優しさの裏側
田舎の集落は、休みの日になるとやけに静かだった。
車を降りた瞬間、草の匂いと土の湿った匂いが混ざって鼻に入ってくる。
その家の前には軽トラが2台と軽自動車2台が止まっていて、縁側の障子は半分だけ開いていた。
母親は小さく息をついてから言った。
「ほら、あんたも入るよ」
僕は頷いたけど、足は少し重かった。何の話か、大体わかっていたからだ。
数日前の夜、母親が台所で電話をしていた。相手は親戚のおばちゃんだった。
声は小さかったけど、断片だけ聞こえた。
「・・・またなんけ?」
「そんな事あるがけ・・・」
その時点で、何となく察しはついていた。
居間に入ると、もう人が集まっていた。
座布団が円になって並べられていて、真ん中に急須と湯呑み。誰かが持ち寄ったチョコやかきやまがお盆の上に乗っていた。畳の上には、少し重たい空気が落ちている。
「来たけ」
親戚のおばちゃんが母親を見て言った。
「わざわざ、遠いがん、ごめんねぇ」
母親は軽く頭を下げた。
「いや・・・電話もろたし」
その奥に、その人は座っていた。
二十代の後半くらい。
僕は一瞬、綺麗な人だなと思った。
髪は肩の下まであって、黒くてつやがある。色が白くて、顔立ちも整っていた。近所のスーパーで見かけたら、普通に『綺麗なお姉さん』だと思うと思う。
けど。
どこか、少しだけ違和感があった。
背中を丸めて、膝の上で指をくるくる回している。爪の先をこすったり、指を絡めたり、同じ動きをずっと繰り返している。目はほとんど上がらない。
時々、急に小さく笑う。
けれど、その笑いは誰かと目が合ったからでもなくて、ただ思い出したみたいに、ふっと口元だけが動く感じだった。
その様子を、誰も特に気にした様子はなかった。
この家には、元々その人とおばあちゃんが住んでいた。けど、そのおばあちゃんは一年程前に亡くなっている。それからは、この人が一人でこの家に住んでいるらしい。
金沢のお兄さんの家に引き取ろうか、という話もあったらしい。
でも。
「うちはここに居る」
そう言って、本人が嫌がったと聞いた。当時は、へえ、くらいにしか思っていなかった。
でも今思えば。
無理にでも連れていけばよかったんじゃないか、とも思う。
その人は、近所のスーパーで掃除の仕事をしていた。集落の人達はみんな、その人の事を知っていた。だから、邪険にする人なんていなかった。自宅で採れた野菜を持っていったり、余計に買ったお菓子の一袋を持っていたり。そんな田舎のありきたりな付き合い。
ただ・・・誰も深く関わろうとはしなかった。
しばらく沈黙が続いてから、親戚のおばちゃんが口を開いた。
「・・・トキちゃん。あんた、もう一回言うてみ」
女の人は、少しだけ顔を上げた。目が合った瞬間、僕はちょっと驚いた。目だけは、子供みたいにまっすぐだった。
「・・・赤ちゃん、おるって」
その場の空気が止まった。誰もすぐには言葉を出さない。
母親が低い声で聞いた。
「・・・何か月なん?」
女の人は少し考えるように首をかしげてから言った。
「・・・たぶん、2か月か3か月くらい」
その言い方は、どこか曖昧だった。
畳の上に、また沈黙が落ちる。
親戚のおばちゃんが、深く息を吐いた。
「・・・これ、2回目やぞ」
その言葉に、女の人は何も答えなかった。ただ、また指をくるくる回していた。
僕はその時、初めて知った。一度目の時は、このおばちゃんが病院へ連れて行ったらしい。
つまり・・・おろしてしていた。湯呑みを持つ手が、少し震えていた。
部屋の隅で、蝉の声だけがやけに大きく聞こえていた。
親戚のおばちゃんが、ぽつりと言った。
「こんなん、このままにしといたら、また同じ事なる」
誰もすぐには否定しなかった。
僕はその輪の外に座っていたけど、その場の重たい空気だけは、はっきりわかった。
大人たちは、これから・・・『どうするか』を決めようとしていた。
●●
居間には、さっきと同じ重たい空気が流れていた。
湯呑みの中のお茶は、もうすっかり冷めている。
親戚のおばちゃんと、もう一人の年上の女性。母親はその人を「タカコさん」と呼んでいた。どうやら遠い親戚らしい。他にも何人かのおばちゃん達がいた。みんな座布団の上で、膝を崩したり、正座を崩したりしながら、同じ顔をしていた。
同じ話を何度も繰り返していた。
「ほんで、どうするが」
「どうするも何も・・・」
「このままってわけにもいかんやろ」
タカコさんが、湯呑みを持ったまま言った。
「もう2・3か月なんやろ? ほっとくわけにもいかんやろ」
「そやけど・・・」
別のおばちゃんが、小さくため息をつく。
「1回目の先生は、まだ居るがかいね」
「居るとは思うけど・・・」
「そやけど、また同じ事ってなると・・・」
「そやけど、この子がこのまま子ぉ産むってなったら、誰が面倒みるが」
「相手がわからんがやろ? どうにもならんやろ」
「そりゃ・・・」
誰も続きが言えない。
柱時計のコツコツって音がやけに大きく聞こえた。言葉は進むのに、結論はどこにも行かない。同じところをぐるぐる回っているだけだった。
その間、当の本人はずっと黙っていた。膝の上で指をくるくる回しながら、畳を見ている。時々、何か言おうとして口を開く。けれど、すぐに閉じてしまう。
視線は上がらない。
ただ、畳の縁の模様だけをじっと見ている。
居間の端で、風が少し障子を揺らした。紙がかすかに鳴る。
ふと、その人が顔を上げた。
僕と目が合った。
綺麗な人だな、とさっきも思ったけど、その目はやっぱりどこか子供みたいだった。
僕は、なぜか何か言わなくちゃいけない気がした。
「優しくしてもろたん?」
おばちゃん達の会話が止まった。
女の人は少しだけ首を動かした。
「・・・ん」
小さく頷く。
僕は、もう一回聞いた。
「そぉかぁ」
それだけ言ってから、少し考えて続けた。
「でも、そいつ優しくないげんぞ」
誰も止めなかった。
遮る声もなかった。
後で母親が言っていた。
あの時の僕は、亡くなった祖父にそっくりだったらしい。祖父は昔、村の揉め事の話し合いなんかで、静かにこういう言い方をする人だったらしい。
だからなのか。
誰も、子どもの戯言だとは言わなかった。僕は続けた。
「ほんとぉに優しい人なら」
少し言葉を探す。
「一緒に、腹に宿った子ぉ育てようって言うやろぉ」
誰も動かない。
「一緒に住もうって言うやろぉ」
その人の肩が、小さく震えた。次の瞬間、顔を伏せて泣き始めた。
声は出さない。
ただ、ぽたぽたと涙が落ちていく。
僕は、おばちゃん達の方を向いた。さっきから、ずっとしている話を思い出したからだ。
「見慣れん人、出入りしとったっけ?」
何人が顔を見合わせる。
「・・・?」
「子供できるくらいの頃」
その言葉に、おばちゃん達は記憶を思い出そうと首を傾げた。
「おらんと思うけどなぁ」
タカコさんも言う。
「見かけん男が出入りしとったら、ほんなもん、すぅぐ誰か気づくわ」
田舎はそういうところだ。よそ者が来れば、すぐ噂になる。
少し考えてから、一人のおばちゃんが立ち上がった。
「あたし、ちょっとキクコさんに電話してくる」
母親が顔を上げる。
「あの人なら、絶対見とる」
「待っとってよ」
おばちゃんは廊下へ出ていった。
すぐに、古い電話の番号を回す音がした。廊下の向こうから、切れ切れの会話が聞こえてくる。
「もしもし、キクコさん?」
「うん・・・うん・・・」
少し声が低くなる。
「・・・最近、この子ん家に男出入りしとらんかった?」
間が空く。
また声。
「うん・・・そうやろ?」
それから、受話器を置く音。
おばちゃんはすぐ戻ってきた。座布団に腰を下ろして言った。
「やっぱり、そんな人居らんて」
居間の空気が、また重くなった。
●●
居間の空気は、さっきよりさらに張り詰めていた。
大人達は、お互いの顔を見ながら言葉を探している。口には出そうとして、出せない。そんな微妙な間が続く。
僕は、じっとその様子を見ていた。
ふと思った。
「なら、ここに居っても不思議じゃない人が相手やねぇ」
その一言で、居間が一瞬止まった。タカコさんも、親戚のおばちゃん達も、顔がはっとなる。誰かが、ぽつりと呟いた。
「・・・アトキの家のサダハル・・・」
その名前に、女の人はびくっと肩を震わせた。
僕も小さな声で呟く。
「・・・当たりやね」
しばらく沈黙。
母親がそっと言った。
「それで、どうするがけ? 責任取って、結婚してもらうがん? 責任もよぅ取らんような男は、そもそもいらんと思うけど」
おばちゃんの一人が、昔の話を思い出すように小さく言った。
「一昔前なら、トキちゃん、こんだけ綺麗ながやし、二号さんって事もあったけど・・・」
別のおばちゃんも続ける。
「アトキの家なら、養えるやろうけど、今時なぁ・・・」
母親が、はっとして言う。
「ありゃ、結婚しとるん」
みんな、頷く。
女性は、膝の上で指を絡めながら、ただ黙って俯いている。でも、その瞳は何かを覚悟したみたいに光っていた。
居間に、再び重たい沈黙が落ちる。だけど、今度は少し、誰もが現実を受け止めた静けさだった。
●●
「じゃあ、トキちゃん。金沢のお兄さんの家に行く? それとも、ここにいるシンジョのカナイさんの所に行く?」
親戚のおばちゃんが、静かに問いかける。声は穏やかだったけれど、その奥には、これ以上の妊娠や中絶はもう無理だという重い意味が隠れていた。
畳の上に並んだ湯呑みから、冷めたお茶の匂いがかすかに立っている。
「うちは大歓迎やよ。部屋も余っとるし。気ぃ使う事ないげんよ。うちのばあちゃんもトキちゃんが来てくれたら、喜ぶわ」
カナイさんと呼ばれたおばちゃんが少し身を乗り出して言った。手を膝に置いたまま、優しく笑おうとしている。
「そやそや、カナイさんの所なら、仕事も変わらんくていいし」
別のおばちゃんも、頷きながら言う。
誰も強くは言わない。
けれど、どの言葉も同じ方向を向いていた。
女の人は、膝の上で指をくるくる回しながら首を横に振った。指先が落ち着きなく動く。指と指がこすれる、小さな音がした。
「家、変わるのは嫌や。ばあちゃんの家やし」
ぽつりと落ちた言葉に、居間の空気が止まる。
誰もすぐには何も言えなかった。かきやまに手を伸ばそうとしていたおばちゃんの手が、そのまま止まる。タカコさんは、湯呑みを持ったまま視線を落とした。
その言葉の重みに、誰も反論できなかった。
俺は思わず口を開いた。
「そやけど、またそいつ来るわ。優しいふりして。悪者じゃん」
言った瞬間、自分の声だけが妙に大きく聞こえた。
誰も笑わない。
誰も叱らない。
居間には小さなざわめきすら起きず、沈黙がますます深くなる。
柱時計が、カチ、と鳴る。
俺はさらに言った。
「もう一つ手ぇあるけど、聞くけ?」
誰も顔を上げない。
畳の上の視線だけが、少しだけ動いた。
「何?」
「そいつの方をどっかやる」
言い終わると、また静寂が戻った。誰も、『そんなこと出来るわけない』とは言わなかった。
柱時計の音が急にぼーんと響いた。母親がはっとしたように顔を上げ、窓の外に目を向ける。いつの間にか、空は薄暗くなっていた。
「もう帰らんとっ」
結論は出ないまま、俺達は自宅へ帰った。
夜道の空気はひんやりしていて、田舎特有の匂いが鼻に入る。
家に着くと、母親は父親から「遅い!」と小さく文句を言われた。
僕は眠い目をこすりながら、風呂も入らずそのまま寝た。
頭の中には、今日の居間の沈黙と、あの女性の震える肩の光景が残っていた。
・・・これは、あとで母親から聞いた話だけど。あの後、おばちゃん達は、アトキの家へ押しかけたらしい。
「うちじゃない」「帰れ」と追い返されたという。
ただ、その頃にはアトキの家にはもう後継ぎとなる孫も生まれていた。その息子はどこかへやったらしい。
嫁と孫は、そのまま一緒に住んでいた。
あの女性も、しばらくは一人暮らしをしていたけれど、最終的にはお兄さんが引き取って面倒を見たそうだ。
その事実を知ったのはずっと後の事。
あの夜、僕が見た光景と、母から聞いた現実が頭の中で重なったまま、しばらくは消えなかった。
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