その五 高校一年夏休み十一日目・立村上総の羽飛貴史と清坂美里と振り回しあう日々(4)
野々村先生との対話はヘッドセットごしながら、きわめてクリアに進んでいった。まずお決まりの一学期成績確認から始まり、得意分野と苦手分野の聞き取りなど、さらに話は進んで上総の家族についても問われていた。
──ずいぶん突っ込んだところ聞いてくるな。まあいいか。
答えて困るものでもないので、正直に話した。
「父は雑誌記者、母は現在別居していますが日本伝統芸能に関するコーディネーターのような仕事に携わっているようです。詳しいことは僕も把握していませんが」
「お母さまが、そうだったのね」
納得顔でポニーテールを揺らしつつ頷く野々村先生。涼やかだ。汗ひとつかかない。クーラー有無の問題ではないと思う。
「それでは日頃から本を読んだり、演劇などを見ることは比較的多いのかしら」
「はい、演劇というよりも、日本舞踊の会とか、茶道の席とか、それから和楽器の演奏会とか、そういう感じです。あまりよくわかりませんが、嫌いではないです」
「そうなの。では立村くん自身はそのような日本文化の習い事をしたことはあるの?」
「いいえ、あまり集団が好きではないので、習い事したことはありません。一応、ピアノとお茶は母の手ほどきである程度はできますが、人に見せられるものじゃありません」
「それはもったいないわね。でも、目は肥えているってことかしら」
「僕には、わかりません」
答えに困る質問だった。上総はしばらく言葉を選びつつ野々村先生に答えていった。話の内容からすると、母が日本伝統芸能がらみの仕事をしていることに対して興味を強く示しているようではある。国語科の先生だから当然なのだろうが、それでもやはり偏りすぎているような気はする。
戸惑う上総に対して、野々村先生はさらさらメモを取りつつさらに問う。
「読書は、日本文学、海外文学、どちらが好き?」
「どちらかいうと、海外です」
「好きな作品は? 中学の先生たちから伺ったところによると、フィッシジェラルドの『グレート・ギャツビー』を愛読書としていると記録にあるけど」
「はい、小学校の頃から好きな作品です」
なぜ好きなのか聞かれたら、それこそあの青春野郎も真っ青な勢いで語ってやるつもりだったが野々村先生はあっさりと流した。肩透かしだ。
「日本文学はどうなのかしら」
「一通り目を通していますが、強烈に何か、というのはありません。最近だと森鴎外の『即興詩人』が印象に残りました」
『即興詩人』はデンマークの作家・アンデルセンの綴った作品だ。厳密には翻訳ものだろと突っ込まれると困る。やはり野々村先生は流した。
「だいたい立村くんの持つ傾向がわかったわ。それではこれからのことなのだけど、私なりに考えている今後のカリキュラムを説明するわね」
耳に響く落ち着いた声に頷く。きんきん響かず脳に染み通るようだ。一重瞼の静かな眼差しでもって、野々村先生はノートを閉じ、上総に正面から語りかけてきた。
「まず、今後ですけれども。数学についてはこのまま二学期以降も集団補習を行うことにします。形式としては今まで通りですが、さっきも話した通りできるだけ私も教室にはいるように心がけます。もちろんクラスもあるし毎回できるとは限りませんけどね。私も無理はしないから、立村くんもご心配なく」
「ありがとうございます」
軽く流すようにして、野々村先生は話をつないだ。
「一学期は諸事情で学生さんたちに任せざるを得ませんでしたが、立村くんには少し向いてなかったかもしれないという気は私もしています。学生さんたちのことをフォローするわけじゃないんだけど、まだ慣れてないのよ。これから経験積んでもらえればどんどん分かりやすく教えてくれるようになるとは思います。でも、立村くんには待ったなしなので、この点はできるだけ私が入るようにします。他にも同じ立場の人はいますから安心してね」
「はい」
野々村先生がまず数学補習の説明を終えた。ノートをぱらりとめくる。マニキュアのないさっぱりした指先。短く爪が切ってある。
「そしてこれは補習というわけではなく、私からの宿題なんだけど、国語のこと」
「国語ですか」
またプリントたっぷり渡されるのだろうか。げんなりしそうだ。上総なりに顔には出さないようにしていたつもりだが、野々村先生にはばれていたのだろう。首を振った。
「そんな心配しなくていいわ。立村くんがいつもしていることよ。これから古文・漢文をできるだけ読むよう心がけてほしいだけ。問題を解いてもらうというよりは、私が渡したレジュメを通じて、立村くんがどう感じたかを短い作文にまとめてほしいの」
「作文ですか」
どちらにしてもめんどうくさそうではある。
「そう緊張しなくていいのよ。私、ここで立村くんと話をしてみて感じたのだけど、もっと日本文化にがっぷり四つで組んだほうがいいのかもしれないという気がしたの」
──がっぷり四つって、この先生、相撲好きなのかな。
全くどうでもいいことを思いつつ、頷いた。まずは黙って聞くことに専念する。
「読書することには抵抗がないというのは、素晴らしい能力のひとつよ。中学の先生たちからも伺ってますけど、立村くんは海外文学を好んで読んでいて、夏休みの自由研究ではいつも海外文学の原書を自分の言葉で訳して提出していたと聞きました。大鳩先生からもその点は伺ってます。卒業式の英語答辞のことも、かなり細かく耳にしています」
小さくなりたいのをこらえつつ、また話を聞く。
「もちろんそれは素晴らしいことだし、これからも伸ばしていってほしいことだけど、ただ立村くん、今まで意識して日本文化を楽しむ経験はないんじゃないかしら。ほら、お母さまのお手伝いで裏方に立つことはあったと言ってたけれども」
「はい、楽しいというよりも、なんとなく触れていたという感じです」
「そう、私からすると立村くんは他の生徒たちに比べて、日本文化に自然になじむことができるという貴重な機会を得ているの。うちの学校は中学からお茶の授業もあるし、学校祭ではお茶会も評議委員会主催で行うし、比較的関心の高い人は多いはず。ただ、さらに深いところへとなると、意外とチャンスがないというのが本当のところではないかしら」
「確かにそうですね」
上総は頷いた。野々村先生の言葉はいちいちごもっとも。青大附中でなんでだか、男子評議が全員袴はかせられて野点の手伝いさせられるなんて学校はそうそうないと思う。ただそこから、本気でお茶を習い始めたとかそういうことは聞いたことがない。
「もともと立村くんは語学が得意だし、だから英語科に進学したところはあるでしょう。でも、これから先は、海外の人々と接するにおいて必ず日本文化とはなんぞや?という問われ方をしていきます。本当なのよ。英語がぺらぺらでも、袴のつけ方を知らないのはなぜなんだお前日本で育った奴だろうって怒られるとか、ざらなのよ」
「普通の家で育った人はよっぽどのことがないと、自分で袴をはくひとはいないと思います」
正直な感想を言う。
「そうよね。でも外国の人たちは日本人……語弊があるわね、日本で生まれ育った人たちはみな、日本文化について熟知しているものだと、心から信じ切っているの。これは大変なことよ。自国の文化についてしっかり学べていないという現実は、やはりまずいわ」
妙いに熱く語り出す野々村先生。やはり国語科、こだわりがあるのだろうか。言いたいことはなんとなく理解できるのだが、上総に何をさせたいのかが伝わってこない。日本文化の語り部になれとでもいうんだろうか。ますますわけがわからない。
「これから私が提案したいことは、せっかく日本文化に深く触れる機会があるのだから、それを実際の体験として身に着けつつ、それに伴う知識も蓄えてほしいということなの。同時にそれを、他の人たちに伝えることができるようにしてほしいとも思ってます。できれば日本文化について詳しく英語で語ったり書いたりすることができるようになれば、海外の人々とのコミュニケーションにも必ず役立つはずですから。同時に日本語と英語の言葉の違いを通じてまた新しい視界が開けるかもしれません。いえ、必ず拓けるはず」
──だから、毎週古文のプリント読んで作文かよ。
毒づきたいが、さわやかな野々村先生の微笑みに面じて耐える。きっと純粋な想いで言ってくれているというのは伝わってくる。某青春熱血野郎に同じことを言われたらヘッドセット投げ捨てて教室を出て行ってやるだろうが、この先生にそれはできない。ただ、この件を親に知られたら何を言われるかわからない。母に知られようもんなら、また「上総あんた、学校でちゃーんと習ったでしょ! 補習もしてもらっているくせになんでこの歌詞わからないの! 古文勉強してるじゃないの!」」とか罵倒されるのが落ち。目的は正しいが、副作用が怖いというのが本音だ。
黙って聞き入る上総に、野々村先生は静かに締めた。
「この件はまず、二学期に入ってから詳しい説明しますね。麻生先生にも許可をいただかなくてはならないし。でも立村くんにとってきっとこれは必要なことだと思うの。ぜひ試させてほしいの。お願い」
──「お願い」ですか。
女教師にあまり慣れていないせいもあるのだろうが、話を進めていくと勝手が違い過ぎて戸惑ってしまう。中学でも全くいなかったわけではないし、小学校時代はあの美子先生だ。今までは慇懃無礼に振舞えばそれまでだったが、今は決して不快感を感じないタイプの野々村先生が相手だ。どう答えていいものやら検討がつかない。
「わかりました。よろしくお願いします」
これは無理やり話を終わらせるより他にない。頭を下げた。上げると野々村先生は、表情を極端に変えず、ただやわらかく微笑んでいた。
「そうそう、立村くん、夏休みの自由研究だけど何を選んだの?」
雰囲気を変えたいのか、野々村先生は友だち言葉ふだんに問いかけてきた。
「はい、友だちと三人で、美術関連の資料を翻訳しようかと考えてます」
「翻訳、好きね」
──それしかできませんし。
とは、言えない。簡単に説明しておくことにした。
「友人がふたりとも、現代美術に興味があるようで、その中の特定の画家を選んで研究したいと話していました。その画家は確か、最初日本で活動していたらしいのですが、ある時外国に飛び出して、そこからはずっとそこを本拠地にしていたという話です。日本ではあまり知られていない方なのですが、海外の情報はかなりたくさんあるらしいので友人たちに頼んで資料を集めてもらい、僕なりに翻訳しようかなと、思ってます」
「そうなの。得意分野ではあるのね。でも現代美術には興味あるの?」
「いいえ、全くありません。僕はあまり、絵がわからないんです」
最後は小声で言う。やはり自分にとって美術とは未知の世界だ。羽飛と美里の目の輝きに時折ついていけなくなる。それでもいいと今は思えるが、中学時代は辛かった。
「私もよ。本当のこというと、きれいでわかりやすいものが好き。立村くんも?」
「僕もです。きれいな景色とか、そういうものはいいと思いますがそれだけです」
好みは保守的と見た。美里と感性が合わないのもわかるような気がする。野々村先生は満足そうに頷き、メモを取りながらさらに尋ねた。
「ちなみに、誰と組むの?」
──これ聞くのかよ!
迷うが、しかたない、嘘は言えない。答えるしかない。
「C組の羽飛くんと、あと、B組の清坂さんです」
野々村先生の指がぱたと止まった。耳のヘッドセットに、なんとなく冷たい呼吸音が聞こえたようだった。
──やはりだな。
横顔に厳しいものがちらついたように見えた。緊急フォローを上総なりに行う必要がありそうだ。
「あの、ふたりとも、僕とは同じクラスで、あの、D組だったので仲はよかったんです。それと、清坂さんとは三年間評議やってましたから、結構話もしましたし。そのこともあって今回、一緒に組んだだけなんです」
「わかってるわ。そうよね。ただちょっと意外でびっくりしたの」
すぐに笑顔を取り戻し、野々村先生はさらりと答えた。
「性格正反対に見えるのに、友だちとのつながりって不思議ね。立村くんと清坂さんは水と油の感じがしたのに。だから人と人は、面白いのよね」
ちっとも面白がっていない風につぶやいている。
耳元にささやかれた言葉には、もっと冷えたものが流れている。目の前で静かに微笑みメモを取り直す野々村先生には見えない何かが、声だけに。




