その十九 高校一年夏休み二十五日目・立村上総の天敵と対決する日々(6)
父に促されて自転車を押したまま、青潟市立図書館まで歩いた。駅からさほど遠くない。公園のど真ん中ということもあり人もそれなりに多い。ちょうどひまわりと彼岸花がそれぞれの場所を陣取って咲き誇っていた。その裾根には小さな露草の塊も見受けられた。
「お前、あまりここに来ることないだろう」
「そうだね。ほとんど学校の図書館で片付くし」
「もっともだ」
自転車置き場につけて、上総は父と一緒に建物の中に入った。戦前の由緒ある建物をそのまま生かしたものとのことで歴史が漂っているのは感じるが、それ以上に雰囲気が重たくうっとおしい。入りたくないのにはこの空気感覚にも理由がある。
「建て直さないのかな」
「予算がままならないんだろう。二階に行くぞ」
大理石の階段を昇る。こういうところにはふんだんに金をかけていると見える。一階が一般書籍、雑誌中心で二階が児童書と専門書中心にまとめられているようだ。
「どの本棚が目的なの」
「行けばわかる。もっとも今日はほとんどの学校が夏休みも終わりだから、混みあっているかもしれないな」
嬌声が響き渡る児童書ルームを横目に父はまっすぐ、最奥の専門書棚に向かう。
「歴史なんだ」
「想像できなかったか?」
「そういうわけじゃないけど」
あまり関心ないし、とは言えなかった。窓際の閲覧席には学生たちが私語もなくひたすらノートにシャープペンシルを走らせている様子が伺える。その一方でかなりの年配者も目立つ。
「ここの棚を見て、どういう本が多いか大体見当つくか?」
「郷土史が中心だということくらいはわかるけどさ」
『青潟市史』と銘打たれた金文字の分厚い書籍が数冊並んでいる他、青潟の街に関する懐かしいエッセイや写真集、その他青潟ゆかりの人々を綴ったものも多い。
「他に共通点見つけられるか?」
「ええと、ほとんどが青潟新聞社で出版した本ばかり、くらいかな」
いわゆる地元に密着した出版社が出しているということくらいだろうか。ジャンルも幅広く単なる旅行記録や子辺の修道院に関する記念誌らしきものも混じっている。
「もしかしてこういう本があるってことを矢高さんに勧めろってこと?」
「いや、そういう話じゃないんだ。上総、このページを見てみろ」
父は「青潟いまむかし」なる写真集を取り出した。大判だが思ったよりも軽い。手馴れた調子でページを繰り、上総の鼻先に突き出した。受け取って眺める。
「二十年くらい前の、青潟の写真? 青潟というか、品山?」
「よく気づいたな。今と比べてどう思う?」
「何にもないね」
もともと青潟市内と比較すれば田舎っぽいところがある街ではある。今に比べると店らしきものも個人商店の看板ばかりで、コンビニやスーパーらしきものが見られない。ページ見開き一杯にカラーの品山のスナップ写真が並んでいたが、ここまで静かな雰囲気とは思わなかった。
「まあ、確かに、何もなかったな。ここに家を建てた時はそうだったよ」
本を受け取り、父は改めてその写真を眺めやった。
「今は比較的品山も拓けてきたし、マイホームを建てる人も増えてきている。地元の人たちだけではなく、青潟市内からわざわざ引っ越してきた人も多い」
「うちは、父さんも母さんももともと品山だったっけ」
「違うよ。どちらも縁がない。たまたまこの土地に家を構えただけだ。だからこの街の気質や風習に慣れるのには、かなり時間がかかった。苦労したのはお前だけじゃないんだ」
やはりそうだったのかと納得する。
「ただ、今まで接してきた世界とは全く別の文化が育まれていたこともあって、ジャーナリストの端くれとしては興味深いものがあったのも確かにある。そのこともあって、十年くらい前から仕事の合間にいろいろ取材などもして情報を集めていたんだ。お前や母さんには内緒でな」
「母さんにばれなかったの?」
上総からしたらそちらの方が奇跡である。父は頷いた。本を閉じた。
「その点は抜かりなかったよ。母さんはお前の学校のことで苦労していたからな。無駄な心配はさせたくなかった。取材といってもお前の父親ということがわかればいろいろと面倒なことも出てくるから、その点はいろいろ工夫をしていたつもりだ」
全く上総の記憶では思い当たる節がない。上総は父に向き直った。
「今も品山のこと、調べているの」
「もちろんだ。それで今、いろいろと打ち合わせをしていたところお前に見つかったと言うあれだ」
──「ファビアン」か!
すべてがひとつにつながった。
──そういうことか。父さんのライフワークってこういうことか!
慌てて尋ねる。頭の中から溢れる疑問。押さえきれない。もちろん声は潜める。
「けど、それ、母さんに隠す必要ある内容なの? この前言ってたよな。いろいろな問題が起きるかもしれないとか、母さんの仕事にも影響するとか、それから、タブーとか。そういうのって、品山のことで関係するものなのかな」
「詳しく話すと夜が明けるからはしょるが、その通りだ」
父は言い切った。
「今、父さんが調べていることは個人的興味の範疇なんだ。だからみな重たい口を開いてくれるんだよ。昔、小さな子どもたちの連続神隠し事件が起きてからいろいろと面倒なことが増えたとか、その他いろいろ事情があることも聞いている。でもそれはすべて、誰にも話さないと言う前提で集めたものなんだ」
「でもそれ、本にするってことが前提だろ」
「最終的にはそうしたい。品山の現代史としてまとめたい、それが父さんの願いだ。誤解されることの多い品山と言う街を知ってもらうきっかけとして、なんらかの形で出したい。でもな、それは父さんの意気込みだけにすぎない。できれば寝た子を起こしたくない、そのまま静かに過ごしたい、そう考えている人たちだってたくさんいる。その狭間でこれからさあどうしようか、と毎日考えているというわけなんだよ」
「下手したら青潟から出て行かないといけなくなるとか、そういうこともありえる、ということ?」
「最悪の場合はそうだろうね。村八分になるかもしれない。その辺りの覚悟は必要かもしれないな」
かなり深刻な話をしているはずなのに、父の口調は軽かった。笑いすら浮かんでいた。
言葉を失ったまま本棚を見つめている上総に、父はゆっくり語りかけた。
「なぜ、いきなりこんな告白めいたことを話したかと言うとだ。別に家がなくなるかもしれないから覚悟しろとか、母さんがショックを受けて卒倒してしまうとか、そういうことを想像したからではないんだ。たぶんそのあたりは母さんもお前も大丈夫だろう。楽観はしているよ」
「楽観ったって、それ」
言いかけた上総を押し留め、父は笑顔で続けた。
「自由研究でお前もいろいろ勉強しているようだし、先生たちからも身になるアドバイスを受けている様子もよくわかった。友だちからもいい刺激を受けているようだし、それは喜ばしいことだと思うよ。ただ、さっき菱本先生がおっしゃったように進路の方針がいろいろ変わってくるとお前もさぞ、落ち着かなくなることだろう。英語だけじゃないからな、世の中は。お前の性格上高校三年間でやりたいことをピンポイントで見つけ出すなんて器用なことが出来るとも思っていない」
図星なので黙っていた。
「父さんとしては、ライフワークの品山研究をもうしばらく続けていきたいと考えているんだ。まあ、お前が高校を卒業するまでは熟成させたいところだな。ただ大学に進学してからはそろそろ野心を丸出しにして動くのもいいかもしれないと心積もりしている。できればそれまでにお前がどんなことが起きたとしてもやっていけるだけの力をつけてほしいんだ。それこそ品山を追い出されるようなことがあったとしても、父さんと自分とは違う価値観の持ち主だということを鑑みて、堂々と生きていってほしい」
厳しいことを笑顔でさらりと言う父の顔に見入る。照れくさそうに自分の耳をひっぱっている。
「ま、難しいことだがな。三年間なんとかしよう」
「それより、そういうことにならないように三年間、下地作りをしたほうがいいと思うけどな。とりあえず母さんには言うつもりないけど、このままばれないままでいけるとはとてもだけど思えない」
「どうでもいいところでお前は鋭いな」
褒められたのかなんなのかわからないが、とりあえずは笑ってみた。
何も借りずに図書館を出た。もう時間は三時半を回っている。
「今夜の食事はどうしようか」
「夏休み最後だしなあ。お前も少し手抜きしろ。今日は早上がりできるから、父さんが帰ってからピザでも注文しようか」
「賛成」
仕事場に急ぐ父をハンドル押さえて見送りつつ、上総はゆっくりと駅前に向かい自転車を押して歩いた。今からなら四時半前に家に着くだろう。風呂の準備をして、何か適当に菓子でも食べてようかと思う。矢高さんに送る予定の書類もまとめねばならない。父と話し込んでしまい、適当な菓子を用意するのも忘れてしまった。
──あの、熱血馬鹿教師さえ来なければ。
正直、時間を浪費させられたような気がしてならない。とは言うものの、もし菱本先生が割り込まなければ父から「ライフワーク」の秘密話を聞かされることもなかったわけで、それはそれでよかったのかもしれない。そう考え直した。
──父さんもこれからどうするつもりなんだろうな。
舗装された道に出て自転車を漕ぎ始めた。まだまだ明るい。夕日の気配すら感じられない。このまま朝につっぱしってもいいくらいの太陽がてかっている。
──母さんがどれだけ仰天するかは見て見たい気もするけど、でも、そんな品山のタブーを取り上げるような本を書いたりしたら絶対に修羅場だよ。秘密なんて誰だって暴かれたくないじゃないか。父さんもなんでそんなことに興味もったのかな。そこまで言うなら俺にその原稿か資料かなんか見せてくれたっていいのにな。父さん帰って来たらもう少し詳しい内容聞いてみよう。どうせ母さんに告げ口なんてする気ないし。。
ふと、上総は自転車を歩道に寄せて一度立ち止まった。人通りは幸いほとんどない車道沿い、住宅街を通り抜け青々とした田んぼの連なりを眺めやった。
──まだ先のことだよな、まだ三年間あるし。
頭によぎった瞬間、目の前に広がるごく当たり前の青潟の景色が身体にぐいと食い込んでくるようでめまいがした。まぶしすぎる太陽を瞼とじたまま見上げ、上総はそこに見える薄赤い闇を見つめた。言葉が入れ替わった。
──俺にはあと、三年しか残されてないんだ。
──終──