プロローグ2.水が欲しい
翌朝、身支度を整えたグリセルダとサイネールの二人は、ガラ遺跡に潜っていた。ここはすでに人の手によって探し尽くされており、空の部屋がいくつかと、誰かが野営した跡があるだけの“枯れた”遺跡である。ただ、謎だけがそこに横たわっている。
まず一つ目の謎はここの壁である。不思議なことに、いったい何でできているのか、壁は全体が淡く緑色に光っており、明かりいらずなのだ。だが、それを砕いて持ち帰ろうと試みた者はすぐに失望を味わうことになる。苦労して地上に持ち出した手の中の壁を見てみれば、光は失われ、それは何の変哲もない石塊になってしまっているのだから。
また二つ目の謎だが、どこかから水の流れる音がするのだが、それを見つけた者は誰もいないのだ。すべての部屋をくまなく探し、徒労を味わった探索者たちは口を揃えてこう言う。
『ああ、水があれば完璧な宿泊所なのに!』と。
それはそうである。長旅で飲み水及び生活用水を確保するのは大変なのだ。水袋は重いしかさばるし、飲み過ぎればなくなってしまう。怪我をすれば傷口を洗うのにも水は必要だ。朝起きて顔も洗えない野営生活は辛い。「ここに水があれば、もっと便利なのに」と心憎く思ってしまうのも無理はない。
そんなガラ遺跡をひと通り回って、サイネールはまた一から部屋の床を丹念に調べ始めた。わざわざ角灯で照らしながら。魔物が出ない遺跡とはいえ、その姿は無防備すぎる。グリセルダは棒を片手に夫を見守ることにした。
途中、昼食のために休憩を入れた。しかしサイネールは心ここにあらずといった様子で、早々と軽食をしたためるとすぐに調査へ戻っていった。
「なぁ、サイネール。あんまり根を詰めると体に悪いぜ」
「ありがとう、大丈夫だから」
「……ランタンの火は目に悪ぃし、ちょっと代わってやろうか?」
サイネールは床の装飾文字を読み解く作業を中断し、己を気遣う妻に向き直った。彼は朝からずっとこの床と戦っている。その間、退屈で仕方がなかったのに違いない。だが、グリセルダは文句の一つも言わず付き合ってくれ、食事の世話や書き写す作業の手伝いなど、雑事を請け負ってくれた。
「ありがとう、グリセルダ。あとちょっとだから。きっとこの遺跡のどこかに、まだ開かれていない、地下への入口がある。ヒントを掴んだ気がするんだ」
「すげぇな! よし、力仕事は任せてくれ!」
「うん、そのときは頼むね!」
二人は顔を見合わせて笑った。
サイネールが地下への入口を見つけたのは、そのしばらく後のことだった。地下への階段は暗く、角灯が役に立った。じめじめと湿った空気が圧迫感をもたらす。
「狭いな……」
「我慢して、グリセルダ。……あっ! あった、宝珠だ!」
「なにっ!」
青の光に満たされた小部屋の中、噴水の中心に輝く宝珠があった。弱々しく、脈打つように光っている。人間の眼球ほども大きさがある美しい宝石だった。
「手に取るんだ、グリセルダ」
「へ? あれを?」
「そうだよ、あれは……きみのものだ!」
グリセルダは言われるがままに小部屋へと入り、清らかな水を生み出し続ける宝珠を手に取った。すると、突然遺跡全体が揺れ始めるではないか!
「サイネール!」
「だ、大丈夫だよ。遺跡の防衛機構が動き出しただけだから……」
「おい、それ本当に大丈夫か!?」
この遺跡の地下にはまだ誰も入ったことがない。つまり、罠は解除されていないのだ。今まで機能していなかった遺跡が再準備されてしまったら、地下も地上も罠だらけということになるのではないか? グリセルダはそれを危惧していた。
「くそ、これ置き直したら何とかなんねぇかな」
「そんな! それは持って帰らないと!」
「けどよぉ」
「いいから、早く脱出しよう」
小部屋の外からサイネールが懸命に手招きしている。その間も震動は収まらず、グリセルダは掌中の珠とそれが嵌まっていた水盆を交互に睨んでいたが、踵を返して彼の方へ走った。
ちょうどそのとき、ガコン、とひときわ大きな音がして、遺跡が揺れた。それだけではない。地響きを立てて床が、天井が、動き出した。
「これは地震による倒壊じゃない、この遺跡に眠っていた仕掛けなんだ! じっとしていて、グリセルダ!」
サイネールが叫ぶ。彼はこの仕組みを知っていたわけではないが、直感的にそれとわかった。と言うのも、彼らの足元の石畳にも綺麗な分かれ目ができ、小部屋と階段が切り離されていくところだったからだ。
「今行く!」
「ちょっ、聞いてた!?」
グリセルダは構わず走っていた勢いのまま軸足を踏み切り、跳んだ。サイネールが慌てて場所を空ける。着地したグリセルダはサイネールをぎゅっと抱きしめ、その無事を確かめた。胸に埋もれたサイネールが呻く。
そのとき、宝珠のあった小部屋の天井が割れ、そこから人の声が聞こえた。
「ジェレミア!」
「離してくれフレデリック。君まで落ちてしまう」
「嫌だ! 絶対に、離すものか!」
そこには二人いるようだった。壁に反響してくぐもってはいたが、そのやり取りはハッキリ聞こえた。
「ジェレミア……?」
それはグリセルダの弟の名前だった。
珍しくない名前とはいえ、気になったグリセルダはさっきの小部屋に戻ろうとした。当然サイネールは引き留める。
「危ないよ。やめよう、グリセルダ」
「いや、でも……」
きっと彼らはグリセルダが宝珠を取ったせいで困っているに違いない。遺跡がいきなり動き始めて、それに巻き込まれたのだ。あの声の感じだと、切羽詰まっているのかもしれない。
「ジェレミア!」
「ダメだ、フレデリック!」
グリセルダは覚悟を決めた。
遺跡はまだ動きを止めていない、ここでサイネールと離れてしまえば、合流は難しくなるかもしれない。だが、彼らを見捨てるわけにはいかない。
腕を引くサイネールを振り払い、遠くなっていく小部屋に飛び移ろうとしたとき、落下してくる鎧姿の二人が見えた。
(遅かったか……!)
「くそっ!」
「待って、ダメだよグリセルダ!」
手を伸ばした。
足は勝手に動き出していた。
カッ、と青い閃光がはじけた。
それは彼ら四人を包み込むと、光を放ったときと同じように一瞬で消えた。彼らごと。まるで蝋燭の火を吹き消すように。




