17 「契約」の意味
サンドラの王子妃としての本格的な仕事が決まったのは、結婚して二ヶ月が経過した頃のことだった。
「毎年秋に行われる、建国祭。おそらくこれが、サンドラにとって初の大舞台になるだろう」
公務を終えて離宮に帰ってきたパーシヴァルは、そう言った。
レディアノール王国は毎年秋に、建国祭を執り行う。今から数百年前にレディアノール王国初代国王が即位したことを祝うこの式典には当然、王族は皆出席する。
また建国祭の前後五日間の合計十日は王都もお祭り騒ぎで、あちこちで催し物が開かれ、王族によるパレードも行われる。
(さすがに式典には出たことがないけれど、その後のパレードは遠くから見たことがあるわ)
立派な馬車に乗った王族が皆の声援の中、大通りを進んでいく。一度は近くで見てみたいと思っていたのだが、それよりも早く自分がその馬車に乗るようになるとは。
「サンドラにとって負担の少ないように手配する予定だが、最低でも建国式典への出席とパレードは任せなければならない」
「もちろんでございます。頑張ります」
サンドラが胸を張って答えると、パーシヴァルは「助かる」と微笑んだ。
「パレードでは王都の大通りを往復することになり、これが王子妃サンドラとして一般市民の前に出る初めての機会になる。……実は、パレード中にずっと手を振っているの、結構大変なんだ」
「うっ……そうなのですね」
「もし腕が痛くなったら私がなんとか理由を付けてサンドラが隠れて休めるようにするし、夜になったら腕の疲れが取れるマッサージでもするからな」
「も、もう。大丈夫です。頑張りますよ!」
夫の陰に隠れてさぼったり夫にマッサージをさせたりするなんて、とんでもない。
だが、最近ではパーシヴァルとの会話でこういう冗談めいたものも口にできるようになったというのは、サンドラとしても嬉しいことだった。
「建国祭まであと三ヶ月ほどだけれど、今からサンドラに急いで準備させるものはないはずだ」
「強いて言うなら、手を振る練習……くらいですかね?」
「はは、確かに早めの練習はいいだろうな。……では今日から毎朝、私の出勤の際には手を振って見送ってくれないか?」
パーシヴァルがそんな提案をしたので、サンドラは目を瞬かせた。
「手を振ってお見送り……」
「ああ。……というのは冗だ――」
「すごくいいですね! それ、採用します!」
サンドラが身を乗り出すと、パーシヴァルは少しのけぞった。
「えっ、いいのか?」
「いいも何も、三ヶ月後に優雅にかつ長時間手を振るための練習になるでしょう? それに、ほら、玄関に立って手を振り旦那様の出勤を見送るのって……いかにも新婚夫婦って感じがしませんか?」
契約結婚をして二ヶ月経ったが、当然のことながらサンドラとパーシヴァルは清い関係のままだ。必要以上の身体接触もしないと決めているので、手を取ることなども稀。
その代わりに会話や日常の報告などはしっかり行っており、少なくとも「仲のいい友人」くらいの関係にはなれているのではないかとサンドラは思っている。
だがパーシヴァルの方は、サンドラの言葉に首をかしげた。
「……新婚夫婦は、出勤前に手を振って見送るものなのか?」
「……あ、ええと、おそらく平民ではそうです」
遅れて、サンドラは自分とパーシヴァルの感覚の違いに気づいた。考えてみれば、貴族の夫婦が玄関で手を振ってお見送りをするなんて思えない。
(なかなか庶民臭さが抜けないわ……)
しょぼんとするサンドラだが、パーシヴァルは納得の顔になった。
「一般市民ではそのようにするのだな。仲がよさそうで、何よりじゃないか」
「そ、そうですかね。……ええと、では、王侯貴族の方々はどうなさるのですか?」
「そうだな……やはり、ハグとキスだろうか」
「えっ」
思わず声を上げると、パーシヴァルははっとした様子で手を振った。
「ああ、いや、あくまでも例だからな! 別に、その、私たちもそれをしなければならないというわけではないから、安心してくれ!」
「あ、あの、大丈夫です、分かっております!」
二人してわたわたしてしまい、サンドラは自分の心臓の音がとてつもなく大きいことに気づいていた。
それはつい、離宮の玄関で抱き合ってキスする自分たちの姿を想像してしまったからで……。
(あああああ! ないないない! 私たちは契約結婚なんだから、絶対ないから!)
……とは思ったものの。
「……あら? そういう契約でしたっけ?」
「えっ?」
パーシヴァルと建国祭の話をした、翌日。
離宮の庭園でアーシュラとお茶をしているときに昨日のことを話題にすると、黒髪の侯爵夫人はおっとりと首をかしげた。
「わたくしは細かくは伺っていないのですが、殿下とサンドラ様のご結婚の際にしたためられた契約書に、ハグやキスをしてはならないとは書かれていないのでは?」
「えっ? ……ええと、どうでしたっけ……」
せっかくなので、契約書の写しを使用人に持ってきてもらいそれを確かめることにした。
テーブルの上には、エドモンズ伯爵邸で作成した契約書の写しが広げられた。
それを眺めていたアーシュラが、「ああ、これです」とほっそりとした指先である箇所を示した。
・何かあれば随時相談し、二人で解決する
・必要以上の身体接触を行わない
「これはつまり、お互いの合意があればハグやキスをしてもよいということなのではないですか?」
「そういうわけでは――」
つい反論しかけたサンドラだが、はっと気づいた。
(……あれ? アーシュラ様のおっしゃるとおりじゃない?)
サンドラとパーシヴァルは契約結婚をしているので、契約履行に関係のない事柄――ハグやキス、同衾などは行わないことにしている。
だがそれはあくまでも、「必要ない」ことである以前に「お互いが希望しない」から、しないのである。
つまり、サンドラとパーシヴァル両方がハグをしたい、キスをしたいと思うのならば合意の上での行為になるため、問題ないのである。
そして同じように、サンドラもパーシヴァルの両方が、相手と一緒に寝たいと思うのならば――
かっ、と頬に熱が上ったのが丸わかりだったようで、「あらまあ」とアーシュラが笑った。
「サンドラ様にはまだ早かったでしょうか?」
「え、ええと……アーシュラ様のご指摘のとおりではあると思うのですが、さすがに今の私たちには早いと言いますか、まだそこまでではないといいますか……」
「仲のよいお友だち、といったところでしょうか?」
「そう、それくらいです!」
サンドラが勢いよく言うと、アーシュラはくすくす笑って契約書を使用人に渡した。
「それでは、この件についてはまだ先の話になるのでしょうね。……ですが、サンドラ様はそこまで契約にこだわらなくてよいと思いますよ」
「……こだわる、ですか?」
こちらを向いたアーシュラは、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「確かにあなた方は、契約で結ばれた夫婦でしょう。ですがその契約はあなたたちを縛るものではなくて、規律を作る役割であるとわたくしは思っています」
規律、とサンドラが繰り返すと、アーシュラはうなずいた。
「知り合って間もなく結婚したあなたたちには、目に見える形で決まりごとを作るのが効果的だった。それはあくまでもあなたたちの夫婦生活をよりよいものにするためのきっかけであるので、『契約だから、これをしてはならない』とはならないと思うのです」
「……。……いずれ、私たちがお互いを好き合うこともあると?」
「あら、わたくしから見ると今のあなた方はもう十分、お互いのことを好き合ってらっしゃると思いますが?」
「そ、それは、ええと、恋愛的な面で、ということです!」
サンドラが急いて言うと、アーシュラはうなずいた。
「ええ、恋愛的な面で相手を思うようになってもよいと思います。……好きという感情は、いつ芽生えてもおかしくありません。あなたがもし殿下に好きという気持ちを抱いて、殿下もまた同じ思いを返してくださるのなら、これ以上幸せなことはないと思いません?」
「……思います」
アーシュラの言うように、サンドラが差し出した「好き」を相手が受け取り、相手もまた「好き」をサンドラに贈ってくれたとしたら、天にも昇るような心地になるだろう。
「殿下がずっと抱えてらっしゃった問題を解決できるあなたなら、もっとそのお心の近くに行くことも不可能ではないでしょう。……もし、一歩先に進みたいと思うようになったとしても、怯える必要はありませんよ。わたくしも夫も、あなた方が幸せな生活を送れるよう、応援しております」
「アーシュラ様……ありがとうございます」
サンドラは、ほっと頬を緩めて礼を言った。
きっとサンドラはこれからずっと、この侯爵夫人に勝てないだろう。
そういえば。
「あの。アーシュラ様はロイド様が出勤される際、玄関でハグやキスをなさるのですか?」
「それは夫婦の秘密ですよ」
パーシヴァルの話が正しいのかの確認と単なる好奇心で聞いてみたのだが、きれいにはぐらかされてしまったのだった。