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その三 高校一年・夏休み 立村上総の本条先輩を振り回す日々(1)

 十一時二十分。まだ本条先輩は来ていない。

「立村くん」

 教師研修室……いわゆる「E組」の教室に、机を寄せて向かい合わせにし、椅子に腰掛けて待っていたのは狩野先生だった。

「おはようございます。お久しぶりです」

 心込めて礼をする。中学を卒業してからまだ四ヶ月少し。空気がさらりとして心地いいのはこの教室に人がほとんどいないからか。かすかにグラウンドと体育館あたりから運動部の練習および吹奏楽部の演奏が聞こえる以外はきわめて静かだった。

 わざわざ立って礼を返してくれた狩野先生は、ワイシャツにネクタイを締めていた。夏休みだからといって、生徒と一緒に丸ごと遊びほうけるわけがないと聞いたのはつい最近のことだ。先生によっては部活の指導で忙しい人もいるし、夏の夏期講習だってある。極めつけがこうやって卒業生のアフターフォローまで行われているという有様だ。忙しくないわけがない。

「夏期講習は」

「僕の担当分はすでに二時間で終わりました。今は古文の授業のはずです」

 一応、別教室で授業が行われているはずだった。上総が中学生だった頃も同様だった。もちろんほぼ全員参加が義務付けられている。もっとも上総の場合は数学が言うまでもない状態なので、ついていけるわけもなく規模を一人に狭めた形での個人授業と相成ったわけだが。学校に来ることと授業とはイコールではない。午後からの委員会活動以上の目的なんてない。そんな三年間だった。

「これから駒方先生もいらっしゃいますが、用事がおありとのことなので十二時過ぎと伺ってます。本条くんも」

「はい、そのくらいと」

 まずは狩野先生の向かいに席を取って腰掛けた。「失礼します」と一声かけて、薄い麻のジャケットを脱いだ。背もたれにかけておく。

「そろそろ今日あたりが暑さのピークかもしれませんね」

「え、少し早いんじゃ」

「蝉が鳴き始めました。それほど目立ちませんが、やはり鳴き方の響きによって暑さの段階を図ることができます」

 ──よくわからないけど、そうなのかな。

 

 今日の集いは駒方先生からの提案だった。結論から言えば本条先輩ありきの内容だ。

 ──上総もそろそろ高校に慣れてきた頃だろうし、里希もいろいろと向こうの学校で学ぶことも多いだろうしな。よい機会だからお前たちふたりを呼んでじっくり話をしたいんだが、予定はいかがかな?

 もともと評議委員会でお世話になり、特に上総は三年時「E組」通いでいろいろと迷惑をかけた過去がある。本条先輩の担任が駒方先生だったということもあるだろう。ちらっと聞いた限りでは、上総がかけた迷惑どころの問題ではなかったようなので、それなりにつながりも強いに違いない。

 ──おおそうだ、せっかくだから狩野先生、貴方もいらっしゃい。十代の若者を年寄りがひとりで面倒をみるのはやはり、体力が持たないよ。二十代の体力は必要だよ。

 夏休み三日目に突然駒方先生から電話がかかってきて、何も考えずにOKしていた。相手があの……名前は言いたくないが……元担任だったら一瞬のためらいもなく拒否するか電話を叩き切っていただろうが、さすがに恩義を忘れはしない。それに一緒にいるのが狩野先生ならば、やはり少し話したいこともある。少し早めに来たのはそのこともあった。


「立村くん、高校では数学、調子はどうですか?」

 すぐに狩野先生は話を切り出した。

「正直、厳しいです」

 短く答えた。

「英語科だと数学の分量がもう少し減るかと思ってましたが、やはり甘かったと思います」

「そうですね、ここから国公立大学を目指す人もいるはずですから、数学の授業はかなり念入りに行われるはずです。補習も参加してますか?」

「はい、週に三回ほど」

 唇を噛む。狩野先生の顔を見るのが辛い。今日、あえて早く到着したのはこの部分で胃の痛みが耐えられなくなったからだった。数学の苦手な生徒たちが十人程度集められて、特別なプリントを解くよう指示される。小学校の数学すらぎりぎりなんとか過ごしてきた上総にとって、高校の数学Iがそう簡単についていけるわけもない。自分なりに格闘はするのだが、時間をかけた割に他の生徒たちとの差が格段違いすぎる答案を出さなくてはならない。

「最初はなんとかなるかとたかをくくっていましたが、やはり」

「数学科の皆さんは説明を熱心にしてくれますか」

 これも言葉を飲み込むしかない。あまりにも着いていけなさのレベルが違い過ぎることもあり、たいてい上総を担当した数学関係の先生たちはあきれはてる。いや、とりあえずは教師ならまだいい。問題は青潟大学の学生たちがボランティアでつききりの説明をしてくれる時だ。

「きっと、みな、教えようがないと思っているんだと思います。いわゆる、ふつうの、常識がわからないから」

「そうですか、大学生の方々ですか」

 今まで罵倒された言葉が耳に焼き付いて離れない。「この程度、常識だろ?」「えー、本当にこれ、わからないの? 中学生でもわかるよこんなの」「いったい三年間青大附属で何やってきたんだよ、ったくさっき言っただろ? 俺に何回同じこと言わせるんだ? いい加減自立しろよ」エトセトラ、エトセトラ。

「そういうことだったのですね」

 狩野先生はしばらく頷きながら上総の言葉に耳を傾けていた。上総は決して自分に同情してほしいとは思わない。ただ、何とかしないと先の問題が待ち構えてるという現実を、なんとかしたかっただけだった。

「英語科だからといって数学を勉強しなくてもいいとは思ってません。ただ、このままだと、青潟大学への内部生推薦が受けられないかも知れないというのがあって」

 上総が中学入学した頃は、青大附高の英語科にもぐりこめば最低でも青潟大学英文科への路は確保されたように言われてきていた。母もそれを狙ってスパルタしたのだと聞いている。しかしここ数年で方向性がだいぶ変わってきたらしく、一芸に秀でるよりもバランスの取れた成績を優先したいという考え方にシフトしているようだった。生徒たち同士の会話でもその噂は流れていて、かつてのように「英語科=英文科」のイコールは外れつつある。

「確かに、推薦に関してはいろいろな噂を耳にしますからね。ただ、立村くんは英語の成績が優秀ですし、このまま苦手科目にも努力を続けている姿を見せていけば、それほど悲観することはないと僕自身思います。一番まずいのは、苦手だからといってあきらめてしまうことです。精神論ではなく、周囲に手を抜いたことが気づかれてしまいますと、かえって悪循環になります。好きになれない授業に力を入れるのはきっと辛いでしょう。ただ、苦手なものに取りくむという姿勢を見せる、ということは何よりも重要なことです」

 ──という、姿勢を、見せる、か。

 なんとなく狩野先生は、意図的に言葉を選んでいるような気がした。苦手科目……もちろん狩野先生担当の数学だが……に対して最後まであきらめない、これが大切なことは承知している。だが「姿を見せる」というのはどういうことだろう? いかにも「がんばっています」といったムードを作り上げて見せ付けろということか。演じろ、ということか。

 上総は何も言わず、ただ頷いた。狩野先生の言葉は穏やかで、静か、それでいてまっすぐだった。

「ただ、今の補習形式は立村くん向けではないかもしれません。この点については高校の先生たちも気づいていないとは思えません。なんらかの形で二学期以降は立村くんにふさわしいフォロー体制が整うはずです。その点は安心してください。中学と高校ではきちんと連携が取れてますから。場合によっては僕もお手伝いできることがありかもしれません」

「その時はお願いします」

 思わずほっとした声がもれてしまった。まずい、そういえば狩野先生は二学期から担任を持つはずじゃないのか。担任を持つということは壮絶に忙しいはずだ。しかもクラスは二年のあいつ率いるあの……。

 ──まずい、まだこれは霧島の勝手な想像なんだ。外れてたら赤っ恥だ。

 担任の件について聞いて見たかったのだが、あえて飲み込んだ。まずいまずい。


「そういえば、僕も立村くんにひとつ、相談事があったのです。今日早く来てくれて本当によかったと思ってます」

「何かありましたか」

 評議委員がらみのいろいろな人間関係。元A組縁故クラスのトラブル。頭の中を駆け巡る。上総は狩野先生に真正面から向き直った。狩野先生も穏やかに受けてくれた。風の糸がすり抜けているようだった。

「最近、二年の霧島真くんとよく話をする機会が多いようですね」

 いきなり直球できた。ごくっと空気を飲み込んでしまった。どこで見たのだろう。

「え、それはどうして」

「立村くんは自然に受け入れているかもしれませんが、霧島くんが毎日のように高校へ通い、英語科の教室を訪ねているという話はすでに先生たちの間でも話題です。決して悪い意味での噂ではありません。ただ、どうしても教師の立場からすると上級生と下級生の友情には気を遣わねばならないことも多くなるのです」

「気、遣うのですか?」

 戸惑う。中学の教師連中がいつのまにか霧島を通じて上総の情報を得てにやついているというのが気持ち悪すぎた。きっとその中にはあのカンガルー男もいるに違いない。せっかく穏やかな気分で昼に向かおうとしていたのにげんなりしてくる。

「大人たちに関心をもたれていることに抵抗を感じる気持ちもわかります。僕があえてこの話を持ち出したのには、それなりに理由があります。わかりますか」

「理由、ですか?」 

 やはり二学期以降霧島の担任教師になるであろうことは確実と見た。上総の元へ霧島がしつこくご注進に訪れるのは高校側からしたら実に目立つことだろう。中学生徒会副会長で秀才、かつ黙っていればあの気品ある貴公子ぶり。そんな完璧野郎がなぜ、一応は評議委員長を務めたとはいえさんざん立つ鳥後をどろどろ状態で逃げ出した奴に張り付くのか。特に中学教師側からしたら疑問符であふれ返っても当然だろう。今、目の前にいる狩野先生も恐らくその一人であろうが。

 上総はしばらく考え首を振った。ポジティブな理由が見つからない。

「すでに霧島くんとも語り合う機会が多いでしょうし、彼の人となりも少しずつ把握していることではないでしょうか。正直、戸惑うことも多いでしょうが」

「はい、ただ霧島くんのお姉さんがあの霧島さんだったので、全く知らないわけではありません」

 無言で狩野先生は頷いた。特に追いはしなかった。

「霧島くんの行動は少し独特なところがありますが、受け入れられましたか?」

「最初はかなり戸惑いましたが、悪気があってしていることではないですし僕はそれほど苦手には感じていません」

 昨日の今日だし、さすがに「下手したら犬猫よりもひどいんじゃないかあの言動って」と突っ込みたくなったなんてことは言わない。ただ、周囲から思われているほど霧島に手を焼いているわけではない。飲み物がばがば飲みまくるわ勝手に人の本棚を漁るわ、いきなりべそかくわでのびのび振舞っている霧島を、どう扱えばいいのかで試行錯誤しているだけだ。

「それは素晴らしいことです。ありのままの彼を受け入れているのですね」

「ありのままというよりもむしろ」

 言葉を切って、つい一週間前美里と羽飛の前で伝えた言葉を改めて告げた。

「僕は、本条先輩になりたいだけなんだと思います」

 

 しばらく狩野先生は上総をじっくりと見据えていた。何かを確認したさそうだった。やがて口をゆっくりと開いた。

「立村くん、今のうちにお願いがあります。霧島くんのことです」

「僕にできることでしょうか?」

 問いかけると、狩野先生は頷いた。

「君たちの年頃で得る友情は特別なものです。君もそれは十分感じ取っていることでしょう。これから来る本条くんと培った縁もそうですし、クラスメートや評議委員会の友だちも含めて一生の財産となることでしょう。君は今のところ霧島くんもそのひとりとして受け入れようとしています。ぜひ、そうしてほしい、そう願っています。ただ、これだけは心がけてほしいのですが」

 間が長い。ふっと耳が熱い。

「これから先霧島くんに対して、受け入れるだけではなく間違ったことには全力で拒否をするだけの力を、立村くん持ってほしいのです」

「拒否ですか、そんな大げさなこと考えたことないんですけど」

「君は霧島くんの言動について、すべてにおいて賛成できますか?」

 反対に問いかけられ絶句するしかない。まず姉の罵倒はもうやめろ、そう言いたい。首を振る。

「そうですか。そのことを注意できますか?」

「内容にもよりますが、聞きたくないことは話すのをやめるようにとは言います」

 ──頼むから「あの馬鹿女」ってのはやめろよ。俺だってあの人同期の評議委員なんだから。

「一緒に悪口の言い合いはしたくないです」

「そうですか。ですが立村くん、これから先霧島くんと語り合っていくうちに、明らかにこれではまずいであろうと思うことが出てきた時のことを、今から少しだけ心に留めておいてほしいのです。具体的に何がとは言いずらいのですが、弱い人に対して冷ややかな見方をしてみせたり、プライドの使い方を間違えたりとか、まあ、誰にでもあることです。そういう時に立村くんにはしっかりと、その考えは間違っていると、自分自身のものさしで判断して言い聞かせるだけの力を持ってほしいのです」

「そんな人のこと、言える立場じゃないし、そんな先輩後輩というようなつながりとも」

 どもりかけながら上総が言い返すのを、狩野先生は静かに制した。

「いいえ、さっき立村くんは、本条くんのような立場に立ちたいと言いましたね。そういうことです。偶然ですがお互いの間には二年の違いが横たわっています。いわゆる先輩であり後輩であり、ということです。同時に立村くんと本条くんとの間にも、一年という河が流れています。たかが一年、二年といえばそれまでですが。霧島くんが過ごしている十四歳の日々を、立村くんは二年前に済ませてます。同じものではないにしても、痛みの記憶はまだ残っているでしょう。いろいろな面で」

 夏の、宿泊研修の記憶。オブジェ、美術館、狩野先生とその奥さん

「これから立村くんは、霧島くんを通じて自分自身が年上の人たちからどう見えていたかを実感することになるでしょう。貴重な体験です。しかし、かつての自分を外から見直すことは立村くんにとっても、非常に辛い可能性もあります。場合によっては受け止めきれないこともあるでしょう。その時にはどうか、僕を頼ってほしいのです」

「狩野先生?ですか」

 やはりこれは、担任説確定だ。恐る恐る伺う。

「そうです。君はまだ、人に頼ってかまわない年頃です。共倒れにならないように、ふたりがゆっくりとそれぞれのペースで大人になれるように、きちんとフォローし続けます。どうか、煮詰まってしまった時にはひとりで悩まないで、まずは僕のところに電話なり学校に来るなりなんらかのアクションを起こしてください。僕はできる限りのことをします。それだけは忘れないでください。僕が伝えたかった大元はそこです」


 ──霧島とつるんで遊ぶってそんなに大げさなことだったのか?

「はい、そうします」

 もっとも狩野先生に霧島の愚痴なんてこぼす気なぞない。「共倒れ」だとか「受け止め切れない」とか、男子同士の友情はそこまで面倒なものなんだろうか。

 上総は大きく頷いた。霧島の担任かどうかについてはあえて、聞かずにおいた。

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