第3話.高飛び希望
着信音に気づきスマホの画面に浮かんだ名前を見て、グレイルの胸にじんわりと嫌な予感が広がった。かけてきたのはハクロ・ディール。ニュージーランドとオーストラリアという、同じオセアニア圏からやってきて、もう二十年以上の付き合いのある友人だ。
だが、今夜は会う予定なんか入れていなかったはずだ。マイペースなところがある男だとはいえ、いきなり「今から走りに行こう」だなんて、言う奴じゃない。渋々ながら通話をタップすると、普段通りのディールの声が耳に流れてきた。
「今ゴリラが来てるんだけど」
「……上野動物園から逃げ出したのか?」
「違うよ。あのほら……異世界のゴリラだよ」
「異世界の……遺伝子組み換えか?」
いきなり訳の分からない言葉をぶつけられて、グレイルは戸惑った。酔っているのだろうか? いやしかし、ディールはそういう男ではない。上手く意味が取れない中、向こうも同じようにもどかしいのか、語気が荒くなる。
「だから違うって! ほら……なんだっけ、オーブがどーのコーノって言ってたあれだよ。俺のY34に乗ったあの男みたいな女だよ。筋肉バカだ筋肉バカ!」
そこまで言われて、グレイルの中にあの嫌な思い出が一気にフラッシュバックしてくる。
「……なあ、俺の見込み違いじゃなかったらさ」
「うん」
「まさかだぞ? まさかそれってあいつがこっちに……」
「あいつだけじゃないぞ」
「え?」
「他に2人くらいおまけがいる。……あ、3人だわ」
「あ~~~~~~~~~~~~~」
凄く面倒な事になった。
嫌だ。マジで、このままオーストラリアに高飛びしたい。
そう考えるグレイルだが、現実は変わらない。
しかもこうして電話してくるということは、だ。
「え、俺どうすりゃいいんだ? まさか手伝えってのか?」
「そのつもりで電話した」
「いや、俺無理だよ。嫁は今オマーンに行ってるけど、展覧会もう来週だし、それでじっくり作品仕上げたいから旅行に行ってもらったんだから。それに土曜は走行会だろ? このクソ忙しいのに、そんなの関わってられっか」
「だからそっちでどうにかしてくれ」、と言われてブチっと電話を切られ、ディールは途方に暮れる。
(……あー、面倒だ……)
振り返るとゴリラが愛車をぺちょぺちょ触っているのでシッシッと追い払う。しかも目ざとくスマフォを見つけて手を伸ばしてきた。
「あ、それ知ってるぞ! 写真ってやつが撮れるんだろ。貸せ、ディール!」
「やだよ。何言ってんだいきなり」
「え~~~! ちっとくれぇいいだろ~?」
「良くない。壊れたら困るんだよ。……とにかく。今日は俺の家に泊まれ。明日身の振り方を考えよう」
ひとまず、すぐに解決しそうにない問題は先送りにするに限る。ディールは面倒ごとを一気に車に押し込んで自分のマンションへ戻ることにした。しかし、そこに先ほどの黒髪が立ち塞がる。
「待った。そこにはもちろん着替えがあるんだろうな? あと、できれば風呂を借りたい。ジェレミアと私は同じ部屋にしてくれ」
「人の家に泊めてもらう分際で偉そうなことを言うな。相部屋も部屋がそんなにないから出来るかどうかわからん。風呂は貸してやる。着替えは……まあ、サイズが合えばいいだろう」
「そんな狭い場所に押し込めるつもりなのか!」
「フレデリック! あまり困らせないでくれ」
「し、しかし……!」
「すまない、ディール。泊めてくれるだけでありがたい、よろしく頼む」
若干イラッとしたディールだったが、すぐさまジェレミアが割り込んできて、赤毛をぴょこんと揺らして頭を下げた。黒髪の顔に焦りが浮かぶ。そんなジェレミアの姿に思うところがあったのか、彼もまた嫌々という感じではあったがディールに謝罪した。
「……私も、すまなかった。非礼を許してほしい」
「ああ……うん」
「ところで、僕たちが普通に歩いていて良いところなんだろうか、ここは」
「東京は俺みたいな外国人が多い街だから気にしないでいい。だけどあの装備は銃刀法違反になるからまずい」
「置いて行けと言うのか」
「ああ。置いていかないと捕まっちまうぞ。俺だってこれ以上の面倒ごとは御免なんだ。明日はパーツを売りに行かなきゃならねーんだ、練馬のアップガレージに」
警邏中の巡査に職務質問かけられたら「面倒」どころの話ではない。とにかくまいて逃げるか、コイツラを置き去りにして逃げるかのどっちかだ。
「……仕方ない、か。この小剣だけでも持っていけないか?」
「無理。カッターナイフでも罰せられる時代だぞ」
「かったー?」
黒髪が腰から外して見せた鞘入りの小剣を見てディールは即答した。どう低めに見積もっても刃渡り12㎝はある。フレデリックは不満そうだったが、観念したのかそれをベルトごと外してガレージの中にある鎧一式の横に置きに行った。ディールの言葉に驚いたのはジェレミアもだった。
「えっ! じゃあ、もしかして僕が持っているこういう小さなのもダメなんだろうか?」
「おめーは忍者か」
ブーツの内側や腰の後ろ、ズボンのポケットから次々に取り出される、杭のようなものや、鉄製のまきびし、果物ナイフのような細身の短剣……。ディールが思わず半眼になってつっこむと、褒められたと思ったのか、ジェレミアは頬を染めて照れていた。
「なー、ディール、運転席座ってもいいか~?」
「だ、ダメだよ、グリセルダ!」
「これがカッターだ。小さいナイフだ。場合によっちゃこれが顔を貫通することになるからな」
話に被せてゴリラがとんでもないことを言い出している。近くの工具箱からカッターを取り出し、フレデリックに放りながらディールは脅しめいたセリフを口にした。ジェレミアが玩具を手にした子どものようにはしゃいでいるのを横目にグリセルダにきっちり釘を差す。
「あと、絶対に座らせねえからな。他人が運転すると保険がきかねえし」
「ほけんってなんだ」
「保険は保険だ。賠償金制度だ」
かなり面倒くさい分野なので説明なんかするつもりはなかったが、眼鏡の方はその言葉の響きだけで何かを感じ取ったのか、顎に手を当てて考え込んでいた。
「ところで、着替えったって女物の下着なんか……あっ、そうかお前結婚してたんだったな、ディール。でも、本当に家に行っても良いのか?」
「…………」
さらに説明が面倒になったと感じるディールだった。