18 王子妃の危機
建国祭に向けた準備が少しずつ進む中、ある秋の日にサンドラは少し懐かしい場所を訪問していた。
「……まあ、ようこそお越しくださいました、王子妃殿下」
「サンドラ様のお越しを、お喜び申し上げます」
「……ありがとう、皆」
現れたサンドラを出迎えるのは、そろいのお仕着せ姿の女性たち。
かつて、サンドラが毎日通っていた職場。
ここは、王城使用人の詰め所だった。
王子妃としての生活も軌道に乗ってきたことだし、せっかくだから元同僚の皆のところに顔を見せに行くことに決めたのが、数日前のこと。
当然のことながらパーシヴァルは仕事があるので同席できないが、「手が空いたら様子を見に行く」と言ってもらえたし、離宮から連れてきたお付きもいる。
かつてサンドラのことを名前で呼んでいた同僚たちは皆、頭を垂れて王子妃の訪問を受けている。
当然のことではあるのだが……やはり、寂しい。
「……皆、顔を上げてください。それから、今日私は公務などではなくて懐かしい皆の様子を見に遊びに来ました。どうか、気を楽に……って言っても、聞いてくれないわよね。はい、じゃあ今から私に対して堅苦しい態度を取るのは禁止しまーす!」
サンドラが声を上げると、皆は顔を上げて戸惑いの表情を浮かべた。果たしてサンドラの言葉を信じていいのか、それとも王城使用人としての立場を貫くべきなのか、迷っているのだろう。
「……皆、王子妃殿下――ではなくて、サンドラのお願いを聞きなさい」
静かな声を上げて現れたのは、メイド長だった。
彼女は入り口に立つサンドラを見て微笑み、優雅に腰を折った。
「ごきげんよう、王子妃殿下……と申したら、あなたはさぞ怒るでしょうね」
「怒りはしませんが、寂しいですね」
「そうでしょうとも。……今からサンドラに対して気軽な態度で接するというのは王子妃殿下のご命令であり、それはひいてはパーシヴァル殿下のご意向にも繋がります。皆、サンドラを元同僚として迎えましょう」
メイド長がそう言ったことでようやく、皆も踏ん切りが付いたようだ。
一様にほっとした顔になると、わっとサンドラに詰め寄ってきた。
「おかえり、サンドラ!」
「ねえねえ、王子妃としての生活ってどうなの?」
「それより、パーシヴァル殿下について教えてよ! クールな殿下が妃の前だけでは甘い顔になるのって、本当!?」
(……なんだかこの感覚、すごく久しぶりだわ)
王子妃として傅かれるようになってからは、ご無沙汰になっていた感覚。
雑で、容赦も遠慮もなくて……でも温かい、優しい感覚だった。
王城使用人の女性たちは皆好奇心旺盛で、サンドラはもみくちゃになりながら質問攻めされた。
「大人気でしたね、サンドラ様」
「ふふ……私もかつては、あの中に交じっていたのよ」
お付きの使用人にそう言ってから、サンドラは庭のベンチに腰掛けて空を仰いだ。
皆は自分たちの元同僚が偶然が重なったことで王子に見初められ、そのまま妃に……という夢物語のような出来事に興味津々だった。
「もう、妬むとかそんな段階じゃないわ。聞ける情報はいくらでも聞くけれどね!」と、楽しそうに笑って言っていたものだ。
なお、使用人時代にサンドラと仲がよくてアガサによく雑用を押しつけられる仲だった同僚には、「王城使用人の女の子と交際したいと思っている騎士の名前リスト」を渡しておいた。
彼女からは、「いい人がいたら紹介してね!」と言われており、パーシヴァルに相談したところ、「実は騎士団にも、王城使用人の女性と交際したいと思っているやつは結構いるんだ」と教えてもらった。
よってパーシヴァルが王城使用人との交際を希望する騎士の名前をリストアップし、それをサンドラに渡してくれた。これをかつての約束どおり友人に渡したところ、「サンドラ、あんたは女神よ!」と抱きつかれた。
もしこれがきっかけで友人がよい縁を見つけられたのなら、サンドラとしても嬉しいばかりだ。
「それにしても、今日はいい天気ね。喉が渇いたわ」
「何かお飲み物を持って参りましょうか?」
「そうね。何か、冷えたものを――」
――かさ、と背後で音がした。
「……え?」
「っ……サンドラ様!」
気配に気づいたらしいお付きが慌てて手を伸ばしてきたが――遅かった。
サンドラが座っていたベンチの背後の、茂み。
そこから伸びてきた手が、握っていた瓶の中身をサンドラに向けて思いっきりぶちまけていた。
「きゃあっ!?」
「サンドラ様!?」
なんとか反射で身をよじったものの、顔を背けたサンドラの左肩付近に何か冷たいものがびしゃっと掛かり――すぐにそれは異様なほどの熱を放った。
(な、なに、これ!? 熱い……!?)
「いっ……痛いっ……!」
「……サンドラ様! すぐにお手当てを――」
「……え、なに? なんで、そんな……」
痛みでベンチから転がり落ちたサンドラをお付きの女性が抱き上げる傍らで、呆然とした声がした。
(こ、この声は……)
痛みに顔をしかめながら上を向くと、サンドラの視界に見慣れた顔が入った。
ベンチの背後の茂みから上半身だけを覗かせている彼女は、不気味な色の液体が滴り落ちる瓶を手に、呆然と立ちすくんでいた。
「ア、ガサ……?」
「おのれ……! 貴様、サンドラ様を害そうとしたな!?」
「ち、違う、違うの! こんなはずじゃ……」
「……サンドラ!?」
慌てふためくアガサの声をかき消すのは、サンドラの夫の声。そういえば、手が空いたら様子を見に来ると言っていたのだった。
「……パース様……」
「殿下! この女がサンドラ様に、劇薬を……。申し訳ございません……!」
お付きの女性が涙声になりながら、自分のエプロンを引き裂いてサンドラの左肩に巻き付けているようだ。
だがサンドラは痛みと混乱とショックでだんだん意識がもうろうとしてきて、自分を抱きかかえてくれているはずの女性の顔もよく見えなくなってきた。
「あ……」
「サンドラ! しっかりしろ、すぐに助ける!」
サンドラの体は女性の腕から離れ、たくましい腕に抱き留められる。すん、と漂うのは、毎日サンドラがパーシヴァルの整髪のために使っている香油の香り。
(パース様……)
「……ス様。肩、痛い……」
「おそらく皮膚に炎症を起こさせる毒物を掛けられたのだろう。……すぐに助けるから、しっかりしてくれ、サンドラ!」
パーシヴァルの声も、だんだん遠のいてくる。だが、怖いとか不安だとかとは思わない。
パーシヴァルが、「すぐに助ける」と言ってくれた。
彼は絶対に、約束を違えない。
(……来てくれてありがとうございます、パース様)
肩が、痛い。そして、眠い。
だがきっと、きっと大丈夫だ。
「……すきです、パース様」
パーシヴァルのことを、信じているから。