悠揚たる地
「ワインだって!?あんなもん飲んでられねぇよ!酒はジョッキになみなみ注いだエールに限る!」
―大酒飲みのショット
〈スキュロン歴963年 テスウィン公爵領 デルリー・ガンス〉
――街を街を出発してからどのくらい経っただろうか。荷馬車に揺られながらそんな事を考える。やはり断ればよかったかもしれない、とも思うが公爵直々の申し出を無下にはできない。そんな事を考えていると長閑な平原を抜け、段々と目的地が見えてきた。
ワインの生産が盛んなこの地域は、辺り一面にブドウ農園が広がっている。近づくにつれ、心地よい風に乗った芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
そんな農園の間を抜け少し過ぎると、目的地が見えてきた。
白煉瓦を基調とした2階建ての家屋が、鮮やかな周りの景色と見事に融合している。
中庭には生垣に囲まれた庭園があり、色とりどりの花々が咲き乱れ、ベンチに座りながら景色を楽しむことができる。
「お待ちしておりました、エルミエール様」
荷馬車を降りると初老の男性が出迎えてくれた。見たところ執事のようだ。そういえば使用人も準備するという話だった。
「長旅でお疲れでしょう。積荷はわたくし達がお運びいたします。中でどうぞお休みになって下さい。」
――ありがとう。だが荷物といっても鞄2つ分だ。自分で運ぶとするよ。馬の方を頼めるかな?
「左様でございますか。ではそのように。中へご案内致します。」
彼の後に続いて中に入る。入ってすぐは吹き抜けの広間になっており、中央には見事な彫刻が施された木製のテーブルが置かれ、壁には絵画や陶磁器などの装飾品が飾られている。公爵所有というだけあって隅々まで手入れが行き届いている。
右手前に地下貯蔵庫への階段、右奥手に調理場、左奥手には2階への階段がある。2階に上がると寝室と書斎、そしてバルコニーが備わっている。
寝室に荷物を置いたのち、バルコニーに出てベンチに腰掛ける。見渡す限りブドウ園が広がっており、農民たちが忙しそうに動き回っている。近くの家々の煙突からは煙が立ち上り、元気に駆け回る子供たちの声が微かに聞こえてくる。この場所だけゆっくりと時間が流れているようなだ。
今の世界の情勢とはかけ離れた平和な暮らしが広がっている。この光景を見たら誰しもがこの地に移住したいと思うだろう。
今の世界はまさに混沌と呼ぶにふさわしい様相を呈している。北方からは広大なオックス山脈を越え、帝国が戦争を仕掛け南部へと侵入してきている。南部の国々に協調性はなく、お互いいがみ合うばかり。長引く戦争で国民の負担は大きくなり、大都市では怪しい新興宗教が流行しはじめ、教団員達が好き勝手に人々を断罪している。戦火や無実の罪から逃れようと一歩外に出れば野盗や猛獣、血に飢えた怪物達の餌食になるのが落ちである。
加えて身近ではウィッチハンターと呼ばれる者達まで出てきた。北方が魔女や魔術師達を使って戦争を有利に進めていることを受け、国内の魔法を使う者達を取り締まり始めたのである。国家直属のこの集団は魔女や魔術師と思わしき者を捕らえては火あぶりしているのだ。彼らの繋がりによって情報を流されないようにする狙いなのかもしれないが、選択としては完全に悪手だ。彼らは皆北方に逃れはじめ、結果として帝国の戦力が増強しただけである。どうやら南部の統治者達は揃いも揃って無能ばかりらしい。
国民は長らく続いている戦争にうんざりしている。戦争の勝ち負けを気にするのは上流階級である貴族たちと一部の商人のみ。平民や農民、延いては軍に所属する兵士たちでさえ終わらない戦争を続ける支配者たちに憤っている。
噂では王達の暗殺を企てている者達も出始めたとか。まあ至極当然の話ではある。
そしてこの戦争の影響を受けたのは魔女や魔術師だけではない。人々に溶け込み生活してきた人狼やヴァレイング達も今までのように生活することが難しくなった。誰も傷つけることなく生活してきた者達がほとんどであるも関わらず、ドワーフやハーフリング達と違い、「人に害なす者」という先入観だけで以前にも増して命を狙われるようになったのだ。挙句にはその首に賞金までかけられる始末。このことを受け彼らの中には人間を憎み、悪事に手を染める者も現れ始めた。
私の友人達も苦境に立たされている者が多い。幸い、命を落としたという者はいないが、ほとんどが危険と隣り合わせの生活を続けている。何か力になれることがあればよいのだが、残念ながら現状出来ることはない。何度も死線を潜り抜けてきた者達ばかりだから心配する必要もないかもしれないが。
それに、私は私で問題がある。半ば強引に押し付けられたこの屋敷。これをどうするか。良き所ではあるがここに永住する気はさらさらない。公爵も厚意からこの屋敷の貸し付けを申し出てくれた訳だが、私が世界中を渡り歩いていることを知っている上での事だ。全く使われないという可能性だってある。
それでも尚、私へ贈与したいという強い希望に根負けした訳だが…。資産として持っているが訪れることがほとんどないから貸し付ける。そうであれば普通なのだが、今回は少し訳が違う。なにせ家屋の維持費や食料・消耗品にかかる費用、使用人への賃金、はたまた改築する際はその費用まで支払うというのだから。
何というか…彼は私に対しあまりにも好意的すぎる。確かに彼の一族とは先々代からの付き合いであるが、それほど頻繁に交流があった訳ではない。一体何が彼をそこまで動かすのか…。一人娘に治療を施した事にそんなに心揺り動かされたのか。その件については仕事として受けただけに過ぎないし、報酬も受け取っている。
私がどこか一か所に留まる事をしないのは迫る危険を回避するためだ。先ほど述べたように「人ならざる者」が生きにくい世の中になってしまった。身を守るためには「常に各地を放浪する」か「社会的な力を手に入れる」かだ。後者の方が当然安全だ。もちろん金が無くなれば簡単に裏切られるという点もあるが、ほとんどの者は力を維持できるだけの収入源がある。金が無い者は常に危険と隣り合わせの旅を続けるしかないのだ。例えそれだけの金があっても腐りきった上流階級の人間に媚び諂うなど真っ平御免だが。
だが私のような放浪者はどこに行っても好奇の目で見られる。そして礼儀もなくずけずけと素性を探る者も必ず現れる。それこそ今まさに、この屋敷中で使用人たちがこそこそと私について根拠のない話を繰り広げている。全く、こういったときばかりは、自分の聴覚の良さをつくづく恨めしく思う。
彼らにしてみれば名が知れているとはいえ、一介の薬草医が貴族から屋敷を与えられたなどと聞けば格好の話のネタだろう。あれやこれやと妄想を巡らせ、ありもしない陰謀や事件を勝手に作り上げるのだ。全く、人間とは本当に想像力豊かである。
もちろん彼らが私の正体に辿り着くことはないだろうし、これからも知らぬままであろうが。大抵、数週間もすれば私への興味など無くなる。この酷い与太話が耳に入ってくるのも少しの辛抱だ。
予定であれば今頃北方に向かっていたころだが、どうやら戦線が激化しているらしく、通過するにはかなり危険な状態のようである。国境の検問も面倒なことになっているだろう。
そうなればこの屋敷を譲り受けたことにも意味が生まれる。北方の戦線が落ち着くまではここに留まるとしよう。登録簿に所有者として名が残るのは少々嫌だが…そうも言っていられまい。
どこかに腰を落ち着けるなどいつぶりだろう。領主だった時ぶりだろうか?いや刀鍛冶として店を持っていた時以来か?どちらにしろ遥か昔の話だ。あの時代は今のように苦労せず生活できたものだ。人間たちの生活に溶け込むのも容易く、どこへ行くにも比較的自由に歩き回ることが出来た。
この屋敷は比較的街からも遠く、周辺に集落も少ないのであまり人目を気にせず行動出来るだろう。街も行商しに行くには問題ない距離だし、仕事にも支障は出なさそうだ。日中は薬の材料を取りに外に出ているか、荷馬車の中の作業場に居ることがほとんどであろうから屋敷の使用人と関わる時間も必要最低限にとどめることが出来るだろう。
明日からさっそく動くとしよう。いくらか在庫はあるが足りない分は周辺から採取してくるか、街で仕入れなければならない。採取がてら周りの環境を見に行くことにしようか。
そう考えがまとまったところで執事がバルコニーにへとやってきた。手にはワインのボトルとグラスが握られている。
「一息いかがですか?ここで作られた最高級品、100年物でございます。」
――ああ、ありがとう。だが良いのかい?そんな高級品空けてしまって。
「もちろんでございます。アダリアン様から丁重におもてなしするよう仰せつかっておりますので。」
――...そうか。では遠慮なくいただくとしよう。
グラスにワインが注がれる。注がれた瞬間から芳醇な香りが広がる。香りを一通り楽しんだ後、ひと口口に含む。濃厚だが決してしつこくない甘さと、穏やかな酸味の絶妙なバランス。例えるならばそう、生娘の――
そうふと思ったところで苦笑いする。全く、染み付いた習慣や感性というのはどれだけ時間が経っても変わらないものだ。とっくに失われたと思っていたがどうやら思い違いだったらしい。
「お口に合いませんでしたか?」
執事がそう尋ねる。
――ああ、いやなにこれほど上等なものは暫く口にしていなかったのでね。少し舌が驚いただけだ。
「左様でございますか。他にも上物のワインはございますから是非滞在中はそちらもお楽しみいただければと思います。」
ありがとう、と感謝を伝え手すりに手をかけ再び景色を眺める。日が落ち始めており、夕日に照らされた農園がまた何とも幻想的だ。
まさか激動のこの時代にこんな景色を見れるとは思わなかった。
――久しぶりにゆっくりするのも悪くないものだな。
そう呟き、ワインをまた口に含んだ。