第6話
サエリクスが無事に森を抜けて街道まで出ることができたのは、それからすぐのことだった。急に視界が開けて、一メートルちょっとの高さがある崖の上に出たのだ。勾配の緩い場所を見つけて半ば滑るようにして道へ下りる。これだけでもかなり体力を 削られた。
ここで休んでは二度と立ち上がれなくなる、そんな確信からサエリクスは気力を振り絞って前に進んだ。ゆっくりとだが確実に。どうにかして夜までに民家へ辿り着かなければ……この状態でさらに魔獣に襲われたら、今度こそ命はない。
サエリクスは、意識を失う直前まで足を前に出し続けていた。朦朧とした視界の中で、誰かの声を聞いた気がした。
* * * * * * * * * * * *
「まだ目覚めないか」
「ええ。術が効きにくい体質なのではないでしょうか」
ぼんやりと意識を取り戻しつつあったサエリクスの耳に男女の会話が入ってくる。いったい何時間眠っていたのだろう。どこか柔らかい場所にあおむけに寝かされているようだ。目を閉じていても感じていた明るさが急に遮られ、サエリクスは咄嗟に腕で顔を覆った。
「きゃっ」
視界に飛び込んできたのは、濡れた布巾を持った黒衣の若い女だった。どうやら害意があってのことではないらしい。一緒にいた男の方は雨宿りの際に出会ったイーサン・ブラックたちと同じ聖堂騎士の様だった。男の動きは迅速で、即座に左腕を女とサエリクスとの間に割り込ませていた。警戒心の滲む茶色の瞳がサエリクスを射る。
「なんなんだよ、どこだ、ここは……」
辺りを見渡すサエリクス。室内は狭く、男と女とサエリクスの三人だけだ。吊り下げられたランタンが揺れて、板壁に影が踊っていた。そしてよく見てみればブーツは脱がされ、服が別のものに着替えさせられているではないか。サエリクスは紫色の瞳を細めて目の前の騎士を睨み返した。
「ここはどこだ? 俺はどうなったんだ? お前らは誰なんだ? 俺をどうするつもりだ?」
矢継ぎ早に質問を投げ掛けると、サエリクスの態度が状況をよく飲み込めていない焦りからきていることが分かったのか、男は肩の力を抜いた。落ち着いた、しかし難しそうな顔をしつつ、彼はサエリクスの質問に答え始めた。
「ここは街道沿いの農村だ、貴方は村の入り口に倒れていたんだ。それを彼女が……エンマが見つけて貴方を看病してくれていたんだ。私の名前はカイヤ。聖堂騎士だ。行き倒れの貴方が自分の目的地へ向かえるようになるまでは我々が面倒を見る。何があったか、教えてくれないか」
「……俺は……」
完全にこの二人を信用するわけではない。だが、それでも切羽詰まった状況ではない場面で、ようやく出会えた敵側ではない人間だ。それに目の前の男は、あのイーサンとかいうオッサンと同じ聖堂騎士だ。騎士団員に良い印象はないのだが、彼らは違うのかもしれなかった。
「俺さぁ、なんか違う世界から来たっぽくて、武器が使えなかったり魔術を知らなかったり、この世界の人間じゃないみたいなんだよな。変なジジイにいきなり、オーブ盗んでこいとか命令されてな。そうすりゃ元の世界に帰れるって言われても、はいそーですかと従うわけねーだろが。それで逃げ出してきちまったから、目下のところ、あてどもなく帰る手段を探してる最中なんだよ」
聖堂騎士と黒衣の女は顔を見合わせた。その表情を見て、サエリクスは「やっぱりな」と心の中で嘆息する。
「熱病に?」
「いえ、そんなことは。お酒も飲んでいなかったと思いますけど。でも、もしそうだとしても、治療の段階で抜けているはずですもの」
「……そうか」
一応サエリクスに背を向けて小声で会話していたが、なにぶん部屋が小さいので丸聞こえだ。こうして話してみたものの、二人には信じてもらえるどころか頭の心配をされてしまう始末だ。だが、サエリクスはその反応を何となく予測していたためショックはまったくない。もし自分が逆の立場でも「馬鹿じゃねーのかこいつ」と思っていたことだろう。男がサエリクスに向き直り、まるで宥めるように優しい声色で話し出した。
「申し訳ないが、私ではお役に立てそうにないな。オーブという物も、違う世界とかいう場所も、私にはまったく見当がつかないんだ。……ところで、貴方の服を替えさせてもらったとき、どうやら戦闘した痕のようなものがあった。例えば、狼の爪……のような」
男は、狼という単語を口にしたとき、サエリクスを見定めるようにじっと見据えながら言葉を溜めて言った。
「つい昨夜のことだ、この付近に雪狼という魔獣が出た。そして、私の所属する、第四小隊第一の分隊長と、聖堂騎士一名がその魔獣と戦闘になって、……殉死した。ヤツの死骸はなかった」
「…………」
その言葉に、サエリクスは瞑目した。彼らが、サエリクスを逃がすために戦った彼らが死んだ……。前線にいる以上、戦死というものは避けられない。彼ら聖堂騎士たちもそういうものだとは分かっていた。だからといって、ショックを受けないというわけではないのだ。
こういうとき、サエリクスの立場の人間が激しく自責してはならない、という軍人の不文律がある。逆の立場であれば、自分だって守り抜いた人間に「俺のせいで!」などとは思ってほしくないからだ。生き残った者には生き残った理由があり、己の人生を全うしなくてはならない。だからカイヤにもサエリクスを責める権利はない。だが……、知る権利はあると、サエリクスは思った。