白石の庭の黒い影
毎年、盆には妻の実家に親戚中で集まる。
俺の実家は東京で、人の集まるれるような家でもなく、終活をしたマンション住まいなので、7月の盆に家族で顔を出して墓参りをするくらいだった。
なので結婚してからずっと、妻の実家に来ている。
親戚同士の付き合いも、家族のように受け入れてもらっているのは、ありがたいことだ。
息子も親戚の年の近い子から年上の子まで遊んでもらって、時にお兄ちゃんになり、弟になったりと良い時間を過ごしている。
大きな家だ。
ほんの時折、夜に古いラジオの音が聞こえる事があった。
それが時代をさかのぼるみたいなテレビ番組で時折取り上げられる終戦記念日に天皇が書いたのを読んでいる玉音放送だということに気が付いたのは、ここ数年だ。
8月12日の夜に妻の実家に着いて、親戚たちと飲みかわす数日。
初日は盆の入りで祭壇の用意などをするが、後は男たちの仕事は特になく、昼間から酒を飲み転寝などをしているので、夜に目が覚めてしまう。
その夜もトイレに起きた。
男衆の部屋だ。妻や子供たちは別室だ。男部屋の雑魚寝を踏まぬように大股小股で引き戸にたどり着く。
縁側は雨戸が外され、庭が良く見える。
月はないが、敷き詰めてある石が白いので外が明るく感じる。
庭の中央に黒っぽい物があった。
あんな所に庭石ってあったっけ?
思わず目を凝らす。
すると、かすかにラジオの音が聞こえてきた。
ああ、そういえば、この家に夏に来た夜に時々聞いたことがあるな。
寝ぼけた頭で記憶をたどる。
そうだ。玉音放送だ。
どこから聞こえるのだろう。
周りを見るも何も動かない真夜中である。
隣家も遠い田舎の庭も家も広く古い家だ。
「 ……しかのみならず、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して……
……かくのごとくは、朕は何をもってか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。
……汝臣民それ克く朕が意を体せよ…… ジジ……ジ。」
かすかに聞こえる玉音放送に聞き入る。
聞こえないところの方が多かった。でも、結構長い放送だったんだな。
「 ……ぅぁ……。ぁぁぁ…… ぁ 」
今度は小さな声が聞こえる。
なんだ?
庭の黒い塊のあたりから聞こえる。
あれは何だろう。
蚊取り線香の煙がたなびく中をくぐり、縁側からつっかけを履き、外に出た。
ゆっくりと黒い塊に近づく。
それは、震えていた。
なんだ?
生き物か?
クマだったら、どうしよう。
暗い夜。
白い庭石で薄明るい。しかし夜の闇の中、黒い塊が震えている。
少しずつ近づく。
それは、黒い靄の中に着物を着た人がうずくまっていた。
その人の身体から黒いモヤが立ち上っている。
「 ……ぅ……ぁぅ…… 」
うめいている。
何かどこか麻痺をした状態で近づいていく。
近寄りたくない。
早く離れたい。
何も聞きたくない。
しかし足は俺を裏切り、うずくまる背に向かっている。
やめろ。
やめろ。
止まれ。
止まってくれ。
上体を出来るだけ反らして、足だけ進んでいる。
ザク。
ザク。
ザク。
近づいていく俺の足音だ。
なんで音をさせるんだ。
だって、石だもんな。
音はしちゃうよな。
なら、なんで近寄るんだよ俺!
とうとう、うずくまる男の隣に並んだ。
男は、俺の足に気付いたようだ。
すこし顔をこちらに向けた。
向くな。
顔を見たくない。
もう、ずいぶん前から、この存在がこの世のモノでない事に気付いていた。
着物を着た男は、横に居る足を見て顔を上げてきた。
やめろ。
見たくない。
老人のような、細い腕をこちらに向けてきた。
細い腕に細い指。手は何か黒いものでベッタリとしている。
「 ……うあああ……っ」
男はうめいている。
顔を上げると、老人で口から黒いドロッとしたものを吐き出している。
血だ。きっと血だ。
細い手が俺の寝巻のズボンを掴んだ。
「ひっ!」
悲鳴も出ずに、座り込んだ。
なんで、座り込んでしまったのか。逃げれないじゃないか。
後ずさろうとしても、ズボンの裾を掴まれている。
男は、俺に向いた。
腹が真っ黒だった。
真っ黒な中に、細い刀の光が見えた。脇差か?短い刀だ。
脇差は、腹を黒く染め右端に刺さり立っていた。
腹から出ている刀の刃がキラリと光る。
光と共に黒く染まった腹に食い込んでいる存在がわかる。
腹の黒いシミは、わき腹を一文字に通り右端のわき腹で脇差の刀と共に止まっていた。
白鞘は黒く染まっている。
そうか。
切腹をしたのか。
「うぅぅ…… ぅあぅ…… 」
苦しみで歪む黒い口から黒い液体が流れでる。
俺は黙ってそれを見ていた。
心が他人事のように静まり返っていた。
老人の両肩を掴んで言った。
「見事な切腹でございました」
両肩から手を放し、その場で土下座。というか、地に頭を付けて最高礼をした。
「そうか……ワシは、ちゃんと死んだのか。みっともなく死に抗ったのかと思った。
良かった。良かった。
ワシはちゃんと、日本男児として、死んだのだな」
「うむ。うむ」
老人の言葉が上から降ってくる。
何かを反芻して、納得したようだった。
立ち上がった気配がした。
俺は思わず顔を上げると、老人が俺を見下ろしていた。
もう、口から血は吐いていない。
苦しみに歪んだ顔もしていない。
着物をシャキッと着た立ち姿だ。
顔を上に向けると、薄くなり夜の闇に消えた。
消える際に少し微笑んでいたかもしれない。
俺は、何も誰もいない庭に座り込んでいた。
不意に激しく襲ってきた尿意に我に返り、一気に縁側に戻りトイレに入った。
水音が強く鳴る中、体も心も弛緩していった。
「はぁ~~~~~ん」
思わず声が出るほど気持ちよかった。
手を洗いトイレから出たら、女性がこちらに向かっていた。
少しギョっとしたが妻だった。
「あら、トイレ?」
「ああ。ビール飲みすぎたよ」
「ふふ。そうね。皆と仲良くしてくれてありがとうね」
「いや、皆いい人だよ。親戚づきあいなんてなかったから、最初は戸惑ったけれど、皆、口下手な俺でも受け入れてくれているしな」
ニコっと妻が微笑んだ。
「ねえ。私もトイレなの。出たら、少し縁側で涼まない?」
さっきの恐怖を思い出したが、もう出ないだろうと思い頷いた。
「先に行っている」
妻はトイレに入り、俺は縁側に向かった。
静かな庭だ。
白く淡く光る清浄な庭だ。
「おまたせ」
「ああ」
しばらく、二人で縁側に座って黙っていた。
蚊取り線香の煙が濃すぎずに漂う。
妻がうちわであおいでくれる。
「わたしね」
「うん」
「お盆の、この庭が嫌いだったの。なんだか、怖くてね」
「うん」
「でも、さっき前を通ったら、凄く綺麗に感じてね。あなたとトイレで出くわした時、嬉しかった。一緒にこの時間を過ごしたいと思ったの」
「うん。綺麗だな」
「ええ。なんで、あんなに怖かったのかしら」
「もう、怖くないなら良いじゃないか」
「そうね」
しばらく、そうして座っていた。
少しの間二人で居たが、女は朝から忙しいので、お互いに布団に戻って行った。
翌朝、お盆の最終日だ。
皆、掃除や片づけをしている。
俺は祭壇を片付けるのを手伝っていた。
仏間の鴨居の上にご先祖様の写真や絵が飾られている。
その中で、見たことのある顔があった。
「あの方は?」
遺影の写真の3つ前だから、そんなに昔ではないだろう。
「ああ、高祖父だ。昨日が命日だった」
「終戦記念日にですか」
「ああ。終戦記念日……。その時は敗戦日だったのだろう。玉音放送を聞いた後に庭で切腹をしたらしい。介錯なんぞできる人もいなくてな、ずいぶん苦しい思いをしたようだ」
「切腹ですか。玉音放送では、決して玉砕を促す放送ではなかったはずですが」
「ああ、むしろ、辛い未来だろうが清く生きろ。と言っている。しかし、高祖父は武士の家系である誇りがあったのだろう。刀は没収されていたが脇差は残していた。それで腹を刺して死んだ。敗戦国の民として生きるのが屈辱だったのだろう」
「切腹ですか。それは苦しかったでしょうね。介錯人もいないのでしたら」
「ああ。だが、そうした人も多かったそうだ。
それがどうした?
なんだ、化けて出たか?」
「はぁっ!いえいえっ!そんなことないですっ!!!」
「あはははっ。冗談だよ」
「あはは。そうですよねー」
俺は少しばかり冷や汗をかいて、その場を離れた。
昼近くになり、皆で三三五五に帰ることになった。
「どうも、お世話になりました」
「はいよ。今度は正月にいらっしゃいね」
「はい」
「あとね」
「はい」
俺をじっと見る妻の母。
「ありがとうね」
「えっ?」
「いやいや、気を付けてお帰りよ」
「はい。ありがとうございます」
俺たちはお婆さんに頭を下げて車に向かった。
庭石は相変わらず白い。
あの場所に何かあった形跡はない。
車に乗り込んで後ろの息子にもシートベルトの確認をする。
さあ、家まで安全運転だ。
車に乗り込んで走り去る娘の車に向かって、老女が深く頭を下げた。