車窓逃避行 『半濁点は除く』
車窓の風景を見るのが好きです。でも、時々怖くなります。
一向に雨の止む気配のないまま、列車は走り出す。早すぎず、遅すぎず、景色を堪能するのにちょうどよい速度。けれど、窓から見える世界は、灰色で、鮮やかな花畑も海も、何も見えはしなかった。
「同席、よろしいか?」
「・・・向かいなら、どうぞ」
「ありがとう」
誰も乗っていないに等しい列車に乗車したのは、否、してきたのは一人。最初から、乗っていたのは一人。席はいくらでもあるのに、新しく乗って来た背の高い男は、迷い無く、『彼』の向かいに座った。そして、座ってから、事後承諾のように、『座っていいか』と訊ねた。『彼』も、既に向かいに座っているのに、『向かいなら』と許可をした。ちぐはぐな二人を乗せて、列車は灰色の世界を走り出した。
「せっかく乗ったのに、残念だ。晴れていたなら、今の時期、見事なひまわり畑が見えると聞いた」
「ひまわりなら、枯れましたよ」
『彼』は、窓の外から視線を外さない。それに気にせず、男は口を開く。
「海も見えるらしいな。翡翠色の海だと言うから、期待していたのだが」
「海なら、真っ黒ですよ」
トンネルをくぐる。黒一色の中をまっすぐ泳ぐように、列車は光を求めて走っていく。
外の世界は、まだ正午を過ぎて少ししか経っていないのに薄暗く、太陽の恩恵は分厚い雲が横領している。光が指すのはいつだろうかと、男は一人ごちたが、『彼』は何も答えなかった。
「次の駅の近くは、田園地域だそうだ。今頃なら、青々とした葉が拝めたろうに」
「畑なら、無くなりましたよ」
通り過ぎた風景は、更地のようだった。
「ところで、誰も乗っていないな。降りた形跡も無いし・・・私以外の人は?」
「乗客なら、いますよ」
通り過ぎた風景は、建物が密集した町のようだった。
「雨は好きか?」
「雨なら、降っていましたよ」
通り過ぎた風景は、いくつもの十字架が立つ場所だった。
「一人で旅行か?私もだから、偉そうなことは言えないが、やはり、複数で行くのも楽しいのだろうな」
「一人なら、笑っていたし、二人なら、泣いていましたよ」
通り過ぎた風景が、列車を追いかける。
「君、名は?若いのに、こんなところまで来るなんて珍しい」
「名前なら、もう分かりますよ」
列車は、風景を振り払うように、逃げるように、走る。
『彼』の声は、哀しそうだった。
「そういえば、終点駅はどこだ?」
「最後なら、太陽です」
雨は、止まない。
「私は、逃げてきたのだが・・・君は?」
「わたしなら、逃げます」
「何から?」
「光から」
「雨はいつか止む」
「だから、逃げた」
「もう、時間切れか?」
「時間なら、壊れました」
「無制限だと聞いたのに、もう時間切れか?」
「制限なら、有効期限が切れました」
「君は、どうするんだ?」
「君なら、待ちます」
「なら、僕なら?」
「僕、なら・・・」
初めて、『彼』の言葉が止まった。
刹那、列車が大きく揺れた。
「もう、目を閉じます。待ちくたびれましたから」
「それは、逃避か?」
「逃避なら、君は怒ったし、僕なら、笑いましたよ」
車窓から視線をずらし、初めて『彼』は男を見た。
「悪かった」
「悪かったのなら、お終いです」
『彼』は男を見て、にこりと笑った。男の薄暗い緑の瞳が、『彼』の瞳とぶつかった。
「ずっと、待っていたのか?」
「待っていたのなら、僕は、今、笑いますよ」
「良かったよ。間に合って」
「間に合ったなら、君は怒らないで済みますよ」
「・・・降りようか」
「降りるなら、濁点は許しますが、半濁点は許しませんよ」
「変わらないな。変われなかったのか?」
「変われなかったのなら、泣きます。変わらなかったのなら、笑いますよ」
「行こう」
「行くなら、今度は二人で」
「ああ、二人で」
男は、『彼』に手を差し伸べた。
『彼』は、泣きながら、その手を掴んで、もう片方の手で目を乱暴にこすった。
「半濁点が零れたら、私は怒る」
「句読点なら許してくれると君は言いましたよ」
「詭弁だろう」
「詭弁なら、何故」
「それを、これから二人で見に行くんだ」
雨は、止んでいた。
「おかえりなさい」
「さようなら」