その三 高校一年・夏休み 立村上総の本条先輩を振り回す日々(2)
「何か飲み物買ってきましょうか?」
上総なりに気を利かせたつもりだったが、
「いえ、いいですよ。駒方先生がいらっしゃったら大学の教職員食堂に場所を移しましょう。多分空いているでしょう。落ち着いて話ができますしね」
狩野先生に制された。
「学生は基本として利用を禁じられていますが、引率者がいれば特別に入ることを許されます。主に大学の卒論指導などでよく利用されますね」
「どこにあるんですか?」
「ちゃんと案内しますから安心してください」
今だに青潟大学の校舎地図が頭に入らない。特に大学に至っては今だに迷うことがある。
「英語科のみなさんとはなじめていますか? 成績のことは確認するまでもないのですが」
「よくしてもらってます」
あいまいにごまかした。麻生先生をはじめクラスメイトたちとのどたばた劇を説明するまでもない。ただ、男子限定でいえば一部をのぞいて……片岡とか……はうまくやっているのではないかと自負している。とりあえずはいじめられてはいないしはぶられてもいない。
「安心しました。立村くんならもう大丈夫だろうとは思っていたのですが。それはそうと、夏休みの自由研究も大変でしょうね。話に聞きますと、グループで研究することを義務付けられているとか」
きっと義妹の近江さんから聞いたことなのだろう。別に聞かれても困らない。
「はい、でも、友だちふたりと一緒に準備を進めているのでたぶん大丈夫だと思います」
「テーマを、ですか」
「はい。現代美術が好きな友だちが、ひとりの芸術家に関する論文を今探しているところです。日本語訳のものが見つからないらしいので、図書館でコピーしてもらってそれを訳する予定でいます」
頷きながら狩野先生は上総の話を聞いてくれた。軽そうなめがねをかけている。銀縁で、本条先輩のものと少し似ていた。時折めがねをハンカチでふきつつ、
「現代美術とは面白い切り口ですね」
興味深そうに促した。
「いえ、僕は美術とか、絵とか全くわからないので友だちにまかせっきりです。どれ見てもきれいとかそういう感じしか持てないので。生まれつき鑑識眼がないんんだろうな」
最後は独り言。思わず友だちに話しかけるみたいな口調であわててしまう。気が緩んでいる証拠だ。
「いえ、いいんですよそれで。僕も正直、立村くんが現代美術を積極的に研究したいと思うとは想像していなかったのですから。引き出しを増やすためにいろいろなものを見ておくことはいいことですよ。ただ、立村くんはむしろ伝統芸能とかそちらの方に興味があるのではといろいろ勘ぐっていたのですが、そちらはどうですか?」
──なんで知ってるんだろ?
あまり上総も母の仕事についてぺらぺらしゃべったことはないが、学校側が細かい情報を知らないわけないだろう。両親の謎の離婚から始まり、母の理解しがたい教育方針、父が「週刊アントワネット」記者ということ、おそらく狩野先生もそのあたりは把握しているはずだ。かまわない。あの担任よりはましだ。
「興味があるというより、子どもの頃からそういう席に出たり舞台を見たりする機会はそれなりにあっただけです。あまり面白いとは思わなかったのですが、母の手伝いで裏方の仕事をすることも増えて、それなりに言葉は覚えました」
華道茶道日本舞踊、母の娘時代たしなんでいたことに関しては無理やり植えつけられているところはある。
「そうですか。僕は日本文化には疎く、日々反省する毎日です。日本に生まれ育った者として、その国の文化をきちんと知っておきたい気持ちはあるのですが。きっかけがないと触れる機会もなかなかありません」
少し迷ったが、触れておくことにした。
「僕の一学年下に、花森さんという女子生徒がいて一年で転校した人がいます。彼女は今、花街で修行をしていると聞きます。母のつながりでその後の話などよく耳にしますが、大変だけどかなり充実した修行生活を送っていると聞いてます。自分の将来を十三歳の時に見極めるというのに、本当に驚いたことを覚えてます」
「ああ、花森なつめさんですね。彼女も目標に向かって日々努力しているのですね」
ほっとした表情で狩野先生は微笑んだ。
「彼女も目標を決めたら一直線、のタイプですね」
──ああそうだ、明日杉本に会ったら言っておかないとな。
そろそろ花森なつめも、店出しの準備に忙しい時期だろう。来年の春、地元の中学を卒業したら一職業人として店修行に入ると聞いた。その前に「お店出し」と呼ばれる儀式があるらしく、母の話を聞いた限りだと来年の三月を予定らしい。ただ青潟の花街は日本でもかなり特殊らしく、上総もまだ話が飲み込めていない。
「僕の周りの人たちはみな、早い段階で夢や目標を決めて行動する人が多いので、すごいというか、尊敬してしまいます。僕はまだ何も未来のことなんて考えていませんし。霧島くんと話をしていても、彼は自分の将来を見極めて、今すべきことを選んで律してます。その他にもみな、いろいろな人の話を聞くとこんなんでいいんだろうか、と思うことがあります」
ついぺらぺらとしゃべってしまった。あまり友だち相手にここまで本心をさらけ出すことはない。本条先輩に対しても同様、いや本条先輩だからこそ話せない。情けないくらいに自分の未来を描けずにいる自分がみっともないったらない。
「将来の夢ですか。なら聞きます。立村くん、将来の職業を考えたことはありますか? 本当にあいまいなものでかまいません。気軽に語ってもらえますか?」
「え、でも本当にそんな大げさなことは」
口ごもる。夢がなかったわけではない。ただ、現実が痛いだけだ。
「今は僕しかいません。誰にも言うつもりはありません」
緊張してきた。おごり高ぶった中学時代に持った小さな夢をつぶやいた。
「外交官とか、通訳とか、翻訳者とか」
──何が外交官だってさ!
自分で思い切り突っ込んだ。
外交官、というのは中学一年、入学時に一瞬だけ夢見た職業だった。ただし具体的にどのような仕事をするのかまで落とし込んだことはない。語学が得意なら外交官なんか向いているんじゃないの、と親戚の人々に勧められただけ。
通訳も単純に「英語はじめ語学が得意」だからというだけのこと。これも同じく両親、親戚筋のお勧めにすぎない。もともと人とべったり語り合うのが苦手な上総にとってこれはしんどいのでは、と最近になり気づいた。
「ご家族、ご親戚のお勧めですか」
「はい、自分ではどういう仕事がいいか思いつきません。翻訳もやってみたい気はありますが、自分の好きな本でないとやる気でないから僕向きではないのかもしれません」
「立村くん、いいですか」
狩野先生が上総に手を差し伸べるようにして呼びかけた。
「僕からの提案ですが、一度語学へのこだわりを手放してみてはいかがでしょう?」
「え、でも僕にはそれしかとりえないし」
今日は何度狩野先生にぐさっとやられているだろう。虫も殺さぬ顔をしながら、上総の傷口をさりげなく触れるようなことを言う。
「今挙げてくれた職業は決して立村くんに向いていないわけではないのです。ただ君の夢はまだ、他人から与えられたものを選んでいるだけのようにも見えます。ご家族のみなさんはきっと立村くんの語学習得能力を誇りに思って、外国語堪能な人々が携わるであろう職業を並べてみたに過ぎません。そして、それはほんの一部です。もっと言うなら、自分で向いた職業を作り出すことだってできるのですよ」
「自分で仕事を作るということですか?」
よく意味がつかめず問いかけると狩野先生は大きく頷いた。
「もうすでに自由研究のテーマが決まっているのなら次の機会にでも考えてほしいのですが、君のお母さんが携わっている日本伝統芸能の世界や、花森さんの暮らしている世界、僕たちには未知の世界をわかりやすくまとめていくといったことにいつかは挑戦してほしいと願ってます。これは僕個人の興味でもあるのですが。さらにそこから英語を用いて外国人の方々にも伝えていく、それもまた面白いでしょうし立村くんの得意分野でもあるでしょう」
「でもそんなに僕は、日本伝統芸能の世界に詳しいわけじゃないし」
押しが強い。流されそうだ。母の顔が思い浮かばなければあっさり受け入れてしまいそうだ。ああそうだ、八月八日はゆかたざらいと聞いた。また手伝いが待っている。肉体労働だ。
「僕が知りたいのは立村くんがどんな風にそれらを見て感じたか、です。論文を読みたいわけではないのですよ」
さらに説明を続けようとしたのか狩野先生が前かがみになり上総に語りかけようとした時、タイミングよく前の扉が開いた。
すぐ振り返った。浅黒い顔と銀縁めがね。デニムシャツにターコイズのジーンズ。白いカーディガンを腕通さずに背負い、両腕を前で結んでいる、今時の高校生ファッション。
「先生、お久しぶりです! 本条です! んと、それと?」
同時に目が合った。唇をくいと上げて挨拶したように見えた。本能だった。立ち上がった。
「本条先輩!」
さっきまで狩野先生と膝突き合わせて語っていたことが瞬時に飛び去った。こちらをあっけに取られたように見つめている本条先輩の眼差しに気づかぬ振りして上総は、片腕をすぐに取った。手にかばんがあるかと思ったのに、ない。後輩としての義務を果たせない。とりあえずは離さないことにした。
「先輩、お財布とか何も持ってこなかったんですか?」
「ばーか、ポケットに全部入ってるっての。それよりお前、どうしたいったい?」
「聞いてなかったんですか? 駒方先生から連絡もらったんでここにいます」
「いや、そういうわけじゃねえよ、お前来るのは承知の上なんだが、おい、お前、なんで俺の腕、離そうとしないかってこと、聞いたいんだって」
「あれば持っていこうかなと思っただけですが」
「どこに? こんな狭い教室にだぞ?」
「先輩の荷物をすぐに運ぶのは義務だって先輩言ってたでしょうが!」
「いや、それ今そうするか? ったく、まあ、狩野先生、俺の弟分が世話かけているようで面目ないですよ、ほんと」
本条先輩が上総の隣に腰掛けるまで、腕を引っ張ったままでいた。黙っていたら斜め前に座ってしまうかもしれない。先生たちには気づかれないように合図もできやしない。本条先輩の隣を押さえるのは中学一年の頃から上総の管轄だから当然だ。
あきれた風に眺めていた本条先輩は軽く上総の頭をかき回すようにし、
「久々に顔見せたら相変わらず妬きもち焼きの甘ったれかよ」
まんざらでもない風につぶやいた。




