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その十九 高校一年夏休み二十五日目・立村上総の天敵と対決する日々(4)

 ──なんだか最悪な展開だよな。

 珈琲が冷めていく。菱本先生が熱気を漲らせて身を乗り出してくる。

「さすがです。僕も教育現場にいる傍らそれなりにアンテナを張っているつもりではおりましたが、まだまだ箱庭意識が抜けない体たらく。すでにご存知のことも多いと思われますが、まずは教師としての説明をさせていただけますか」

「ぜひに、お願いいたします」

 静かな笑みを漂わせつつ父が促す。

「青大附高のシステムはご存知でしょうが、今までは附属持ち上がりの生徒たちを青潟大学へ進学させる形がメインでした。中学入試で絞込み、それぞれの生徒に対して心からいつくしみ、独特のカリキュラムによって人間形成を培っていくといった形です」

「確かに。私も連れ合いも、その校風に惚れて息子を受験させたようなものです」

「恐れ入ります。開校以来その伝統は守られてきておりましたが、最近その方針を変更しなくてはならないという動きが出てきております

「方針とは」

 短く父が切り込む。

 菱本先生はまた上総の顔をのぞくようにして見た。もちろん無視したいが、父の前ではそんな礼儀知らずなことできるわけがない。神妙に話を聞くのみだ。

「かいつまんで申しますと、これまでの青潟大学における教育方針は、それぞれの個性を生かし、生徒たちの特性を伸ばしていくために学業を始めさまざまなカリキュラムを用意してきました。生徒会や委員会、部活動、その他もろもろです。しかし近年の社会を巡る状況の変化もあり、特出した個性よりも全人格をバランスよく育てるための授業態勢へと舵が切られているこの頃です」

「つまり、そういうことですか」

 父は頷きながら話をまとめた。

「お気遣いいただき恐縮なのですが、先生が仰ることはすなわち、うちの息子がこれから先学んでいくに当たっての覚悟を求めている、ということでしょうか。いえ、私も以前より仕事の関係もあって御校の教育方針転換には関心を持っておりまして、上総のように全体のバランスがあぶなっかしい生徒たちには少し厳しい環境になりつつあるのかと、感じていたものですから。図星でしょうか」

 ──父さん、あっさり結論に行っちゃったよ。

 菱本先生の回りくどい言葉と違い、父はすでに答えを用意していた。隣で上総は父の横顔を覗き込み、穏やかな笑みが全く消えていないことに驚いていた。いつか読んだ「週刊アントワネット」の教育記事は、やはり父もなんらかの形で関わっていたものなのかもしれない。


「すいません。きちんとお話したかったのですが、そこまでお考えであればもう僕が説明するのも蛇足になりますね」

「いやそういうわけではないんですよ、菱本先生。私としては、あれだけ中学三年間ご迷惑をおかけした息子に対して、卒業した今でも気遣っていただけるといったことに、深い感謝の念を抱いております。連れ合いも同じ意見でありましょう。私どもも上総にどのような教育を施していけばよいかという件は非常に悩ましいものでありまして、むしろこういう機会を設けていただけたおかげでこの子にも何か、よい影響が出るのではと期待しておる次第です」

「あ、ええ、そんな、恐縮です」

 何、どもっているのだろう。父のばか丁寧すぎる言葉で舞い上がっている菱本先生を上総なりに冷ややかな目で見据えた。いつのまにか汗が滂沱に流れている。父は落ち着いてさらに言葉を重ねた。

「上総もここにいることですし、よい機会です。親としての意見を申し述べさせていただきますが私もこの子にとって青大附属高校の教育方針変更がプラスになるのかマイナスになるのか、判断しかねているところがございます。バランスの取れた生徒を育てるというのであれば、上総のような成績にむらのある、こういってはなんですが性格的にもいささか難しいところのある子どもはかなり悩みどころなのではと感じずにはおれません」

 ──難しい性格に育てたのどこのどいつだよ。

 心で罵倒するがもちろん顔には出さない。

「できれば大学まで出したい気持ちも山々なのですがいかんせん、こればかりは努力するのが私ども親ではなく、この子ですのでこれからどうなることやらといささか心配なところもありますね。最近、連れ合いともよく話すのですが、青大附属の先生たちは本当に働き者だと。先生もせっかく早く学校が引けたのならばすぐにお帰りになりたいでしょうに、私ども親子のためにお時間を割いていただき、その上で貴重な情報まで伝えてくださる。これは誰にでもできることではありません」

 ──こいつが無駄すぎるエネルギーの持ち主なだけだってのに。なんで父さんこうやって褒め称えるんだろう。褒め殺しか?

「父母会でもよく伺いますよ。青大附属の先生たちにはプライベートというものがほとんどないのではないでしょうか?」

「いえ、それは、やらされてやっているものではないんです。僕は物心ついてから素晴らしい教師たちと出会い、それにインスパイアされる形で聖職の道を選びました。そりゃあ、生徒たちは成長しますしさまざまな事件も起こります。プライベートのお話が出ましたので白状しますが、家族に関しても身を固めざるを得ない場に立つまでは全く考えたことがないという情けない奴でもあります。ですが、僕はこの青潟という街で、この学校という小世界の中で、誰よりも子どもたちが成長していくさまを追いかけ応援しているその瞬間がたまらなく好きなんですよ。僕にとって教師とはまさに天職。神が与えし職とも言えます」

 いきなり熱く語り出す菱本先生。この話を三年間、うっとおしいほど聞かされてきた上総たち元D組の連中。また始まったと鼻で笑いたい。しかし父はペースを崩さずに、

「素晴らしい教師陣の愛情に包まれて育つ子どもたちは幸せものです。そのことを翻す気はありません。ただ、先生、これだけはどうしても人生の先輩としてお伝えしたい。出来のよしあしはともかくとして、一人息子を育てた者としてですが」

 ゆっくりと、何かをかみ締めるかのごとく、それでも笑みは絶やさない。どこか不気味だ。

「先生は、もっとご自身のご家族に時間を割かなくてはなりません。本来であれば私は立村上総の父親としてありがたく先生のご助言をいただくべきでしょう。いえ、ぜひお伺いしたい。これからうちの息子がどのように青大附高で過ごしていくべきかの道しるべを見出すためにはいくらでも情報が欲しい、やまやまです。しかし」

 また言葉を切る。今度は父が上総をじっと見つめた。笑ってはいなかった。

「今日に限って申し上げれば、先生、明日からまた教師としてのあわただしい日々が始まることでしょう。先生のご気性であればこそ、『聖職者』として、全力投球なさることでしょう。子どもたちにとってはありがたいことです。ですが、先生の背中をできればもう少し振り返り、今が可愛い盛りのお子さんの側に付き添ったり、すっかり疲れ果てているであろう奥様を労ったりと、本来最優先して行うべき仕事があなたにはたくさんあるはずです」

「あの、お言葉ですが」

 空気を何度も飲み込むようにして言葉を発しようとする菱本先生だが、父は動じない。

「学校に関するお話については休みが終わってからぜひ、この前と同様連れ合いおよび麻生先生も交え四人で膝を突き合わせて語り合いたいところです。私にも親としての考えがございますし、連れ合いにもそれなりの価値観があります。また上総もこの夏いろいろな経験を重ね多少は、まあ親の贔屓目ですが大人になったのではと思うところが見え隠れしています」

 そうか?と言わんばかりの顔で菱本先生が上総を覗き込む。目を逸らしてやる。珈琲を勝手に飲んで知らん振りをする。

「今までのようなエレベーター式進学方式が大幅に変わるであろうことは私も把握しておりますがもう少し状況が固まってからでもよいのではないでしょうか。先生、どうか今日ばかりは全力でご自宅にお戻りいただき、大切なご家族のために時間を使ってあげてください。そうしないと、必ず、後悔することになります」

 最後の留めは、

「私の父親としての後悔は、この子の可愛い盛りに母親へすべて育児を任せてしまったことにありますからね。その分今はたっぷり子育てを楽しんでおりますが、もったいなかったと時々ため息が出てくることがありますよ」

 父は座ったまま一礼した。それが合図だった。菱本先生が顔を真っ赤にしたまま立ち上がった。

「すみません、いや、ありがとうございます。恐れ入ります、あ、あの」

 感極まったのか、激しく腕で顔をこすった。どう見ても教師の姿には見えなかった。

「僕は、全力で家族を愛します!」


 ──父さん、ほんと、魔法使いかもしれない。 

 丁寧に礼をして背を向けた菱本先生を見送りつつ、上総はすっかり冷えたブラック珈琲をゆったりと飲んだ。



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