第2話
グリセルダは暗闇の中、渾身の力を振り絞って後ろ手の拘束を引きちぎった。鉄で編まれた鎖は、彼女の手首に何重にも巻きつけられ、その先は壁に埋まっていた。そう、過去形だ。
中途半端な長さのそれは、彼女を立つことも座ることもさせずに苦しめるためのものだったが、とっくに壁から引き抜かれて転がされていた。
今やその鎖さえも壊し、完全に自由の身になった猛獣は、痛みに顔をしかめつつ手首のすり傷を舐めた。
「いちち……ったく、無茶苦茶してくれやがってあいつら、ツラ覚えてるヤツは今度見かけたらぶん殴っとこ」
グリセルダは手足を動かして体の具合を確かめると、踵を地面に打ちつけて調節をした。
「……よし! おらぁあ!!」
掛け声と共に繰り出される回し蹴り。きちんと体重の乗ったそれは、容易に壁を砕いた。ヒビが入った程度ではない、一撃で大人ひとりが余裕でくぐれるほどの大穴を開けたのである。
グリセルダは迷わずそこから外に出た。これからどうするかなどは考えていない、ただ、ここから逃げなくてはならないと、その一心だった。
* * * * * * * * * * * *
夜の静寂に響き渡る破砕音にサエリクスは思わず立ち止まった。振り返って見れば、建物の壁に大穴が開いており、そこからなんと赤毛のゴリラ……もといグリセルダが出てきたのだった。
「はぁっ!?」
(コイツ、壁ぶち破って出てきやがったのか!?)
サエリクスが思わず上げた驚きの声に、グリセルダが体を向けてくる。そしてそのままなんと殴りかかってくるではないか!
「うおっと!?」
サエリクスはボクシングで培った反射神経でその大振りなパンチをさっと躱して、彼女の膝の関節目がけてキック。それによって地面に膝をついたグリセルダをうつ伏せに素早く拘束した。暴れるゴリラに慌てて声をかける。
「おいおい待て待て!! 俺だ、俺!!」
「うおっ、サエリクス? すまん、そんな所に立ってるから見張り役かと思っちまったぜ!」
「ったく……」
立ち上がり、ジャケットの襟を正すサエリクス。グリセルダも同じく立ち上がって服を払ったが、元々雨と土埃に汚れているため意味がない。そうしている内にエリーゼとサイネールも追いついてきた。
「バカ女! ……無事、なのか?」
「サイネール! おうよ、ひでぇ目にあったけど、ひとまず無事だぜ」
「その顔……」
「あっ、やべ! 雨に濡れたりして化粧も剥げちまったな」
そう言って笑うグリセルダに、サイネールは開きかけた口をつぐむ。彼女の口許は殴られたのか切れていたし、こめかみから流れた血が固まっていた。全体的に薄汚れて、普段は燃えるような紅い髪も今は精彩を欠いていた。サエリクスが尋ねる。
「ひどく殴られたのか」
「まぁな。あいつら、檻越しに棒でつついてきやがって……近くまで来てたら頭突きでも何でもしてやれたのによぉ」
「ハッ、元気な奴だな。で、グレイルとディールはどうした? 別の場所に捕まってんのか」
グリセルダはニッと唇を吊り上げて笑った。なんとも満足そうな笑みにサエリクスならずとも疑問を抱く。
「あの二人なら、自分の世界に帰ったぜ」
「!」
「あの青いセドリックで。すげぇよなぁ、動物でもねぇのに器用に操ってクルクル回ってさ。それで、煙だけ残して行っちまったよ」
「帰れたのか! 帰ったのか……そうか。……くっそ俺を置いてきぼりにすんじゃねええええ!!」
「俺だって帰りたかったのに」、と悔しがるサエリクス。そんな彼にグリセルダは晴れやかに笑って言う。
「そう言うな。あの方法で帰れたのは多分、あいつらだけだ。マレビトとして招かれた経緯が違うからな。心配すんな、お前のことは私がちゃんと送り返してやるって」
「チクショウ、訳わからんルールだぜ……」
「そんなことより、さっさとここを離れようよ! どうせ追われてるんだろ、グリセルダ?」
「そうだよ、サエリクス!」
サイネールとエリーゼがそれぞれに二人の手を取る。サイネールはグリセルダの、エリーゼはサエリクスの。
グリセルダは初対面のエリーゼをまじまじと見つめ、サエリクスに聞いた。
「お前のコレか?」
「バカかてめぇ」
そしてエリーゼはグリセルダをまじまじと見つめ、
「お、女……? ってことは、じゃあ、このひとが眼鏡の婚約者……」
「だから違うって!」
と、そんな馬鹿な言い合いをしている間に、グリセルダが壁をぶち壊した建物から男たちが大勢出てきた。
「ほらぁ! あんたらが馬鹿なこと言ってるからぁ!」
「るせぇな、下がってろ眼鏡、エリーゼ」
「う、うん、わかったよサエリクス」
闇夜を照らしていた月が翳る。
ちらりほらりと見られる建物の灯は遠すぎて彼らの助けにはならない。逆に、敵が持つ角灯の明かりは邪魔になる。サエリクスもグリセルダも、視界の悪さに眉をしかめた。
そのとき、石畳を金属が削る音が聞こえてきた。サエリクスの耳には、不良連中が金属バットか鉄パイプでアスファルトの地面を引っ掻く音に。そしてグリセルダには長剣の剣先が石畳を削る音に。
人垣が割れていく。
姿を現したのは、片手半剣を右手に携えた軽装の女だった。青白い肌に焦げ茶色の髪。目鼻立ちも地味な印象だ。
「……逃げろ、サエリクス」
「あン?」
「いいから、早く逃げろ! お前の敵う相手じゃねえ!!」