夜駆け
冬。ある日暮れ。
男は一人、闇の中を歩いていた。
どこから歩いてきたのか。それはこの場においてはあまり問題にならない。男が出てきたのが仕事場であっても、居酒屋であっても、それはあまり関係のない事であり、重要なのはむしろ、どこへ向かうかである。
無論、我が家である。
と言うのも、手にした提灯が朧に照らす男の顔は、家路を急ぐ者特有の色が滲んでいたからである。この色というのは何とも説明しにくいものであるが、歩きながら既に温かい我が家の景色を頭に思い浮かべているような、とでも言えば伝わるだろうか。顔の表面は強ばっているくせに、皮膚のすぐ下には紛れもない笑みが潜んでいるような、そんな表情を男はしていた。身がすくむほどの寒さの中で、ただ男の心の中だけが柔らかい熱にくるまれていた。
当然ながら、男の歩みは速い。
足先の闇を蹴散らすようにして、両の脚を慌ただしく前後させている。男の顔も視線も心も、全ては脳裏の我が家に集中しており、一切の不純物も混ざってはいなかった。男の姿はさながら一直線に闇を走る一本の矢のようにも思われた。
と、その足が止まる。
ぴたりという音が聞こえてきそうな、前置きのない唐突な止まり方である。「止める」ではなく「止まる」と表現したのは他でもない、男の顔がぎょっとしており、何か異変を感じ取った身体が本能的にその脚を止めたことが明白だったからである。しかし男の周囲には闇以外のものは何もなく、男もまた、何を見つめてもいなかった。異変を感じ取ったのは目ではなく鼻―――臭いだった。
男が頭に思い浮かべたのは赤いそれだった。
鉄の錆びたようなと、例えようもあるかも知れない。しかしごく普通の町の通りである。かくも強烈に臭いを発するような鉄が、道のどこかに転がっているはずもない。男はそう思いながらも、その一方でどうしようもなく〝はずのない事〟が起きているのではないかと、ひどく消極的に考えずにはいられなかった。男は遂に、その胸の奥からも熱を失っていた。
男は前に進むでもなく、後ろに戻るでもなく、ただ突っ立ったままだった。
その理由は悲しいほどに明白である。その鉄に似た生臭いやつは男の足の先、つまりは彼の家路の上に存在しているのである。家はもうすぐそこ、遠回りして辿り着けるような道を男は知らなかった。すなわち家に帰りたければ、このまま進むより他はなかったのである。
とは言え、男は中々足を踏み出せないでいた。それは男が極めて臆病であるからではない。人気のない夜道。この状況において何の怖れもなく進める者がいたとすれば、それは名の知れた豪傑か、もしくは悟りを開いた僧侶、あるいは想像力が絶望的に欠如した命知らずに違いない。
さらに、と着け加えよう。
男が前に進めない理由の一つ、むしろ脚の枷となったものの大部分が、とある噂に起因していた。
曰く、辻斬りが出た――――と。
何日か前の事である。
男の女房だか友人だか同僚だかが、恐ろしげに装いつつも、その実は楽しげに、男に語って聞かせたのである。
十日ほど前に誰それが斬られた。五日前に誰それが斬られた。三日前には………。
戦が遠い過去のものとなり、平穏が日常となって久しい世の事である。刃傷沙汰というのは滅多にあるものではなく、殺す殺されるというのがある種の娯楽として機能していた。辻斬り、しかも連続とあっては、誰もが飛び付かずにはいられない話題である。老若男女問わず、人々は顔を合わせればまず、辻斬りについて口にした。
しかしこの男、そういう話題を好まぬ質で、奇妙な義務感に駆られたように話し続ける人々を、むしろ小馬鹿にしていた。男はその話題を振られる度に、決まってこう口にした。
辻斬りが事実なら、役人が動かぬのはおかしいではないか―――と。
これは的を得ていた。
金を巡らせるのが我が天命とする役人。彼らがその障害となる危険をのさばらせておくはずがない。事実、今までそうだった。二月ほど前の強盗は十日も経たずに縄にかけられたし、この間定食屋で起きた喧嘩は、誰かが誰かを殴り倒す前に役人が駆けつけてきた。それほどの素早く的確な対応を取れる彼らが、辻斬りの犯人を捕まえるどころか、捜す事すらしていないのである。それはつまり死体も目撃者も出ていないからで、事件そのものが発生していないからだ。と、役人に対し信頼を寄せている男は考えていた。もちろん、男以外の町の人々もそうである。信頼しているからこそ、この噂を楽しむ事が出来たのだ。
男は再び歩き始めた。
しかしそれは、錆びた鉄が転がっていると判じたからでも、役人対する信頼が背中を押したからでもなければ、勇気が突如として胸の奥から湧き起こったからでもない。
実はこの男、歩き出すために必要な動機をこの時何も持ってはいなかった。
これはしかし、それほど不思議な事ではない。
不思議とするならばそれはむしろ人の方である。人は時折、ひどく無造作に行動に出る時がある。絶対にやらないと考えている事を、何の前触れもなくひょいと、本人でも気づかぬうちにやってしまう。焦りに突かれた場合もあるだろうが、そうでない事も多い。思考の袋小路に入ったときに本能が促す、一種の救済措置であるという考え方も出来るかも知れない。無価値な停滞とは、生物の最も忌避するところであるからだ。
男の話に戻ろう。
純然たる意志によって一歩を踏み出したわけではないとは言え、歩き始めれば既に男は男に戻っていた。男の顔は緊張に彩られ、足を止め、引き返す事をしない代わりに、腰に刷いた太刀の鞘を、提灯を持たぬ方の手でがっちりと掴んでいた。その構え方を見る限り、ひょっとすると男は腕に覚えがあるのかも知れない。斬る、斬る、斬る、と心で念じ続けているような気迫が、提灯の光よりも遠くまで、闇をかき分けていた。
出来るだけ足音が立たぬようにして歩く男は、その臭いが段々と強くなってきているのに気がつかずにはいられなかった。誠に生臭い、吐き気のするようなやつである。男の瞳はそれに浮かされたように、ぎらぎらと輝いていく。太刀を握る腕に一層の力が込められる。
足は止まらない。
男は既に、何かを待ち望んでいた。
気づけば家の前である。
男はその事実にぎょっとした顔をし、濃く長い息を口から零した。それが安堵よりも落胆を多分に含んでいたのは言うまでもない。とは言え男は家路の最後を締めくくるべく、家の戸へとその手をかけた。
その瞬間の事である。
男は背後に何者かの気配を感じ、一瞬で提灯を投げ捨てると、鞘から太刀を抜きざま後ろを振り返った。
ごとり―――と。
何かが地面を転がる音を男は耳にした。
はっきりした手応えの残る太刀を強く握りしめながら、それが何であるかを確認するべく、視線を地面に這わせた。その二つの瞳、当初抱いていた恐怖や躊躇の類はどこにも見あたらない。その代わりに、てらてらと脂ぎった光を放つ興奮と達成感が、眼球から勢いよく溢れ出ていた。まるで別人のような顔つきだった。
闇の中。
足下の提灯が照らす地面の上、その隅の方で男が目にしたのは他でもない、
見慣れた自分の首だった。
悲鳴が夜を駆け抜けた。
男は太刀を放り出し、家が目の前にある事も忘れて闇の中へと飛び込んでいった。その両腕は、己の首が確かにそこにある事を確認しようと、肩の上まで伸ばされていたが、それより先に進みその目的を達する事は終ぞなかった。
落ちたのは一体どちらの首だったのか。
それを知る者は誰もいない。
初めての短編。
制作時間四十分という愚行。出来は当然その程度。しかし、どこをどう直せば良くなるか解らない……。
短編って本当に難しいですね。努力云々の前に、私には向いていない様な気がします。と言うよりもそもそも、腕が追いついていないからですね。短く、しかし形のある文章……遠い遠い。
時間がある方、感想よろしくお願いします