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その九 高校一年夏休み十五日目・立村上総の狩野先生と語り合う日々(2)

 「あおがた憩いの家」を出て、狩野先生は空を見上げた。

「よい天気ですね。中に篭るのがもったいないくらいだ」

 上総に振り返り、やさしく微笑んだ。

「せっかくですから、少し歩きましょう。いいところがあります。それほど時間はかかりません。参道沿いに向かいましょうか」

 参道といえば、このあたりは寺町でもあった。思い出して上総は頷いた。

「お寺が多い町並みなんですね。僕もあまり歩いたことがないので、行ってみたい気持ちはあります」

 青大附属に在学して四年目とはいえ、あまり街の中をざっくり歩くことはそうなかった。たった五分でたどり着ける「あおがた憩いの家」も知らなかったわけだから、実は身近なものこそ盲点だったのかもしれない、そんな気がした。ここは狩野先生の言う通り、目の前に広がる異郷を突き進んでみようと決めた。

 狩野先生は住宅街の細い小路を見つけてするりと進んだ。

「少し入り組んでいますが、大丈夫です。近道ですし車も入ってきません。かえって安全かもしれませんよ」

 くねくねした道を通り、背の高い百日紅の花や足元に咲く彼岸花、力の限り顔を見上げているひまわりの花と顔を見合わせた。風鈴の音が聞こえたり、テレビの高校野球中継の雄たけびなどが聞こえたりと、目も耳もとにかく気ぜわしい。しばらく道なりにへび道を登っていくと、ようやくたどりついたのが巨大な山門だった。

「いつもならばここでゆっくり散歩していくのですが、これだけ歩くとおなかが空きます。調達していきましょう」

 奥に広がる古刹を横目で見やり、狩野先生は軽く首を振った。下りの参道沿いで、小さな店に入っていった。上総には、

「ここでそのまま待っていてください」

 言い置いて、すぐに小さな弁当箱を二箱ぶら下げてきた。

「いいところがあります。そちらでいただきましょう」

「え、でも、おいくらですか」

「値段を聞いたら驚きますよ。そのくらい安いのですから、これは遠慮なくいただいてください。さあ行きましょうか」

「でも、この前もご馳走になってしまったし」

 なんだかおごられなれてしまいそうで罪悪感がある。財布を捜そうとするのを狩野先生は制した。

「大丈夫です、立村くんはまだ、甘えていい年齢なのですから、安心してください」

 すぐに立ち止まり、左脇の竹垣でこしらえられた小さな門を覗き込んだ。

「ここでゆっくりしていきましょう。やはり人もいないようですしね。ありがたいことです」


 狩野先生に促されて竹柵の門をくぐると、適度に手入れがほどされた小さな和風庭園と、小さな東屋がいくつか設置されていた。途中には同じく竹でこしらえられたベンチもある。まっすぐ手前の東屋へ向かい、真ん中のテーブルに弁当を置いた。一緒についてきた小さなビニールパックのお茶もある。

「ここは、どういう場所なんでしょうか」

 腰掛けて見渡すが、他の人の気配を感じない。よく見ると庭園風にこしらえられてはいるけれども縦に長く、最奥が出口となっているようだ。手前には小さな日本家屋が用意されている。何か由緒正しい家だろうとは思うのだが、それが何なのかわからない。

「僕が調べた限りですと、かつてこの参道沿いでおもちゃ屋を経営していたという方が亡くなられ、遺志として市に寄付をし街の人々に役立ててほしいということで設置されたのがこの公園だと、いうことです。流れとしては『あおがた憩いの家』とほぼ同じ経緯のようですね。現在ここは、当時の趣をそのままにしたちょっとした公園として利用されているようです。お彼岸の頃やお正月には大層にぎわうようですが、今の時期はちょうど谷間なのでしょう、ほとんどこのように、人が寄り付かないようです」

「僕が知っていたら、自分の隠れ家にしているかもしれません」

 ──たぶん、誰かを連れて。

 狩野先生に促されて上総は弁当包みを開いた。赤飯と一緒にちいさなおはぎがひとつ、漬物が二種類、小さく植えつけられていた。

「ありがたくいただきます」

「夏向きのご飯ではないかもしれませんが、ここのおこわは大変おいしいです。青潟にしてはめずらしく、小豆の赤飯なのであっさりしていておいしいと個人的には思います」

「ああ、それはわかるような気がします」

 声を弾ませた。

「青潟の赤飯は甘納豆を入れるのが主流だから、全体的に甘いなって気がします」

 たくあんを先に口にした。辛すぎず、しょっぱすぎず、赤飯の適度な甘さによく合った。


 ──けど、狩野先生何が目的なんだろう。俺に何を言いたいんだろう。

 つい安心して甘えてしまっている自分に気づく。心をいったん許すととめどもなく甘ったれてしまうくせがあることを自覚はしている。まずいと思って距離を置こうとするとかえって不自然になり諍いとなる。このあたりのさじ加減が難しい。

 担任でもなく、単なる数学担当の教師に過ぎない狩野先生に、ここまでかわいがってもらえていいのかすら、自分では判断がつかない。本来ならばこのくらい甘ったれるのは担任に対してのみではないか。死んだってあの熱血教諭なんかに擦り寄る気などさらさらない。ただ、自分を高く買ってくれたという理由だけでこうやって赤飯をおごってもらったり、ふたりで話のできる場所に連れていってもらったりと、過剰に目をかけてもらって本当にいいんだろうかとも、いつも思う。青大附中の先生たちは、誰もがこのようにひとりずつ生徒のことを思い遣っているのだろうか。とてもだが狩野先生の態度は、他クラスの一生徒に対する内容ではないような気がしてならない。かつてのA組評議、天羽忠文にも申し訳ないと思うところが多々ある。

 ──E組の時も、駒方先生についていろいろ手伝ってたようだし。駒方先生を尊敬していたりするのかな。先生たちもいろいろ面倒なつながりが多そうだし。まあ、霧島の話を信じるならば、あの馬鹿熱血男とそりが合わないのはわかるような気がするな。

 今回に限って言えば、狩野先生と話すべきことは確かにある。

 ひとつはあの、杉本の家庭教師稼業の件。

 もうひとつは、自分のこと。なぜ野々村先生に上総があてがわれたのか、そのきっかけはやはり狩野先生経由の話なのではないか、といったこと。

 用件があるのだから、こうしていてもいい。自分に言い聞かせた。

「先生、あの」

「なんですか」

「あの、どうして、こういう場所をよくご存知なんですか」

 思っていたこととは裏腹に、まったく関係ない質問を投げかけてしまった。お茶を飲んで口の中のご飯を飲み込んだ。

「さっきの『あおがた憩いの家』は駒方先生の経由と聞きましたのでわかるのですが、こういったお寺とか、ここの公園とか、そこに住まないとなかなか分からない場所のような気がします。僕も今までこういう参道があることやお寺の存在自体意識したことがなかったし、少し不思議に思ったところはあります」

「学生時代からこのあたりはよく歩いていました。院生は貧乏ですからできるだけお金のかからない楽しみを見つけるようになるものです。旅行もそうそうできませんし、汽車代もばかになりません。書店に行けばほしい本で財布の紐が緩みます。そこで考えたのが地元の町を足で探検するとった楽しみです」

「散歩、ですか」

「そうです。当時はこのあたりに下宿していましたからね。研究室に向かう前の早朝、この参道を歩いて、ここの公園でぼんやり考えながら空を眺め、カメラでいろいろなものを撮影し、ゆっくりと降りていきます。ただよいと思ったものを写して忘れた頃にフィルムを預けて現像してもらいます。それを場合によっては引き伸ばして楽しんだりもします。基本としては徒歩で回ることの出来る場所に絞ってますね」

 確か狩野先生は理系の院卒で、そこから中学の教師となったはずと聞いている。

「そのこともあって、青潟の街に関しては僕はかなり詳しいと自負しています。青潟の観光雑誌一冊くらいは書くことの出来るネタがあるはずです。残念ながらその機会もないのですけれどもね」

「A組の人たちにはそれ、お話なさったのですか」

 少なくとも天羽からは聞いたことがなかった。狩野先生は笑った。

「いいえ、残念ながらその機会はありませんでした。学校はこう見えて、まったく余裕がないのです。僕も教師に成り立ての頃は担任した生徒たちに、授業以外の語り合いも行えればと思ったことがあったのですが、優先すべき出来事が多すぎて最後まで念願叶えることができませんでした。後悔してます」

 ──だから俺に話しているのかな。

 上総なりに判断が難しくて首をひねる。おはぎもつぶあんが甘ったるくなくて、いくつでも入りそうなほどだった。どちらも普段は上総が喜んで食べるものではないし、どう考えても夏向けの食事ではないのに、あっと言う間に腹へ収まる。


 ふと、気配を脇に感じた。どことなく暖かいやわらかいものが近づいてきているような感覚が、腰にある。

 ──なんだろ、なんか敷いちゃってるかな。

 腰を浮かそうとして脇を見た。身体が凍りついた。

 ──なに、なんで、いつのまに。ていうか、なんで俺の隣にいるんだ?


 黒く細かな縞模様の燕尾服をまとったそこの御仁。

「ああ、ここには本当に多いんですよ。昔からです」

 毛艶のよい猫の兄弟……雌雄不明だが……が丸くくっついて上総の隣に鎮座増していた。取り落としたたたくあんを目ざとく見つけ、二匹とも足元に飛び降りて奪い合いを始めた。黄色いたくあんを勝ち取った一匹が、うにゃうにゃ言いながら食べ終え、満足げに舌なめずりをしていた。

「猫って、魚以外のものも食べるんですか。たとえばたくあんとか」

「食べるでしょうが、たくあんを食べる猫は僕も初めて見ました」

 たくあんを食べ損ねたしま猫が、上総の膝元に手をかけて、もっと欲しそうに甘えて鳴いた。上総はただ、身体をこわばらせたまま猫の顔が摺り寄せられるのに任せていた。

「立村くん、猫はお嫌いですか」

「いえそれ以前に、触ったことが、ありません」

 猫が、上総の指先をぺろりとなめた。

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