7 新居へ②
四階フロアのほとんどはパーシヴァルの部屋だったが、残りの一部をサンドラに与えてくれるそうだ。
一通り部屋の紹介をした後で、サンドラはパーシヴァルの執務室に向かいそれぞれソファに座って向き合った。
「さて、では今後の生活についてだが……。基本的に君には、離宮で自由に過ごしてもらおうと思う。今の私はまだ第二王子だから、妻同伴で出席しなければならない夜会や会議などはさほど多くない。そういうものの日程が決まればすぐに連絡するので、このときだけは万全の状態で臨めるようにしてほしい」
「もちろんでございます」
サンドラがしっかりうなずくと、パーシヴァルも安心したように美貌を緩ませた。
「それから……これまでは男性使用人たちに専門外の仕事を多く任せていたので、そういったものをサンドラに頼もうと思う。私もだいたいのことは自分でできるし日中は騎士団の方にいることが多いから、着替えや髪のセットなどの身だしなみを君に任せたい」
確かに、そういうのはメイドたちの仕事だ。だが彼の近くにサンドラ以外の女性を近づけることができないため、これまでは仕方なく男性使用人たちに任せていたそうだ。
(着替えのお手伝いや髪のセットとかなら、練習すればできそうね)
「かしこまりました。お任せください」
「ありがとう。それから、これまでは魅了の危険を考えつつも女性使用人に四階に上がってもらうこともあったのだが、それをなくそうと思う。というのも、いつ誰が近くに来るか分からない状態なので、自分の部屋だというのになかなか薄着になれなくて参っていたんだ」
パーシヴァルは恥ずかしそうに笑うが、逆にサンドラはすんっと真顔になってしまった。
(本来なら私室はくつろげる空間であるべき場所なのに、薄着になることもできないなんて……それは息が詰まってしまうし、気が滅入るのも当然だわ)
サンドラだったら何気なくできることも、この王子はずっと周りを警戒した結果、できないこともたくさんあった。
他の女性使用人を四階に上がらせないことによってパーシヴァルが薄着でくつろげる時間ができるなら、それは彼にとってとてもよいことだ。
(もし仲介が必要なら、私がすればいいものね)
「了解しました。では私はこれからパース様の公務の補助をしつつ、離宮で気持ちよくお過ごしになれるように環境を整えればよいですね」
「ああ、そんなところだ。……いろいろ任せて、すまないな」
「いいえ! 私はそもそも職業婦人なのですから、仕事を任されるのは嬉しいことです!」
これからパーシヴァルに頼まれることには雑用などもあるかもしれないが、なんでもこい、だ。
王城使用人として働く日々の中で、アガサに理不尽に当たられるという非常に珍しい経験もできた。だから、だいたいの仕事なら喜んで拝命できる自信があった。
(……もしかすると意外と私って、アガサから恩恵を受けていたりする……?)
アガサからすればとんでもない屈辱だろうが、これまでされてきた仕打ちのしっぺ返しだ。性格が悪いかもしれないが、これくらい許容範囲だと思っている。
そうしていると、執務室のドアがノックされた。入ってきたのは、ロイドだった。
「殿下、サンドラ様、失礼します。妻のアーシュラがご挨拶にと参りました」
「ありがとう。通してくれ」
パーシヴァルが言ったので、サンドラはごくっとつばを呑んだ。
(アーシュラ様はロイド様の奥様で、私の助っ人になってくださるとのこと……。どんな方なのかしら)
間もなく、ロイドに連れられて若い女性がやってきた。
黒い艶やかな髪は、後頭部で一つに結っている。レディアノール王国では、独身女性は髪を下ろすかハーフアップにするかで優雅になびかせて魅力をアピールし、既婚女性は貞淑さの証しとしてまとめることになっていた。
灰色の目はやや目つきが鋭く、隣に立つ夫が垂れ目なのとは対照的だった。華美さを抑えたモスグリーンのドレスを纏う彼女はおそらく二十代後半くらいだろうが、熟成した大人の落ち着きを備えているようだった。
「お初にお目にかかります、サンドラ様。ロイド・ギャヴィストンの妻の、アーシュラ・ギャヴィストンでございます」
落ち着いた雰囲気にぴったりの低めの声で挨拶されたため、サンドラも急ぎお辞儀をした。
「お初にお目にかかります、ギャヴィストン侯爵夫人。パーシヴァル殿下の妻となりました、サンドラでございます」
「わたくしのことはどうか、アーシュラとお呼びください。これでも娘を持つ母でして、人生の先輩としてサンドラ様にご助言もできると思います。もし何かございましたらこのアーシュラにお申し付けくださいね」
アーシュラが微笑んで言ったので、サンドラも笑顔でうなずいた。
「ありがとうございます、アーシュラ様。……私は一人っ子でしたしいとこも全員男性だったので、お姉様がほしかったのです」
悲しいかな、エドモンズ家の宿命により周りにいる同じ年頃の親戚が野郎――しかもことごとくマッチョ――ばかりだったので、年の近い同性の親戚がずっとほしかった。
少女時代、お人形遊びをしたくても周りにいるのは木刀を持って振り回すような男児ばかりだったものだ。
サンドラの言葉に、アーシュラは「まあ」と嬉しそうに頬を緩めた。
「それは光栄です。サンドラ様とたくさんお話ができることを、楽しみにしておりますね」
「はい、こちらこそ!」
声を弾ませたサンドラを、アーシュラは優しく見つめてくれた。
ひとまず離宮の説明やアーシュラとの顔合わせが済んだので、本日は休むことになった。
「先ほど説明したように、食堂は二階にある。私はいつもそこで食べるのだが、自室に持って行かせることもできる。サンドラはどうする?」
夕暮れ時の廊下を歩きながら問われたので、少し考えてからサンドラは答えた。
「できれば私もご一緒したいです」
「いいのか?」
「はい。だって、パース様と一緒にいる時間が少しでも長い方がいいじゃないですか」
ただでさえ彼は多忙で、朝早くに出勤して夜遅く、場合によっては深夜に離宮に帰ってくることもあるという。
社交などのない日はぐうたらすればいいサンドラとは忙しさが全然違うのだから、もし顔を合わせられる機会があるのならばなるべくパーシヴァルの顔を見たいと思えた。
サンドラがそう言うと、パーシヴァルは「……それもそうだな」と頬を緩めた。
「確かに、契約といえど結婚したというのに別々の場所で食事をするというのは、寂しいものだ。では、二人の予定が合うのならば極力食堂で一緒に食事をすることにしよう」
「はい!」
「それで、食事の後だが……早速君に、仕事を任せたい」
パーシヴァルに言われたので、サンドラはきりっと表情を引き締めた。
(何の仕事か分からないけれど、全力で取り組まないとね!)
「かしこまりました! ……ええと、夕食後のお仕事はなんでしたっけ?」
「風呂の後の、髪の手入れを頼む」
「あ、なるほど。了解です」
確かに、髪のセットも仕事の一つなのだから起床後だけでなくて夜の入浴後も髪を拭いたりしなければならない。
……ふと、サンドラは目を瞬かせた。
「あの、念のためにお伺いしますが、入浴の介助などは必要ございませんよね?」
「えっ? ……あ、ああ。それは大丈夫だ」
パーシヴァルは一瞬言葉に詰まったようだが、うなずいた。
「さすがにそれくらいは自分でできる。……というか君も、いくら契約結婚だとしても知り合って間もない男の入浴介助なんてできないだろう?」
「いや、やってみないと分かりませんし、それなりに耐性はございますので」
「……なぜ、入浴介助に耐性が?」
どこか据わった目をしたパーシヴァルに問われたので、サンドラは頭を掻いた。
「いえ、うちの伯爵家はご存じのとおりの有様なのですが……伯父も従兄弟も領民もデリカシーがない者が多いのか、訓練後にその場で服を脱いで水浴びをする人も少なくなくて」
母や伯母はそのたびに「ここにはレディもいるのですよ!」と吠えていたけれど、むさい男たちは聞く耳を持たない。
よってサンドラたちはやれやれと思いながらも大量のタオルを抱えて、水浴び上がりの男たちに投げつけていくということをしていたのだった。
「さすがに私が男性の体を洗ったりはしないのですが、洗いっこをしている姿を見ることはよくあったので。……あ、彼らが見せるのは上半身だけなので、大丈夫ですよ!」
「……そ、そうか」
一応納得してくれたようだが、パーシヴァルは「……本当に、奇妙な伯爵家だな」とぼやいていたのだった。
登場人物メモ⑤
アーシュラ・ギャヴィストン(27)
ギャヴィストン侯爵夫人。黒髪に灰色の目。
ロイドの妻で、子爵家出身。基本的には貞淑なよい妻だが気は強く、わりと夫を尻に敷いている。