3 妹の世話と姉のフォロー
悪い事があるときって、重なってくる。
「ねーさま!! マルティナねーさま!!!」
やっと、母との茶会から解放されたと思ったら、廊下の向こうから、妹のリリアンが髪を振り乱してドレスをたくし上げて、走ってくる。
「どうしたの、リリアン。どんなに急いでいても、淑女は走っては駄目よ」
「マルティナ姉さま、夕食にね、着たいドレスがあるの。それはね、赤なの。髪を、合わせて赤いリボンでクルクルしたいの。でもね、何度言っても、ネネに通じないの。マルティナ姉さま、やって」
リリアンは、マルティナより六歳下だけど、もう十歳だ。だが、いつまで経っても淑女としての所作も、話し方も身に着かない。家庭教師は早々に匙を投げて、なぜか、マルティナにリリアンの教育が任されている。リリアンが上手にできれば褒められるのはリリアンで、マナーがなっていなければ叱られるのは、マルティナだ。
母や姉をはじめ、周りの者が甘やかしたのもあるかもしれないが、一番傍にいてリリアンを見ているマルティナは、それだけではない気がしていた。それは生まれつきの性質のように思えた。
いつまで経っても、丁寧に話すことができず、文節も短く、直接的。おしゃれが好きで、服や髪型については、独特のセンスがあり、こだわりも強く、知識もするする吸収していく。
しかし、それ以外の興味のないことは、さっぱり覚えられない。最低限のマナーや知識はなんとか興味のあるおしゃれに関連させて身に着けさせたが、限界がある。今は、可愛さや愛嬌で誤魔化せているが、学園に入学するレベルに持って行けるか怪しい。
リリアンの将来についても気になるが、まずは目の前のことをこなしていくしかない。リリアンの部屋で、なんとかお気に召す髪型に仕上げたら、もう夕食の時間になっていた。
「マルティナ姉さま、ありがとう!」
満面の笑みを浮かべる様は、やっぱり天使のように可愛い。手はかかるけど、この家で、マルティナの周りの人の中で唯一お礼を言ってくれる妹を嫌いになれない。
夕食の時間も、マルティナはゆっくりしている暇はない。幸いなことに母はマルティナに愚痴を吐いて機嫌が直っており、いつのまにか婚約者とのデートから帰ってきた姉と、楽しそうに談笑しながら、夕食をとっている。
マルティナは隣に座るリリアンにつきっきりで、自分の食事を味わえたためしがない。
マナーは大丈夫? 音は立てていない?
リリアンが粗相をしないように、先回りして、フォローしていく。リリアンが母の逆鱗に触れないように。
「まったく、マルティナも少しはアイリーンを見習いなさい。アイリーンは入学して以来ずっと、学年十位以内をキープして、去年は婚約者と一緒に生徒会役員に選出されたし、今年はついに生徒会長に選出されたのよ! さすがね、アイリーン。マルティナもこの家に恥じない成績をとれるように努力なさい」
母が今日の夕食の間に、マルティナに話しかけたのはこれだけだ。いつも夕食中は、叱責以外で話しかけられることはない。食事は伯爵家にふさわしい素晴らしいメニューな筈なのに、いつでも、味がしなくて、砂をかんでいるようだ。
夕食後に、自室でマルティナは気力も尽きて、呆然としていた。
自分の勉強の教材、姉の勉強の教材、姉の生徒会の資料の山を前にして、何もする気が起きなかった。帰ってきてから、やろうと思っていた事は一つも終わっていない。
なんだか頭がズキズキするし、今日は寝てしまおうか……
「マルティナっ!!」
コンコンと軽快なノックと同時に、扉が開いて、姉が飛び込んでくる。
「どうだったー? 生徒会の会長の資料、目を通せた? もーわけわかんないでしょ? なにからしたらいいか、さっぱり分からないの。どうしたらいい?」
「今日は、バタバタしていて、まだ見れていなくて…」
「もーマルティナってお母さまの言う通り愚図よね~。私がデートしている間、たくさん時間はあったでしょう?」
「……色々とあって……」
「いいわ。マルティナが生徒会長の仕事を説明してくれるまで、生徒会はお休みにするから。マルティナがさぼると、生徒会の役員も困るし、学園のみーんなも困るのよ。早くなんとかしてね」
「……はい」
「あ、そういえば、今日、学園の授業で習った所、難しくて、わからないの。今日はそこだけ教えてくれない?」
「……はい」
姉が弾丸のように話すのに、反論したい言葉はたくさんあるのに、喉でつまって声にならない。
姉は、母と同じように優秀な頭脳を持つと、マルティナ以外は思っている。
姉も優秀ではあるが、母とはタイプが違っていた。むしろ、母と同じように自分で考え、方針を決め、コツコツと地道な努力を重ねて学習することが得意なのは、マルティナの方だ。
姉は、自分で考えるとか自主的にするということが大の苦手だ。また、わからないことに対してどうしてわからないのか、どこがわからないのか考えたりすることも、試行錯誤する泥臭い工程も得意ではないし、嫌いだ。
それでも、姉が自分で考えることを放棄したきっかけを作ったのは、母かもしれない。母が幼い頃に家庭教師を頼む際、マルティナの家庭教師代を惜しんで、二人一緒に同じ家庭教師をつけることにしたのだ。幼い頃の一歳差は大きい。マルティナは必死で、一歳上の内容についていった。
姉は、わからないことがあると、家庭教師ではなくマルティナに聞くようになった。そのうちに、マルティナが必死で理解して自分でかみ砕いたことを、要点をまとめて教えてもらえれば、楽ができると気づいたようだ。
それ以来、なぜか姉の勉強を見るのがマルティナの日課になっている。幸い姉は理解力と暗記力はあった。そして、この姉の勉強を見ている時間は対外的には、姉がマルティナの勉強を見ていると説明されている。外面がよく、はったりが上手い姉の言葉を母や姉の婚約者をはじめ誰も疑わない。
「お姉様、そろそろお姉様の学習部分は私には手に負えなくなってきているのですが……お姉様の婚約者様に教えていただくわけにはいかないのですか?」
今日聞かれた部分の解説をすると、おずおずと切り出した。姉の学年は最終学年で難易度も格段にあがってきていて、授業を聞いているわけでもないマルティナにはわからない部分が増えてきた。先生に聞くわけにもいかないし、図書館で参考文献を漁って、なんとか食らいついていっている。
一学年上の予習をしているなら、自分の勉強は余裕かというとそうではなく、アイリーンの苦手分野を中心に虫食い的に内容を拾っているだけで、忘れている内容もあるし、まだ習っていない解法を使用してしまったりなどのミスも多い。姉の学習範囲と自分の学習範囲で、頭の中が混乱している。
「なにを言っているのよ!私は未来の公爵夫人なのよ。私とマルティナのどちらの価値が高いの?
公爵夫人になる勉強もあるし、生徒会長の仕事もある、婚約者との時間だって大切にしないといけないのよ。学園の勉強だけに集中してる場合じゃないの。
それぐらいのフォローもできないの? マルティナはなにをしているというの? 自分の勉強だけでしょ?」
「わかりました。お姉様……」
いつもはおっとりしている姉もマルティナには譲らない。すごい勢いでまくしたてる。今日も、マルティナは完敗し、すごすごと引き下がる。
姉が退室した後に、生徒会会長の資料に目を通す。頭が痛くて、内容が頭に入ってこない。でも、自分がさぼると、みんなに迷惑がかかってしまう…
ああ、頭が痛い……今日眠れるのは、何時だろうか……
ああ、今日も自分の勉強は進められなかった……
それでも、文句を言ってはいけない。
たとえ、胸の奥がきしんで音を立てていても。
だって、食べるご飯があって、眠る布団があって、着る服があって、学園に通えて、それ以上なにを望むというの?
それでも、たった一言でもいいのに……
姉からせめて、ありがとうの一言が、何か感謝の言葉があればいいのに……
感謝がないことへ不満が出る自分は卑しいのだろうか……
とりとめのない考えが脳内で繰り返され、そのことにマルティナは苛まれる。
心は誰にも見えない。心についた傷だって。
見えなければ、そんなものはないのと同じだ。
一つ呼吸をすると、マルティナは生徒会長の資料に向き合った。