第5話
登山をするのにスニーカーで挑む奴は大馬鹿だ。整備されていない道は滑りやすく、足場も不安定で常に捻挫や転倒の危険がある。安全な道を歩きたいなら素直に平地でハイキングでもしていればいい。サッカーにはサッカーの、バスケにはバスケのシューズがあるように、登山にも専用の靴がある。専門性の高い分野に軽率に足を突っ込むと、文字通り派手にこけて後悔することになる。
サエリクスに支給されているイタリア陸軍のコンバットブーツも、登山靴と同様に荒れた道でも長距離行軍しやすいように工夫がなされている。分厚い靴底とクッション性の高いインソールとで危険物から足を守り、疲労を軽減する。そしてブーツと足が一体化したかのようにぎっちりと固定され、足首を保護するようになっている。特に、初心者はその重要性に気がつきにくいが登山で一番危険なのは「下り」である。このとき、足首を固定してくれる専用靴とただのスニーカーでは安心感が雲泥の差だ。
休暇中だったサエリクスが、こちらの世界に飛ばされてきたとき、履いていたのは単なるスニーカーだった。そりゃそうだ、普段から安全靴やコンバットブーツを履いているわけがない。エリーゼに渡されたブーツにおとなしく履き替えたのは、ただ目立つのを避けるためだけではない。その構造が登山靴によく似ていたからだ。ただ、撥水加工がされていないのでそこだけは気をつけなければならなかった。
だからこそ、今サエリクスは悪路を走り続けていられる。
だからこそ、今サエリクスは水を吸って重いブーツに限界を感じ始めている。
「クソッ……!」
追ってくる気配には気づいていた。サエリクスを取り囲もうとする、複数の獣の息遣い。時折チラリと見える影は大型犬サイズだった。こんな場所で戦いたくない。せめて街道まで出られればと、サエリクスは懸命に足を動かしていた。雨に打たれ続け、全身ずぶ濡れのまま。衣服は肌に貼りつき不快感と動きづらさをもたらす。その重さも冷えも、サエリクスから体力と集中力を奪っていく。もう何度目か、木の根に足を取られ、バランスを崩した。
そのせいでスピードが落ちる。スピードが落ちれば奴らにチャンスを与える。
ならばここで狼たちを迎え撃つまで。サエリクスはこのアクシデントを攻撃の突破口にすることにした。
「来るなら来やがれ!」
肩に引っ掛けていたサックの紐を左手に巻きつけ、しっかり固定するサエリクス。これを振り回して奴らへの盾にするつもりだった。雨は収まりつつあり、空は曇天だがまだ日没前のはずで、頭上の木々の位置によっては暗闇というほどでもない。サエリクスの目が慣れたということもあった。
『グアルルル!』
「オラッ!」
飛びかかってきた一体をそれなりの重量があるサックで叩きつける。思い切り横っ面にぶちかまして木の幹に当たったそいつは動かなくなった。さらに二匹、三匹とかかってくるのを避けて殴って、そのうちの一体の頭蓋に思い切り踵を振り下ろす。メキリと割れるような音がして狼はおとなしくなった。
奴らの目、リンを燃やした炎のような、ガスバーナーの高温の火のような青。その輝きがたなびくように揺れるのが見える。見えている。見られている。まだ四対のそれらがサエリクスを見つめていた。あの大きな雪狼に比べれば、こいつらはあまりにも小さい。配下か幼体と言ったところか。それでも雪狼に違いないのは、その目、そして伝わってくる冷気だ。
こいつらなら、……殺せる。二匹の動かなくなった雪狼を見て、サエリクスは確信していた。油断することなく周囲を見回し、さらなる追撃に備える。だが向こうもそこまで浅はかではなかった。周囲を歩き回るだけでかかってこない。サエリクスの様子を窺っているのか、衰弱するのを待っているのか。濡れたままであるサエリクスにとって、膠着状態に陥ることが一番マズイ。
「チッ! こんな所で睨み合いなんざする気はねぇんだよ、さっさとケリをつけようぜ、クソ狼ども!」
サエリクスは太い幹を背にした状態で、サックを括った左手をわざと大きく振り回した。隙を装い、攻撃を誘う。案の定、二匹の狼が左右から飛びかかってきた。まずは一匹、サエリクスはサックをまるでヌンチャクのように取り回して狼の肋を折った。二匹目、空手の瓦割りの要領で右手を叩きつけて頸椎を折って殺した。
三匹目、同じくサックを叩きつけるも致命傷には至らない。まだ最後に一匹、残っている! サエリクスの額に汗が伝うが、焦って動くのは悪手。すかさず躍りかかってきた四匹目を器用に避けると、その後ろ足を掴んで武器とし、三匹目を殴り殺した。もちろん鈍器にされた方もたまったものではない。なす術もなくそのまま首の骨が折れて死んだ。
「ふぅっ! これで……、っ!?」
『ゴアッ!』
樹上から降ってきた五匹目、大きな口を開けサエリクスの首筋を狙う雪狼。鋭い牙が並ぶ。サエリクスは、迷わずその大口に拳を突き入れていた。
『…………グ』
喉の奥まで拳が突き刺さった。その顎で噛むことも叶わず絶命した雪狼の体を、サエリクスは水滴でも振るうようにして大地に落とした。一度大きくバウンドして、その白い毛の魔獣は二度と動かない。そして、厚手の革の上着のお陰か、サエリクスは怪我をしていなかった。
「ふ~、今度こそ、大丈夫だな……」
彼を追う気配も、ひとまずは消えた。街道まではあと少しだろう。サエリクスは中身の詰まったサックを背負い直し、同じ道を進み始めた。後ろは、振り返らずに。