第3話
細くたなびく遠吠えは誰に向けてのものだったのか。雨粒の演奏に紛れてもなお、耳に届くその不吉な音。集まった三人はそれを聞き逃すような者たちではなかった。
サエリクスの態度に業を煮やしていた若き聖堂騎士オリヴァーも、瞬時に冷静さを取り戻し剣を抜いていた。分隊長であるイーサンと目配せし、連携の取れる姿勢に入る。魔獣との戦いに慣れている彼らは、短く互いの認識を確認していく。
「仲間を呼んだか」
「近いです。出ますか」
「しかし、民間人がな」
「どうせ気づかれてます。逃がしましょう」
「雨は……止みそうにないな。できるだけ燃やして、迎え討つ」
遠くから狼の吠え声が聞こえたくらいでどうしたと言うのだろうか。物々しい二人の様子に、サエリクスもチラリと振り返って声をかける。しかし、それでもまだゴロ寝姿勢は続行中だ。
「おい……何かあったのかよ?」
「雪狼が出たんだ」
「ああ……なんかそんな話してたっけか。で、こっちに来てるのか?」
「そうだ。逃げるより、戦った方がいいと思う」
サエリクスの疑問に分隊長のイーサンが応える。こういうときこそ焦ってはいけない。サエリクスは立ち上がって周囲の状態を頭に入れた。悪天候と密林という立地のせいで、暗い上に見通しが利かない。焚き火以外の明かりはなく、これが消えてしまえば暗闇の中での戦闘を強いられるだろう。
「荷物をまとめて、お前は下がっていろ」
「ちょっと待て。今どの辺りに来ているんだ?」
「近い。もう、来る」
「下手に騒ぐな。騒げばそれだけ向こうが興奮するし、自分がパニックになったらどうしようもねえだろ。アイツが生命に反応するって言うんだったら、むしろ極限まで気配を消して逃げるべきだと思うがな?」
固い声でつっけんどんに言うオリヴァー。サエリクスは彼の緊張を感じ取り、たしなめるが若い聖堂騎士の耳には届いていないようだった。彼は先ほど火を熾こしたときと同じようにブツブツと魔術を導く言葉を発している。サエリクスの疑問にはイーサンが代わりに答えた。
「気配を殺しても無駄だ。アイツはこっちの気配を辿っているわけじゃないんでな。逃げて雨に濡れたままヤツの冷気攻撃を浴びるより、ここで光源を確保しつつ戦う」
サエリクスは舌打ちした。そういえばここは異世界で、雪狼とやらは氷の息を吐いてくるのだった。自分が今まで生きてきた現実との折り合いがつかないと感じることがまだまだたくさんある。例えば魔法だ。オリヴァーは右手に炎を宿し、岩の軒先へと歩いていくとずぶ濡れの下草を焼き払い始めた。
「おい……?」
「雪狼ってのは、陰の気をまとった魔物だからな。炎の持つ陽の気で少しでも相殺を狙ってるんだ。まぁ、やらんよりはマシだろ」
ふと、ブルドーザーで山を崩しているような地響きと、木々の倒れる音が聞こえてきた。段々と大きくなっている気がする。またしても遠吠えが、今度はもっと、近い。サエリクスは嫌な予感に身を震わせた。雪狼がこちらに向かってくるのは分かった。では、この地響きは何なのか。これがまさか雪狼の立てる音だとすれば……。
「なぁ、雪狼ってのは何体いる? それに俺、山犬より大きいって聞いてるからよ、普通の狼くらいのサイズかと思ってるんだが?」
二人は顔を見合わせた。イーサンがキャップの紐を確かめながら、
「アンタの背より、少しばかりヤツの方が背が高いな」
「でけえな、そりゃ。くそ……どうすんだよ、この状況よぉ……」
「……【硬皮】」
イーサンが左手でサエリクスに触れた。
「少しばかりダメージを防ぐようにしといた。それで何とか死なないはずだ。……アンタもそこそこ戦えるようだが、武器もないし応援は頼めないな。さぁ、アンタが逃げるための時間ぐらいはオレが稼ぐ」
イーサンはそう言うが、しかし見た目にも感覚的にも何も変わった気はしない。
(まぁ、気休め程度だろうな)
それでも礼だけは言って、サエリクスは二人を気にかけながらも少しずつ離れていく。彼らはこういう荒事専門の聖堂騎士で、サエリクスは現役の軍属とはいえ今は休暇中、しかもこの世界の人間ではないのだ。ちゃんとした装備もなしに、未知の敵に立ち向かうのは得策でないだけでなく、彼らの足手まといになる可能性もある。
ならば、イーサンの言う通り、サエリクスは戦闘に巻き込まれる前にここを去るべきだ。その方が彼らも民間人の安否を気にせず戦える。
「逃げるならこっちが街道だ。できるだけまっすぐ行け!」
オリヴァーが剣で指し示す。そのとき、高い木々を割るようにして白い狼の頭が現れた。めきめきという生木の裂ける音、瞬間叩きつけてくるような冷気。まるで高温の炎のように燃えるその青い瞳は、確かにサエリクスを捉えたように見えた。
「ッ!」
「おいでなすったぞ!」
「……焼き捨てろ、【焔陣】!」
が、飛び出してきた目の前の敵へと、雪狼はその標的を変えた。おかげでサエリクスの硬直が解けた。
(始めから明らかに勝ち目のない相手に戦うっていうのは無謀ってもんだぜ)
サエリクスはオリヴァーの指し示した方へ向かって走る。走る。ひたすら走る。しかし降りしきる雨と暗闇で視界は絶望的だ。こういうときにスマートフォンがあれば、その明かりを懐中電灯代わりにできたろうが、生憎とあのフードの男に取られてしまっていた。シックスセンス的なものなんぞ持ち合わせているはずもないので、障害物は腕と勘で、ぬかるんだ足元は鍛え上げられた体幹でバランスを保ちながら切り抜ける。
(ちっきしょう、ぜってえあいつから俺のスマフォも取り返してやんぜ!)
心の中でジュードに恨み言を吐きつつ、サエリクスは闇の中を駆けて行く。その背を追うのは……成犬ほどの大きさの雪狼たちだった。




