第8話
「さすがにお互い、無傷とはいかないな。今治すから、僕の右手の輪っかを外してくれないか。自分じゃ外せないんだ」
「わかった」
ジェレミアがにこやかに右手を出してきた。例の、魔術を使えなくするという輪だ。何の装飾性もない鉄でできた輪に見える。継ぎ目もないつるんとした作りで、本当にただ引き抜くだけのようだ。
「ん? 外れない……?」
「ははは、冗談はいいから」
「なぜこれが外せないのか」とディールは不思議に思いながら引き抜こうとしたが…… なぜか輪が抜けることはなかった。
ジェレミアは「ディールは冗談が上手いな」と笑っているが、わざとでもなんでもなく実際、どんなに力をいれても捻っても無理なのだった。
「いや、だから、外れないんだ……なんだこれは……」
それを聞き、一瞬真顔に戻ったジェレミアの表情が驚愕に変わった。
「そんな、バカな……。術が使えない者は珍しくないが、体内に気が巡っていない者がいるなんて……! わかった、とにかく他の誰かに外してもらう」
気が巡っていないとは。ディールは自身が修めている中国武術の、その根底に流れる「気功」という思想を思い出した。これは人間の生体エネルギーをコントロールするという意味において、中国武術を学ぶ上では切っても切り離せない。
「気」とは、血液と同じように体内を巡るものだと考えられてきた。その役割は特に「これ」と断定できるようなものではないが、滞ると精神的に疲労を感じやすくなったり、病気になったりすると思われてきた。気功とは、それを巡らせる、要するに健康法の一種だ。
そして気功には、己の体内の気を循環させて気のコントロールを上達させたり、質を高めたりする「内気功」と、外から作用させて気を入れ替える「外気功」とがあり、日本では超能力的だとかインチキだとかいった扱いを受けている「気功」はすべて「外気功」だ。
ディールの修めている武術は科学的なアプローチで理論的に教えているもので、東洋哲学や気の説明は一切されていない。グレイルとは違い、ディールは精神修養的な武術よりはスポーツ的な武術の方が相性が良かった。
ジェレミアの深刻そうな声音にディールは物思いから覚め、彼の燃えるような炎髪を見下ろした。ジェレミアはいつの間にか、柔らかな木綿のドレスシャツを身に着け、すっかり戦闘とは無縁の貴公子然とした様子に戻っていた。
「ディール、この輪は、嵌められた者の気を完全に内側に閉じ込める特別な物だ。しかし、これを外すために必要とされる条件は何もない。魔術の素養も、何も。これを外せないということは、貴方は……。いや、とにかく後にしよう。まだ試したいこともある」
「なにを?」
「癒しの術をかける。実は、そっちはあんまり得意じゃないんだが、この際、仕方がない」
そう言ってジェレミアはその辺を歩いていた女性に声をかけ、輪っかを外してもらいに行った。そしてすぐに取って返し、今度はディールの腕を取る。ジェレミアはディールの赤くなった拳に右手を当て、ブツブツと何事かを呟いた。
「……【活性】!」
しかし、表立っては何も変化はない。ディール自身も、何かが変わったようには感じなかった。
「……やはり、ダメか」
ジェレミアは嘆息した。どうやら今のが癒しの術らしい。
「本来なら、こうなるんだ。見ていてくれ」
ジェレミアは自らの拳を噴水の硬い石材にぶつけて傷を作ると、もう一度同じように【活性】と唱えた。すると、破れた皮膚と赤く腫れた肉とが、すっかり元通りになってしまった。
「わかりやすいだろう?」
「……ああ、わかりやすいな。俺には効果がないのが悔しいくらいにな」
「何が原因なのかはわからない。ただ、癒しの術が貴方に効果を発揮しないことは他の人間には知られない方がいいだろう。中には、珍しい体質を持つ人間や動物を集めて様々な実験を繰り返したり、標本にしたりという輩もいると聞く。用心するに越したことはない」
「ああ、気持ちは分からないでもないな。俺も逆の立場だったら気になるだろうし」
「確かに気にはなるが……。僕は誰かで試したいとは思わないな」
ジェレミアがキッパリと言い、一度空き家へ、そして聖堂騎士団の宿舎へ行くことになった。ディールを客人として置いてもらえるようジェレミアの上司に頼まなくてはならないということだった。
「今は小隊をまとめている隊長が王都へ出張していらっしゃるから、副長と話をしてもらうことになる。貴方はここに来たとき、ヨックトルムを殴っているから……」
「誰だ、それは」
「ええと。僕の部屋に怒鳴り込んできた男がいただろう? 彼は僕と同じく分隊の長でクライヴ・ヨックトルム。相部屋なんだ」
「へぇ」
「今回は不幸な行き違いであんなことになったが、悪い男じゃないんだ。仲良くしてやってほしい」
「いきなり殴りかかってくるような男とは仲良くなんてできないだろう」
「ははは。そうか、それは仕方がないな」
本当にそう思っているのかどうなのか、ジェレミアは笑ってディールの先に立って歩いて行くのだった。