わたしには夢がある
正午を過ぎたばかりの午後、
彼はサムライのようにまげを結っていた。
後ろにリボンを付けて鏡で確認し、
大急ぎで家を出た。
大家さんが見て見ぬ振りをした。
階段を駆け降り、マンションを出ると、
自転車をこいで走り出す。
風を切り、リボンがぱたぱたと舞う。
小学生にじっと見られたが彼は気にしない。
なぜだかうかれた様子である。
息を切らせてある家屋に駆け込む。
「たのもー」
声を掛けると、奥から歓迎のあいさつがある。
ゾウリを脱いで奥に入る。
そこには異次元が広がっていた。
「あんちゃん、元気だべか」
常連と思われる男が声をかける。
「おかげ様で」
ぺこりとおじぎをすると酒が出てきた。
周りでは沢山の老人が酒を嗜んでいる。
明るい内から楽しむようだ。
徳利から注がれた酒は杯からこぼれそうだ。
オトト……口をつけた。
その場の皆はすでに浴びるように呑んでいる。
「自分自身に素直になるのが大事さ」
常連は男のマゲに結んであるリボンに
ちらりと目をとめた。
「で、この間の話だがな」
急にあの常連が居ずまいを正す。
「おめえさんに、頼みがあるんだが、
何とか聞いてやってもらえないか」
背筋が伸びる。
これを待っていた。
酒を床に置き、話を聞く姿勢を取る。
「ピンクのポップコーンの件だな」
「いや違うから」
「分かった。あの話だろう」
「おお、そうだそうだ」
「あの件は、ご免つかわす」
「なぜだ、良い話なのに」
「実は……家内と約束したのだ。
それがしは……リーダーになると。
世の中の不正はだまっっちゃいられねえ。
なあ、サムライの精神は捨てたもんじゃない。
もっとまともな社会にするには、
まず己からだ。
だからそれがしは遠慮させてもらう」
深く一礼をし顔を上げると、
その場の皆は一斉に感涙に咽ぶ。
「そうかそうか、それは立派なこった」
「ありがとう、すまんなあ」
「これからワシらはおめえをリーダーにするよ」
にぎやかに彼を褒め称える。
「そうだよなあ……、あの奥さまを差し置いて、
キャバクラめぐりなんてする訳ないよなあ」
「えっ」
「あの投資話も無しだよなあ」
「はあ、まあその」
「奥手で可愛らしい奥さんだからのう」
「そうだっけ」
常連たちが一斉に別れを告げた。
「じゃあ幸せでの」
彼はバタンとドアから閉め出された。
……それにしても、あの話ってなんだったっけ。
彼は帰った。
中で老人たちが立ち話をしている。
「意外と賢いやつだったな」
「ああ、まさか私たちの正体を暴くとは」
「せっかく全部巻き上げてから喰ってやろうと思ったのに」
「ああ、ピンクのポップコーンにしてな」
老人たちは触手をうねうねさせながら、
残念そうに笑った。