女性が、偶然にも中山美穂の曲を歌った。その女性は、どこか肝が据わった、不良っぽい雰囲気も持ち合わせており、田中が青春時代に憧れた中山美穂の、クールで少し影のある「スケバン」的な魅力が重なって見えた。その歌声と佇まいに、田中は淡い恋心を抱いたが、臆病な彼は告げることなく終わってしまった。恋も夢も、すべてがかなわぬまま、彼は孤独を深めていった。
実家に住み、親に助けられていたため、親孝行とは程遠いと感じていた。親からは、部屋中の「中山美穂」グッズを見て、「こんな夢みたいな人じゃなくて、普通の人と結婚しなさい」と何度か言われたことがあった。特に、数年前に中山美穂さんの結婚が報じられた際、母親からかけられた**「ミポリンも結婚したんだから、健一もいい加減、身を固めなさい」**という言葉は、彼の心に重くのしかかった。憧れの人が現実の世界で幸せを掴んだ一方で、自分は何一つ変われずにいる。「こんな夢みたいな人じゃなくて、普通の人と結婚しなさい」という言葉は、彼にとって「親孝行もできなかった」という悔恨をより募らせるものだった。中山美穂さんグッズにほとんどのお金を使ってしまい、預金残高がないことも、彼の心には常に引っかかっていた。そんな彼の心の支えは、常に「彼女」の存在だった。「彼女がいれば、まだ生きていける」「彼女が輝いている限り、俺も…」彼はそう信じてきた。
かつて、彼の青春のすべては、中山美穂さんの「親衛隊」だった。週末になれば、同じ情熱を燃やす仲間たちと連れだって、コンサートやイベントに足を運んだ。特攻服を身につけ、統一されたコールを叫び、彼女の登場に歓喜したあの熱狂の日々。彼の部屋のクローゼットの奥には、色褪せた特攻服と手作りのうちわが今も大切にしまわれている。あの頃、夜行バスで全国を駆け巡り、イベント会場で仲間たちと語り合った夢や未来。特にリーダー的存在だったケンジとは、プロのギタリストになっていつかミポリンのバックで演奏しようと誓い合ったものだった。**しかし、月日が経ち、ケンジは真っ先に結婚して親衛隊を辞め、他の仲間もそれぞれの人生の道を進む中で、田中から離れていった。その喪失感を埋めるように、彼はますます『彼女』の出演作を繰り返し、自室を聖域と化した。テレビの中の『彼女』だけが、彼を見捨てず、いつもそこにいてくれた。そして、時を同じくして、彼の心の支えだった中山美穂さんが結婚し、フランスに移住してしまったことで、テレビや雑誌でその姿を見かける機会が激減した。輝く「彼女」の姿が見れなくなり、彼の心にはぽっかりと穴が開いたような寂しさが募っていったのだ。親衛隊という居場所を失い、親しい友人もいなくなり、そして憧れの「彼女」の輝きも遠のいたことで、田中は次第に心身ともに弱っていった。彼の生活は、ますます「彼女」の出演作を繰り返し見ることに費やされ、休日は彼女がCMに出ていた香水と似た甘い香りのアロマを焚き、彼女が昔愛用していたと雑誌で紹介された雑貨を眺めながら過ごすようになった。**あの結婚報道は、彼の人生に起きた数少ない「事件」の一つで、その日はまるで世界が止まったかのように感じた。それでも、彼女が幸せならと自分に言い聞かせたが、メディアから姿を消した彼女を見られない寂しさは募るばかりだった。彼の唯一の連絡手段は、いまだに現役のガラケーだった。その待ち受け画面は、いつだって若き日の輝く中山美穂さんの写真で、着メロももちろん彼女のヒット曲に設定されていた。最新のスマートフォンなどには全く興味がなく、世の中がどれだけ進化しようとも、彼は「昭和の人間」のまま、静かに時代から取り残されていた。**壁の色褪せた中山美穂のポスターを、まるで本物の『彼女』がそこにいるかのように、田中は無意識に目で追っていた。時には、その瞳に吸い込まれるように立ち尽くし、心の中で問いかける。答えはもちろん返ってこないが、その沈黙こそが、彼にとっては彼女との対話だった。夜のテレビでは、どこかのチャンネルで今も「雪見だいふく」のCMが流れる。田中は条件反射のように冷蔵庫を開け、常にストックしてある雪見だいふくを取り出す。彼女がCMでそうしたように、蓋を開け、付属のプラスチックのフォークで丁寧にそれを口に運ぶ。その瞬間だけは、まるで彼女と同じ空間にいるかのような、ささやかな充足感が彼を包んだ。
しかし、ある日、いつものように深夜、古びたテレビから流れるバラエティ番組を、意識せずに眺めていた。ふと、特集コーナーで若き日の『彼女』の映像が映し出され、続いて『24年ぶりの全国ツアー』というテロップが踊った。田中は目を疑った。あの『彼女』が、また…?長らくメディアから姿を消していたはずのその人が、再び輝きを取り戻しているという事実に、彼の心に微かな光が灯った。彼女が再びステージに立つという事実が、田中をほんの少しだけ現実へと引き戻した。会社での理不尽な叱責にも、以前よりは耐えられる気がした。自分も、もう少し頑張ってみようか。彼女が輝いている限り、俺も…そう、彼は心の中で密かに誓った。僅かではあるが、彼の部屋の埃は減り、ガラケーを握りしめ、かつて彼女がCMに出ていた旅行会社のパンフレットを眺める時間が増えた。
最近はそれすらもおぼつかない。漠然とした不安と疲れが彼を包み込んでいた。どこか遠くへ行きたかった。特に、あのANAのCMのように、「恋をしたら沖縄へ行きましょう」と誰かに誘われ、青い海を眺めてみたかった。しかし、現実はいつも同じ、実家と会社の往復で終わってしまう。貯金もない。休暇も思うように取れない。「あんな風になりたかったな…」独りごちて、彼は熱めの風呂に向かう。この風呂だけが、唯一の贅沢であり、彼が心の鍵を解き放ち、現実から逃避できる場所だった。今日の湯は、いつもより少し熱く、深く張られている。湯気で満たされた浴室に、彼はいつも、安堵と共に鼻歌を歌い始める。ゆっくりとリラックスし、この時間が一番の楽しいひとときだと感じていた。お風呂から出ると、彼は冷蔵庫から雪見だいふくを取り出す。それは、彼にとって「彼女」との繋がりを感じられる、大切な儀式だった。CMで彼女がそうしたように、ゆっくりと味わう。その甘さが、彼の心にわずかな安らぎをもたらした。
展開:湯気の中の「あのドラマ」と、甘美な妄想、そして突然の絶望
その日、田中はいつものように、深夜ラジオの番組を録音しながら、ハガキを書いていた。彼は毎週のようにハガキを送り続けていた。すると、パーソナリティの「皆さんのハガキ読んでいきましょう!」という声の後、彼のペンネームが読み上げられた。「岐阜県の田中健一さんからです!いつもありがとう!」パーソナリティの明るい声が響き、田中は思わずガッツポーズをする。はがきに書いた内容は、彼が中山美穂さんの曲に救われた体験と、会社でのITスキルの悩みについて綴ったものだった。パーソナリティが彼の文章を読み上げ、共感の言葉を口にするたび、田中は世界でたった一人、自分だけが理解されているような喜びを感じた。パーソナリティの「田中健一さん、辛いですよね。でも、お仕事、頑張ってくださいね!陰ながら応援しています!」という温かい励ましの言葉に、田中は目頭が熱くなった。画面も何もないスピーカーの向こうから、自分という存在が確かに受け止められている。現実世界では得られなかった、この希薄で、しかし確かな繋がりこそが、今日まで彼を支える唯一の光だったのだ。
熱い湯が張られた風呂に浸かる田中。湯気が立ち込め、浴室は徐々に幻想的な雰囲気に包まれる。
**湯船に浸かる前に、田中はバスソルトと、大切に取っておいた泡風呂の液体を湯に溶かした。たちまち、もこもこときめ細かな白い泡が湯船いっぱいに溢れ出し、甘い香りが浴室を満たす。泡のカーテンが視界を柔らかく遮り、現実の輪郭が溶けていく。**最近は、体の鉛のような倦怠感が抜けず、風呂に入るにも億劫だった。それでも、この熱い湯だけが、彼の疲れ果てた体を唯一癒してくれる場所だと信じていた。ふと、心臓の鼓動がいつもより速いような、微かな違和感を覚える。しかし、それは熱い湯のせいだろうと、彼は気に留めなかった。湯船に浸かりながら、田中は「ただ泣きたくなるの」を口ずさむ。その歌声は、浴室の扉をすり抜け、リビングでテレビを見ている両親の耳にも届いていた。
「また健一、歌ってるわ…」と母が小さくため息をつく。「本当に、長風呂だねぇ」と父も呆れ顔だ。「あの子ももう40なのに、一体いつになったら身を固めるのかしら。会社でも大変そうだし、最近は顔色も悪いわね」母は心配そうに呟く。「まさか、またあんな夢みたいな人を追いかけているんじゃないだろうな…」父は、田中が昔熱狂していたアイドルのことを思い出し、眉をひそめる。彼らの心配は尽きない。
静かな涙と歌声: 湯船の中で、田中はうつむき加減に、かすれた声で**「ただ泣きたくなるの」**のメロディを口ずさむ。それは、彼が青春時代に夢中になった、あの頃の彼女のヒット曲だ。メロディに乗せて、彼の目から一筋の涙がこぼれ落ち、熱い湯の中に溶けていく。彼はそれを、湯気と湯の中に「ごまかす」ように、静かに泣く。 そして、涙で声が震えながらも、彼は心の中で繰り返す。「世界中の誰よりきっと、中山さんが好きだった…」その言葉は、歌のメロディと混ざり合い、彼の胸の奥から湧き上がる、抑えきれない悲しみと愛情の叫びとなる。
「彼女」の登場、そしてドラマの世界へ: 湯けむりの中に、彼の青春を彩ったあの頃の「彼女」(中山美穂を想起させる、魅惑的な存在)が姿を現す。だが、その表情には、どこか会社の飲み会で歌ったあの女性の面影も重なって見えた。会社の女性が持つ肝の据わった、不良っぽい佇まいと、中山美穂さんのクールな魅力が一体となり、彼女は、あのドラマの役柄をまとったかのように、少し挑発的で、しかしどこか儚げな眼差しで田中を見つめる。
妄想の深化:甘美で背徳的な関係と、満たされる承認欲求、そして叶わなかった夢と恋の具現化: 妄想は、あのドラマの世界観そのものだ。彼は「彼女」の秘密の恋人。人目を忍んで逢瀬を重ねる二人。夜のネオン街、雨に濡れる路地裏、薄暗いバーのカウンター。肌が触れ合う距離。彼女の吐息が田中の耳にかかり、その熱が全身を駆け巡る。手と手が触れ合い、指が絡み合う。具体的な描写はなくとも、その微かな触れ合いや、互いの視線が交錯するだけで、抗いようのない陶酔感と、どこか背徳的な興奮が田中を包む。石鹸の香りに混じって、昔、彼女がCMに出ていた香水のような甘い匂いが、浴室に満ちる。「もう逃げられないよ…」彼女の囁きに、田中は全身が痺れるような感覚を覚える。この瞬間、彼は現実の孤独な自分を忘れ去り、ドラマの主人公として、憧れの「彼女」と、そして叶わなかったあの女性と深く結ばれていく。 さらに、妄想の中の「彼女」は、彼の仕事でのアイデアを「素晴らしいわ!」と賞賛し、彼の存在を心から認める。彼は「彼女」の隣に立つことで、多くの人々から注目され、尊敬される感覚を得る。
ステージへの誘い、そして共演: 妄想は最高潮に達する。彼の傍らには、鮮やかなスポットライトが降り注ぐ。手には、夢見たエレキギターが握られている。そして彼は、まるで本当にギターを弾いているかのように、空中でピックを構え、力強く腕を振り下ろす。彼の指は、まるで弦を抑えているかのようにしなやかに動き、完璧なコードを奏でる。目の前には、熱狂的な観客が埋め尽くす巨大なステージ。そして、彼の隣には、輝く「彼女」がマイクを握り、優しく微笑んでいる。 彼はまさに、夢見た「バック演奏者」として、その舞台に立っていた。 そして、「彼女」が「世界中の誰よりきっと、私だけを…」と歌い出すと、田中はギターをかき鳴らし、その歌声に合わせて、WANDSのハモリパートまでプロ並みの腕前で完璧に口ずさむ。まるでWANDSのギタリスト兼コーラスになったかのように、彼は「彼女」と一体となってステージを支配する。ふと、彼女が田中の方に視線を送り、小さく頷く。それは、まるで「任せたわよ」とでも言うかのような、揺るぎない信頼の眼差しだった。そして彼女は、あのドラマで田中が最も愛した「また、逢えるかな」という名ゼリフを、そっと彼の耳元で囁く。その瞬間、田中は心の中で確信する。「これで、きっと父さんも母さんも、俺の人生を認めてくれるはずだ…」その歌詞とメロディ、そして完璧なハモリは、彼が「彼女」に抱く、ただ一人の特別な存在でありたいという願いと、彼の叶わなかった音楽家としての夢、バック演奏者としての未練、そして現実でかなわなかった恋の成就を象徴する。
ステージの光が、まばゆい太陽の光へと変わる。目の前には、コバルトブルーに輝く沖縄の海が広がる。白い砂浜には、ビデオで擦り切れるほど見た「恋をしたら沖縄へ行きましょう」のCMそのままに、「彼女」が水着姿で楽しそうに田中を呼んでいる。 「健一!こっちよ!」彼女の無邪気な声に、田中は思わず駆け寄る。手と手を取り、波打ち際をはしゃぐ二人。砂浜に残る足跡が、まるで永遠に続く二人の関係を象徴しているかのようだ。 「こんな日が来るなんて…」田中は、心の中で呟く。彼女が彼に微笑みかけ、「ずっと一緒だよ」と囁く。その言葉は、彼が現実で決して得られなかった温かさ、そして安心感に満ちていた。
不穏な兆候と暗示、そして絶望: しかし、その一方で、彼の体の感覚は少しずつ鈍くなっていく。湯の熱さが心地よい麻痺に変わり、「あれ?湯がぬるくなったかな?」と彼は誤解する。
その時、遠くのリビングから、母の甲高い悲鳴のような声が聞こえた。何事かと耳を澄ますと、テレビからアナウンサーの硬い声が響く。「速報です…国民的スター、中山美穂さんが…」田中の脳裏に稲妻が走った。なぜ、今、そんなことが…!?」彼が掴みかけた希望の光が、瞬く間に砕け散る。彼の全身から力が抜け、湯船の底に沈みそうになる。彼の心臓が、まるで現実の悲劇を拒むかのように、激しく鼓動を打つ。
妄想の中の「彼女」が、ふと、哀愁を帯びた表情を見せる。それはまるで、彼女が現実の悲劇を予感しているかのように、田中の心に微かなざわめきを与えるが、彼はその意味を深くは考えない。「これで、もう全部終わりだね…」と、どこからか聞こえる声が、彼が夢から覚めることを拒絶しているかのように響く。
結末:泡と消える、甘美な幻想
妄想の中で、田中は「彼女」と永遠に結ばれる至福の瞬間を迎える。彼は「君と一緒なら、どこまでも行ける…」と心の中で呟く。彼の顔には、満たされたような笑みが浮かぶ。彼は、この甘美な夢の中で、もう二度と現実に戻りたくないという強い願望を抱く。 その言葉と共に、彼の意識はプツンと途切れる。
場面は一転し、現実の浴室が映し出される。湯船には、冷たくなった田中健一の体が沈んでいる。浴室は湯気で満たされていたはずだが、湯はすでに冷め、沈黙だけが支配している。彼の顔には、苦痛ではなく、どこか満たされたような、安らかな表情が浮かんでいる。彼は、最期まで夢の中で幸せだったのだ。
彼の最期の原因は、ヒートショック。暖かいリビングから寒い脱衣所、そして熱い湯という急激な温度変化が、誰にも気づかれることなく彼の命を奪ったことを暗示する。この悲劇は、自宅の風呂という身近な場所で起こりうる危険性を静かに訴えかける。
部屋には、彼が愛した「彼女」のポスターが貼り付けられたまま、そしてCD、何度も再生されたビデオテープ、エアチェックされたカセットテープの山が積まれている。埃をかぶったギターが、主を失ったかのように静かに佇む。隣には、壊れかけのラジカセが静まり返っている。それらが、彼の人生の終焉を静かに見つめている。まるで、彼の青春の輝きが、泡のように消え去ったかのように。そして、彼の最期の瞬間、彼が夢見ていた「あのドラマ」の主人公のように、甘美な幻想の中で旅立ったことが暗示される。
遠くのテレビから、ニュースのアナウンサーの声が微かに聞こえる。それは、彼が知り、そして希望を見出したはずの、まさに再始動の矢先にいた国民的スターの訃報と、その彼女が主演するはずだったドラマの放送、そして、その役を妹が引き継いだという話題だった。彼の世界は泡のように消え去り、現実だけが容赦なく時を刻んでいた。誰も彼の死に気づかないまま、彼の部屋には「彼女」の歌声だけが、虚しく響き渡るような静寂が広がる。