6 新居へ①
「挨拶はできたのか?」
サンドラが使用人用詰め所を出たところで、声を掛けられた。そちらに顔を向ければ、ロイドたちを伴うパーシヴァルの姿が。人通りの多い場所にいるから、夏ではあるが今の彼はやはり厚着だ。
彼に手招きされてそちらに向かったサンドラは、うなずいた。
「はい、メイド長様や友人たちと話ができました」
「メイド長は最初から我々の計画に協力してもらっていたことだし、すんなり受け入れられたようだな」
パーシヴァルの言うように、旧メイド長がクビになってすぐに採用された新メイド長は、最初からパーシヴァルたちの協力者的立ち位置だった。
最初はパーシヴァルもだめもとで旧メイド長に恩人の女性について相談したものの、案の定偽者を連れてこられた。
彼らとしてはなるべく早く件の女性を特定したかったのだが、また偽者が出てこられても面倒くさい。
よって、彼女が置いていってくれたハンカチを使うことにした。
「これは誰のものですか」とメイド長が聞いたら、何かを嗅ぎ取った偽者が名乗り出るかもしれない。
だからあえて落とし物箱に置いておき、本物の恩人が自主的にそれを見つけてくれるのを待つことにしたのだった。
パーシヴァルが言うには、「ハンカチ作戦がだめだったときのことを考え、他の方法も用意していた」とのことだが、結果としてサンドラがハンカチの持ち主として名乗り出てくれたのでうまくいったそうだ。
友人たちはサンドラの大出世――を凌駕するような待遇に目を丸くしたが、「すごいじゃん!」「またいつでも、遊びに来てよ!」「なんならいい人を紹介してね!」と明るく送り出してくれた。
サンドラとしてもこれまで仲よくしてくれた元同僚たちとはこれからもよい仲でありたいし、いい人がいるなら仲介くらいしようと考えている。
(アガサは、むちゃくちゃ恨めしそうな目でこっちを見てきたわね……)
彼女もまさかサンドラが本物の恩人だったとは思っていなかったようだし、「夏の熱気で倒れていたところを、通りがかった心優しい女性に助けてもらい、恋に落ちた」というパーシヴァルの話を聞いて、だいたいのことは分かったのだろう。
あの日、アガサがサンドラに水汲みを命じたから、サンドラはパーシヴァルと出会った。
彼女が王子妃として迎えられたのはそれに加えて、妖精の血への耐性があるからなのだが――そこまでは公にされないのでアガサは、「仕事をさぼらなければ、自分がパーシヴァルに見初められたのに」と思っていることだろう。
(人生、何が起こるか分からないということね)
アガサの嫉妬に満ちた視線を受けつつ使用人用詰め所を出て、パーシヴァルたちと合流した。挨拶は終わったので、これから離宮に移動する。
サンドラとパーシヴァルは運命的な出会いを果たし、パーシヴァルの熱望により一日でも早く籍を入れることが決まった。よって二人は婚約期間をたった数日に縮小し、可及的速やかに結婚宣誓書を提出することになった。
本来ならば王族の結婚式となると華々しいものになるが、さすがにそこまで立派なものを数日で準備することはできない。
よって世間には、「王子の希望ですぐに結婚して同居生活を送るが、盛大な結婚式はまた後日」と知らせている。
サンドラとしても、伯爵の姪からいきなり王子妃にすっ飛んでいっただけでも大変化なので、まずは新生活に慣れてから結婚式を行いたいと思っているし、なんなら自分のためにそこまで式を立派にしなくてもいいと言ったのだが、「これは私の甲斐性だ」とパーシヴァルに真剣な顔で迫られてしまったのだった。
(メイド長に連れられてここに来てから、まだ半月程度なのね……)
パーシヴァルの居城を見上げながら、サンドラはしみじみと思う。
ここ数日が本当に怒濤の日々だったので、ハンカチを返してもらおうと思っただけなのに離宮に連れてこられて呆然としたあの日のことが、もう何年も前の出来事かのように思われた。
「これから、ここがサンドラの家になる。……離宮の者は皆私たちの都合を理解しているから、遠慮なく彼らを頼ればいい」
「ありがとうございます、殿下」
サンドラは礼を言ったが、彼女の隣に立っていたパーシヴァルはふと眉根を寄せた。
「……私たちは先日結婚宣誓書を提出した、いわゆる夫婦だ。それなのに妻から敬称で呼ばれるのは少し寂しいな」
「……しかし、殿下は殿下でしょう?」
「それは私の名前ではない。……王太子妃殿下は兄のことを、名前で呼んでいる。君もそうしてくれないか?」
「えっ」
サンドラは、パーシヴァルの顔を見上げた。
パーシヴァルやロイドは男性にしては背が高い方なのかもしれないが、エドモンズ家の宿命により巨漢ばかりの男たちに囲まれて育ったためか、顔を見上げるのにそれほど苦労しないと思われる。
(名前……? それってつまり……)
「……パーシヴァル様、と?」
「私の愛称は、パースだ。パースと呼んでくれないか?」
「……パース様?」
「うん、それでいい。私も君のことを、サンドラと呼ばせてもらっていいかな」
「それはもちろんです」
「ありがとう。……なんだかいいな、こういうの」
おそるおそる呼んでみたが、パーシヴァルはたいそう気に入ってくれたようで一気に表情を緩め、金色の髪をそわそわとなでつけた。
「愛称で呼んでもらうのは、いかにも新婚夫婦という感じがしないか?」
「それは……まあ、そうですね」
サンドラとパーシヴァルの婚姻は、契約結婚だ。新婚夫婦だろうと何だろうと、二人が甘い関係になることは今のところ予定されていない。
だが結婚の際の契約書にも書いたように、二人は仲睦まじい夫婦を演じる必要がある。世間には「第二王子が自分を手当てしてくれた女性に熱烈に惚れ込んで、求婚した」と伝えているのに二人がよそよそしかったら、関係を疑われかねない。
(これも契約、仕事、仕事ね、うん)
仕事と割り切れたら、気分がずっと楽になる。この割り切りのよさやある意味諦めのよさも、やはりマッチョに囲まれて育ったから身についたのだろうか。
離宮は四階構造になっており、いつぞやサンドラが通された応接間のように外部の者も出入りするのは主に一階までで、二階が食堂や遊戯室や使用人用の部屋、四階には主であるパーシヴァルの寝室がある。サンドラ用の部屋も、四階にあった。
なお三階はほぼ空き部屋だが、ここについて尋ねると「子ども用の階だ」と少し言いにくそうに教えてもらった。
サンドラは知らなかったが、王城内に複数存在する離宮は全て四階構造で、どれも三階は子どもたちのための階になっているそうだ。
……つまり、残念ながら今のところ、この階が使われる予定はないということだ。