1 偶然の出会い
――ゴン、と足下にブリキのバケツが置かれる。
「じゃ、これに水を汲んできてね。いつも言っているけれど、あんたがやったってばれないように、誰にも見られないようにしてよ」
サンドラの前にバケツを置いた女はいけしゃあしゃあと言い、返事を待たずにきびすを返してしまった。「あー、忙しい忙しい」とぼやいているが、自分の仕事を他人に押しつけておいて「忙しい」なんてよく言えるものだ。
「……まーたあの性悪アガサが、雑用を押しつけてきたの?」
ブリキのバケツをつま先で軽く突いていると、背後から声がした。サンドラの後ろからのぞき込んできた友人は、バケツを見て鼻の頭に皺を寄せる。
「……ほんっとムカつくわよね。メイド長の姪だかなんだか知らないけれど、でかい顔をして振る舞ってさぁ」
「断ったらメイド長にあることないこと吹き込むのが、面倒なのよね……」
サンドラはため息をついてバケツを持ち上げ、後ろに立っていた友人を振り返り見る。
「すっごく嫌だけど、水汲んでくるわ」
「うん、行ってらっしゃい。……あいつとメイド長がてっぺんハゲになるよう呪っておくわ」
「よろしくねぇ」
サンドラは苦く笑い、水場に向かった。
サンドラ・エドモンズは、レディアノール王国エドモンズ伯爵を伯父に持っている。サンドラの父が伯爵の弟というだけなので、実質彼女の身分は平民だ。
とはいえ伯爵家の血筋であるため平民の中ではかなり裕福な域に入るし、伯父や従兄弟たちに連れられて貴族のパーティーに出席したこともある。礼法や基礎教養も教わっていたので、十八歳のときに王城使用人の採用試験を受けたときも高評価を受け、一発採用された。
それから、二年。
サンドラは、意地悪な同僚に仕事を押しつけられる日々を送っていた。
サンドラより一つ年下の使用人であるアガサ・オーダムは、メイド長の姪だ。彼女もサンドラと同じように一発採用されたそうだが、「実力ではなくて、伯母のコネで無理矢理入ったに違いない」と噂されている。
実際、アガサの仕事能力は高いとは言えなかった。元々さぼり癖があるのに加えて不器用でがさつで、要領も悪い。ただ顔立ちはとても愛らしくて人なつっこい性格ゆえ、伯母のメイド長は目に入れても痛くないほど可愛がっているし、騎士などからも人気があるそうだ。
(アガサと同じ有力者の姪、というだけで、私の採用についても悪く言う人までいるし、それでアガサも絡んでくるし……ろくでもないわ)
採用されて間もない頃、サンドラのもとに来たアガサがにっこり笑って言ったのだ。
「あなたって、伯父の権力で採用されたのでしょう?」と。
自分がコネ採用であるという噂が流れているのを知った上で、サンドラをも巻き込んできた。サンドラが能力の高さゆえに採用されたことは採用担当者も言っていたことなのだが、アガサは自分と似たような境遇のサンドラに絡み――そして、雑用を押しつけてくるようになった。
(これで伯父様たちに泣きついたらそれこそ、アガサと同類になるものね……)
アガサはきっと、分かっていてやっている。そういう点で彼女はきっと、かなり賢いのだろう。
バケツを渡されてから何度目になるか分からないため息をついたサンドラは、水汲み場でバケツいっぱいに水を入れた。水面には赤茶色の髪に紫色の目の女の姿が映っており、疲れた顔でこちらを見つめ返していた。我ながら、くたびれた顔をしていると思う。
元の場所に戻ろう――として、サンドラはふと動きを止めた。
(……今、うめき声が聞こえた……?)
今サンドラがいるのは、王城の隅にある水汲み場。近くにはこんもりと茂った植え込みがあるくらいで、あまり人通りの多い場所ではない。
(ならず者……が入ってくるわけがないわ。もしかすると、誰か倒れてらっしゃるのかも……?)
「もし、どなたかいらっしゃいますか?」
バケツを足下に置き、念のために声を掛けながら足を進める。
今日は、からりと晴れた夏日だ。サンドラもお仕着せの袖を二の腕までまくっており、それでもかすかに肌が汗ばむほど。もしかすると、暑さで体調を崩した者がいるのかもしれない。
そう思いながら植え込みの間を歩いていたサンドラははたして、植え込みの隙間からにょっと伸びる二本の脚を発見した。見えるのは膝から下のみだが、あのスラックスと軍靴からして騎士団の誰かであろう。
「騎士様、大丈夫ですか?」
急ぎそちらに向かうと、城の壁に上半身を預けてぐったりと座り込む青年がいた。肩先までの長さの金色の髪は汗でしっとりしており、端整な顔は険しく歪められている。荒い息をついているので、やはり夏の暑さで参ってしまって倒れていたようだ。
……この暑さなので、体を鍛えている騎士といえど倒れてしまう気持ちは分かる。
だが――
(……なんで夏なのに、こんな厚着なの!?)
サンドラが駆け寄って見下ろした青年は、どう見ても冬の装いをしていた。黒いジャケットは通気性の悪そうな厚手のもので、詰め襟のシャツのボタンもきっちり上まで閉まっている。これでは自ら進んで体調不良になっているようなものではないか。
(でも、放置するわけにはいかないし……よし!)
「もし、騎士様。体調が優れないようですので、服を少しはだけさせていただきますね」
念のために断りを入れるが、返事はない。だが伏せたまぶたが震えて目を開けようとしたので、意識はあるようだ。
彼の返事を待ってからでは手遅れになるかもしれないので、遠慮なく服を緩めさせてもらう。ジャケットのボタンを全て外して前を広げ、詰め襟シャツのボタンも胸元まで開ける。そこから見えた胸元は騎士だけあってなかなか鍛えられているが、マッチョにはほど遠かった。
サンドラは急ぎ元の場所に戻り、水入りのバケツを手に取った。
……一瞬、「遅い!」と怒るアガサの顔が脳裏を横切ったが、どいてもらった。
騎士の青年はまだそこにいたので、自分のポケットに入れていたハンカチを水に浸して絞り、青年の顔や胸元を拭いた後でそれを脇に突っ込んだ。
(お兄様たちの訓練風景を見ていたおかげね!)
サンドラの従兄弟たちは皆武闘派でしょっちゅう怪我の手当てをしてきたため、簡単な応急処置の方法は知っていた。今も領地で体を鍛えているだろうマッチョな従兄弟に感謝である。
水も飲ませてやりたいが、残念ながらこのバケツの中の水は飲用水ではない。
「お水、持ってきますね。あ、このバケツは置いておくので、もし使いたかったら使ってくださいね」
サンドラが声を掛けると、それまではぼんやりとしていた青年がゆっくりと、こちらを見た。
開かれたまぶたの向こうには、青空のような色の双眸があった。まだしんどいのか声は出ないようなので、サンドラは彼に微笑みかける。
「無理に話さなくて大丈夫です。じゃ、ちょっと行ってきますね」
どこか不安そうな眼差しの青年に優しく声を掛けてから、サンドラは立ち上がった。
飲用水が置かれている場所は、決まっている。青年が倒れていた場所からは少し離れていたが、ピッチャーいっぱいの水をもらったサンドラはよろめきつつ元の場所に戻り――
「……いない」
立ち尽くしてしまった。
数分前まで青年が倒れていた場所には、ブリキのバケツが残っているだけだった。急ぎその付近を調べたところ、青年が座っていたところの草が倒れていた。
あの青年は幻だったのではなくて、サンドラが水をもらいに行っている間にどこかに行ってしまったようだ。
(せっかく水をもらったのに……。でも、元気になって自力で帰れたのなら、よかったってことよね)
もったいないのでピッチャーの水をぐいっと直飲みしながら、サンドラはうーん、と首をかしげた。
「……あ、ハンカチ」
バケツは残っているが、ハンカチは青年の脇に挟んだまま持って行かれてしまったようだ。とはいえ私物ではあるがそこまで高級な品ではないし、名前を刺繍しているわけでもない。用が済んだら、捨てられても仕方ないだろう。
(もし今度、騎士の方と話せる機会があったら、聞いてみようかな?)
……ひとまずサンドラは、水汲みが遅くなったことについてのアガサへの言い訳を考える必要があった。
登場人物メモ①
サンドラ・エドモンズ(20)
エドモンズ伯爵の姪で、王城使用人として働いている。赤茶色の髪に、紫色の目。
基本的に事なかれ主義だが世話焼きで、困っている人は放っておけない。