誰が為の導
信じたいと願うのは
信じられると思うのは
信じていると託せるのは
貴方が貴方だからでしょう
誰が為の導
祈りというものに意味はあるのだろうか。祈りというものに救いはあるのだろうか。
その答えは否であると、アイギスは断言する。それが箱庭の中だけなのかどうかは、分からないけれど。自分に向けられる数多の祈りにもし意味があるのならば、こんなにも透明な意志の塊など誰に理解できるというのだろうか。純粋でただひとつにまで研ぎ澄まされた心の、その矛先は何処に向かうべきかが分からなくなっている。だからこそそれを受け止める終着点が必要なのだ。
祈りはとても美しく、無害だからこそ許される鋭い槍。
その祈りがあちこちに向かえばそれは、やがて多くを傷つけ争いを生む。
「シンお兄様」
これで良かったのだと、信じている。アイギスは窓の外を見た。暗闇とは違う永遠の黒。景色に触れようと手を伸ばすと、縁取られた景色にどぷんと手が沈む。揺らめくだけで何もない。この場所が断絶された空間にあるのだと、アイギスは毎日同じことを繰り返して実感していた。
無数の祈りが絶え間なく響く。もう言葉を理解しようとも思わなくなった。あちこちにぶつかっては消えていく声の形を、拾い上げることもなくただ聞き流している。
ああ、聖女に祈っている人々は、この真実を知ったら何を思うだろうか。
「信じていたの。いつか私も、誰かを救えると。信じていたの。シンお兄様がもし信じてくれるなら、きっと私は頑張れると。どんなに辛くても、どんなに悲しくても、私はこの場所で、お兄様を守るの。私が此処にいることで、お兄様を守れるの。信じていたの」
内側からせり上がってくる熱が、涙となって流れていく。自分がまだ生きているのだと、こんなことでばかり実感する。
少しずつ、神様になっていく。
それは人であるという条件をひとつずつ失っていくということ。
約束をひとつするたびに、神様に近づいていく。そしていつか理想郷を作り上げ、そこで永遠の理想を体現する。神を殺す者が現れるまで。
「アイギス」
「……驚いた。貴方、何処にでも現れるのね」
黒髪をひとつ結いにした少女が壁に寄りかかって立っている。本来であれば聖女以外は入れない空間にも関わらず、その人物はいつも通りの朗らかな笑みを浮かべていた。アイギスはその人物の前にたたたと走っていくと、見上げながら自分の肉親のことを訪ねた。
「ねえ、貴女は此処から出られるんでしょう。戻ってきたのなら教えてくれるんでしょう。シンお兄様は元気だった?ひとりで寂しそうにしていなかった?」
「勿論、大丈夫そうだったよ。君が望んだとおりに、君の一部が一緒にいたよ」
「……でもそれは、私じゃないの」
「ん、そうだな」
少しだけ顔を俯かせてアイギスは奥歯を嚙みしめた。兄の幸せを願うならば、再会を諦めた方がいい。そんなことは分かっているのに、その可能性だけはどうしても手放せない。それを実現するために、アイギスはまたひとつ約束する。兄なら此処に辿り着けると信じているから、その導きを運命の糸に託すのだ。必然となるように。
「ねえ、信じるっていいことだと思う?」
くるりと相手に背を向けて、アイギスは話し出した。
「信じる行為自体に良いも悪いもないんじゃないか。どういう結果になるか、何がもたらされるかによると思うけど」
「難しく考えるのね。貴方、頭は悪くないんだ」
「それはどうも。で、君は?」
「良いことだと思う」
「成程。理由はあるか?」
「だって私満たされているもの。私は信じているのだと、信じられるのだと思うと、色んなことが大丈夫な気がするから」
「その結果どうなっても?」
「当然ね。だって、私が信じた結果だもの。たとえ破滅しても、私は信じることのできた自分を誇りに思う」
黒髪の少女は腕を組んでそんなもんかと不思議そうに言った。アイギスは全く揺らぐことなく、ええそうよと頷いた。
たとえ自分が信じて選んだ道が、誰かに茨の道を強いたとしても。たとえ信じたが故に誰かに裏切られても。たとえ自分の最も大切な人と、道を違えたとしても。
アイギスは信じている。いつか来る最後の日を。その時手を取ってくれるのは、間違いなく自分の兄だと。
「貴方もきっと信じてみたら分かるわ」
「それは俺が、まだ何も信じたことがないみたいだな」
「ええ、きっとそうよ。だって貴方は」
ザザ、とノイズが走る。互いに互いが認識できなくなる。紫音はもう少しだけと手を伸ばすが、アイギスはほどくような優しい手つきでその手を拒んだ。口元が動くのが見えたけれど、何を言っているかは分からなかった。ただ、とても静かで優しい笑みを浮かべていて、幼い容姿とはかけ離れた、まるで何もかもを許すような慈愛を感じて、黒髪の少女はそれが酷く悲しく思えた。
「おい、何してんだ」
声が聞こえてぱっと目を覚ますと、目の前にはオッドアイの男性が覗き込んでいる様子が見えたため、黒髪の少女は思わず自分の両手を軽く上げて驚いていることを示した。舌打ちをしてから、男は少女の目の前で横たわっている人造人間に声をかける。
「おい無事か」
「……わっ、びっくりしたあ」
「俺も俺も。シン、急に声をかけるなよ。3mくらい手前からじわじわ頼むわ」
「誰がやるか。テメェ、今何してたんだ」
「ちょっと話を。議題は信じるとは何か、だったかな」
あからさまに顔を顰めて、ぎろりと睨みつけられて、黒髪の少女は体を起こしたばかりの少女の後ろに隠れた。
「ノイエ、紫音。お昼寝だったのかな、おはよう」
「おはようサルヴァ。シンが怖いんだが」
「顔? いつものことだよ」
「本人前にして何を話してんだよお前らは」
シンが青筋を浮かべて睨み付けると、ふたりはわざとらしく悲鳴をあげながら逃げて行った。それとは逆に、ベッドから起き上がった少女はシンへと近づくと、満面の笑みでおかえりと抱き着いた。シンは大きくため息をついたが、不器用で短い返事をするだけで特に抵抗はしなかった。それに紫音がクレームを入れると、威嚇するようにすごまれたので紫音はすぐに話題を変えた。
「なあサルヴァ、信じるってどういうことだと思う?」
サルヴァは不思議そうな顔をして何度か瞬きをした後、顎に手を当てて少しだけ考え込んだ。分からないという仕草ではなく、どう説明したらいいものかという類の表情だったので、紫音は近くの椅子に座り回答を待った。そんなことどうでもいいだろ、と不満そうなシンをノイエが抑え込む。
「明確には言えないけれど、信じるということは祈りに近いのかもしれないね」
「祈りに?」
「意志のひとつの形というか。祈りと違うのはおそらく、それが他者ではなく自己に向いたもの、ってことなんだと思うよ」
紫音は素直に首を傾げた。サルヴァがよしと人差し指を立てて、まるで講義のように少しだけ歩きながら自論を述べた。
「回答には不十分かもしれないけれど許してね。信じるということは自発的かつ強制では生まれないものなのは分かるよね。この場合の信じるという行為は疑念等を含まないあくまで純粋な信用を指すとしよう。どうしてもこう言うとメリットデメリットのバランスの話に行きがちだけど、実際信じるという行為自体はもっとシンプルに完結している。つまり、信じるという行為ができる自己と、信じるという行為を向けられる対象がいれば相互性がなくとも成り立つものなんだよ」
そしてその対象は祈りとは異なり、他である必要がない。サルヴァの言葉をノイエと紫音は椅子に座って真面目に聞いていた。その後ろで、シンはベッドに横になって目を閉じている。始めから聞く気はないらしく、完全に休息モードに入っていた。
「いやもっと宗教的というか、愛とか生とか語られるのかと思ってたんだけど」
「そっちの方が良かった? いつもの講話も嫌いじゃないけど、そうなると3時間はほしくなっちゃうな」
「わーい、お話聞きたい!」
「あ、俺はいいや」
「ノイエは偉いね。ノイエが聞けるんだから紫音やシンも勿論聞けるよね」
「俺を巻き込むな」
「俺はちょっと……持病の荒ぶる神が多分封印しきれないわ」
「大丈夫、神と対話するのは僕の得意とするところだよ」
「ほんと勘弁してください」
「サルヴァの話、面白いのに」
ノイエが頬を膨らませる。サルヴァが優しく頭を撫でると、ノイエは嬉しそうに笑った。無邪気だなあ、と紫音は肘掛けに頬杖をついてその様子を眺めた。
聖女の細胞から複製された人造個体。寿命はおよそ数年と言われている。
ノイエと出会ったのは単なる偶然、とシンもサルヴァも思っている。実際にはオリジナル————シンの妹であるアイギスが神と約束を交わしてその対価に導かれた運命なのだが。
まるで本人のようだとも思うし、本人が過ごせなかった時を取り戻しているようにも感じる。紫音はアイギスとの会話を思い出し、そして再びノイエを見つめた。
「おい」
シンの声に振り向き、はいよと返事をする。
「テメェが何を知っているか知らねえし興味もねえがな。馬鹿なことを考えてんならぶん殴るぞ」
「えっ、何を考えてると思ってるんだよ……基本的に俺は何も考えてないぞ」
「嘘つけ。変な話題出しやがって」
シンが鼻を鳴らして不快そうにもう一度舌打ちをした。紫音たちに背を向けるようにして寝返りをうつ。まあ何かしらは気づいているんだろう、と紫音はその姿に苦笑する。後ろの髪が軽く引かれて振り返ると、ノイエが大きな瞳でじっと紫音の方を見つめていた。
きらきらと宝石のように輝いている。それはとても綺麗で、生き生きとしていた。
(でもそれは私じゃないの、か)
そうだ。それは揺るがない事実だ。そしてノイエを身代わりにしてアイギスがあの檻から出ることも叶わない。
「ねえ紫音、君は誰かを信じたことはある?」
「うん? ああ、まあ」
「じゃあ誰かに信じてもらったことは?」
「……まあ、いくらか」
「ふふ、成程。じゃあ、その重さの釣り合いは、君の中でとれていると思う?」
紫音はサルヴァの言葉の意味が分からなくて、少しだけ沈黙して言葉を頭の中で噛み砕いた。信じている。確かに信じている。そう言い切れる相手も、そう言い切れた場面もある。では信じてくれる人はいるだろうか。相手が信じてくれていると、信じられる時はあっただろうか。
あった、と思う。けれど、今思い返しても、その信じていたという感覚は結果からの推察でしかない。それは間違っていないはずだと思う自分に疑問を持つのは、他の誰でもない自分自身だった。
「君はもっと信じてもいいんだよ、紫音」
紫音の中の葛藤に気づいたように、サルヴァが諭すような笑みで呟いた。
「信じることができるのは、その対象を信じようとする自分がいるから。信じようという自分の心が間違っていないと、ちゃんと自分を信じられるから。信じることで救われるのは誰かじゃないんだ。信じることで救えるのは、自分自身なんだよ」
「……サルヴァは何て言うか、こう他の何かには自分は救えないって言い方をするよな」
「そうだね。そうかもしれないな。だって僕はこの世の何より信じていた神というものに、裏切られたんだから」
サルヴァの瞳に暗い光が映る。普段の柔和な笑みとは真逆の、それは憎しみや怒りをより研ぎ澄ませたような静かな感情だった。
それだけ大切な人を失ったのだと、紫音はシンから聞いていた。深くは問わなかったけれど、時折宿るサルヴァの感情の正体をシンだけはよく知っているようだった。ノイエが少しだけ怯えたように紫音の袖を掴む。
「はっ」
明らかに馬鹿にしたような笑い声が聞こえた。三人の視線がベッドで横になっている人間に集中する。
「当たり前のことだ。自分が納得してねえのに、他人がなんか言ったところで意味がねえに決まってる。テメェを救うのはテメェ自身。テメェで責任を持ってテメェで解決する。それができねえなら早死にするだけだ」
「まったくもう、君は乱暴な物言いしかしないんだから」
「悪かったな、口が悪くて」
「大丈夫、君の品の無さはよく分かっているから。僕たちはちゃんと、その粗暴な言葉からも君の言いたいことを理解しているよ」
「お前喧嘩売ってんだろ」
「いいや? 僕は事実しか言わないし、これでも今ちょっと感動しているんだよ。普段の君らしからぬ話だったからね。あとは言葉遣いと気遣いがよければ素直に賛辞を送れたんだけど」
「それが喧嘩じゃねえならなんなんだよ! チッ、本当にお前は一言多い」
自覚はあるよ、とサルヴァはにこにこと頷いた。シンは面白くなさそうに三人に向きかけていた姿勢を再び壁の方へと戻した。ノイエがシンにじゃれついていくと、シンはうっとうしそうに怒声を上げた。それを見ながらノイエは嬉しそうに笑っている。
「話は逸れちゃったね」
「いいよ。俺も、ちょっと考えられたし」
「そう、それはよかった」
サルヴァもシンの方に歩いていくと、明らかにシンの足がある位置に座った。うぐ、とシンが鈍い声を上げると、サルヴァはにこやかに謝罪した。
「……はやく、解決するといいな」
「はん、お前に言われなくとさっさと終わらせんだよ」
シンの悪態に小さく笑いながら、紫音もそうだなと頷いた。ノイエが皆で一緒に寝ようと提案するので、シングルのベッドに四人で並んで横になる。どう考えても落ちそうなので紫音はそうそうに端から辞退した。ノイエは疲れたようでうとうととし始め、それをサルヴァがとんとんと優しく寝かしつける。
平和だなあ、と紫音は内心で少しだけ安堵した。
部屋の隅に椅子を移動して、窓からの光を浴びながら外を見た。柔らかな日差しが眠気を誘うので、少しの間だけ紫音も目を閉じる。
目を覚ましてもまだ穏やかな時間が続いていてくれると、そう信じながら。
(信じることで、その道に立てる。導は自らの中に。多くを信じ、得よ。それはきっと新しい明日の可能性になる)