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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

優しさの裏側

作者: 時司 龍
掲載日:2026/03/16

 田舎の集落は、休みの日になるとやけに静かだった。

 車を降りた瞬間、草の匂いと土の湿った匂いが混ざって鼻に入ってくる。

 その家の前には軽トラが2台と軽自動車2台が止まっていて、縁側の障子は半分だけ開いていた。

 

母親は小さく息をついてから言った。


「ほら、あんたも入るよ」


 僕は頷いたけど、足は少し重かった。何の話か、大体わかっていたからだ。

 数日前の夜、母親が台所で電話をしていた。相手は親戚のおばちゃんだった。

 声は小さかったけど、断片だけ聞こえた。


「・・・またなんけ?」

「そんな事あるがけ・・・」


 その時点で、何となく察しはついていた。


 居間に入ると、もう人が集まっていた。

 座布団が円になって並べられていて、真ん中に急須と湯呑み。誰かが持ち寄ったチョコやかきやまがお盆の上に乗っていた。畳の上には、少し重たい空気が落ちている。


「来たけ」


 親戚のおばちゃんが母親を見て言った。


「わざわざ、遠いがん、ごめんねぇ」


 母親は軽く頭を下げた。


「いや・・・電話もろたし」


 その奥に、その人は座っていた。

 二十代の後半くらい。

 僕は一瞬、綺麗な人だなと思った。

 髪は肩の下まであって、黒くてつやがある。色が白くて、顔立ちも整っていた。近所のスーパーで見かけたら、普通に『綺麗なお姉さん』だと思うと思う。


 けど。

 どこか、少しだけ違和感があった。

 背中を丸めて、膝の上で指をくるくる回している。爪の先をこすったり、指を絡めたり、同じ動きをずっと繰り返している。目はほとんど上がらない。

 時々、急に小さく笑う。

 けれど、その笑いは誰かと目が合ったからでもなくて、ただ思い出したみたいに、ふっと口元だけが動く感じだった。


 その様子を、誰も特に気にした様子はなかった。


 この家には、元々その人とおばあちゃんが住んでいた。けど、そのおばあちゃんは一年程前に亡くなっている。それからは、この人が一人でこの家に住んでいるらしい。

 金沢のお兄さんの家に引き取ろうか、という話もあったらしい。


 でも。

「うちはここに居る」

 そう言って、本人が嫌がったと聞いた。当時は、へえ、くらいにしか思っていなかった。


 でも今思えば。

 無理にでも連れていけばよかったんじゃないか、とも思う。


 その人は、近所のスーパーで掃除の仕事をしていた。集落の人達はみんな、その人の事を知っていた。だから、邪険にする人なんていなかった。自宅で採れた野菜を持っていったり、余計に買ったお菓子の一袋を持っていたり。そんな田舎のありきたりな付き合い。


 ただ・・・誰も深く関わろうとはしなかった。


 しばらく沈黙が続いてから、親戚のおばちゃんが口を開いた。

「・・・トキちゃん。あんた、もう一回言うてみ」


 女の人は、少しだけ顔を上げた。目が合った瞬間、僕はちょっと驚いた。目だけは、子供みたいにまっすぐだった。


「・・・赤ちゃん、おるって」


 その場の空気が止まった。誰もすぐには言葉を出さない。

 母親が低い声で聞いた。


「・・・何か月なん?」

 女の人は少し考えるように首をかしげてから言った。

「・・・たぶん、2か月か3か月くらい」

 その言い方は、どこか曖昧だった。


 畳の上に、また沈黙が落ちる。

 親戚のおばちゃんが、深く息を吐いた。


「・・・これ、2回目やぞ」


 その言葉に、女の人は何も答えなかった。ただ、また指をくるくる回していた。


 僕はその時、初めて知った。一度目の時は、このおばちゃんが病院へ連れて行ったらしい。

 つまり・・・おろしてしていた。湯呑みを持つ手が、少し震えていた。


 部屋の隅で、蝉の声だけがやけに大きく聞こえていた。

 親戚のおばちゃんが、ぽつりと言った。


「こんなん、このままにしといたら、また同じ事なる」


 誰もすぐには否定しなかった。

 僕はその輪の外に座っていたけど、その場の重たい空気だけは、はっきりわかった。

 大人たちは、これから・・・『どうするか』を決めようとしていた。



 ●●



 居間には、さっきと同じ重たい空気が流れていた。

 湯呑みの中のお茶は、もうすっかり冷めている。


 親戚のおばちゃんと、もう一人の年上の女性。母親はその人を「タカコさん」と呼んでいた。どうやら遠い親戚らしい。他にも何人かのおばちゃん達がいた。みんな座布団の上で、膝を崩したり、正座を崩したりしながら、同じ顔をしていた。

 同じ話を何度も繰り返していた。


「ほんで、どうするが」

「どうするも何も・・・」

「このままってわけにもいかんやろ」


 タカコさんが、湯呑みを持ったまま言った。


「もう2・3か月なんやろ? ほっとくわけにもいかんやろ」

「そやけど・・・」


 別のおばちゃんが、小さくため息をつく。


「1回目の先生は、まだ居るがかいね」

「居るとは思うけど・・・」

「そやけど、また同じ事ってなると・・・」

「そやけど、この子がこのまま子ぉ産むってなったら、誰が面倒みるが」

「相手がわからんがやろ? どうにもならんやろ」

「そりゃ・・・」


 誰も続きが言えない。

 柱時計のコツコツって音がやけに大きく聞こえた。言葉は進むのに、結論はどこにも行かない。同じところをぐるぐる回っているだけだった。


 その間、当の本人はずっと黙っていた。膝の上で指をくるくる回しながら、畳を見ている。時々、何か言おうとして口を開く。けれど、すぐに閉じてしまう。

 視線は上がらない。

 ただ、畳の縁の模様だけをじっと見ている。


 居間の端で、風が少し障子を揺らした。紙がかすかに鳴る。


 ふと、その人が顔を上げた。


 僕と目が合った。

 綺麗な人だな、とさっきも思ったけど、その目はやっぱりどこか子供みたいだった。

 僕は、なぜか何か言わなくちゃいけない気がした。


「優しくしてもろたん?」


 おばちゃん達の会話が止まった。


 女の人は少しだけ首を動かした。


「・・・ん」

 小さく頷く。

 僕は、もう一回聞いた。

「そぉかぁ」

 それだけ言ってから、少し考えて続けた。


「でも、そいつ優しくないげんぞ」

 誰も止めなかった。

 遮る声もなかった。


 後で母親が言っていた。

 あの時の僕は、亡くなった祖父にそっくりだったらしい。祖父は昔、村の揉め事の話し合いなんかで、静かにこういう言い方をする人だったらしい。


 だからなのか。


 誰も、子どもの戯言だとは言わなかった。僕は続けた。


「ほんとぉに優しい人なら」

 少し言葉を探す。

「一緒に、腹に宿った子ぉ育てようって言うやろぉ」

 誰も動かない。

「一緒に住もうって言うやろぉ」


 その人の肩が、小さく震えた。次の瞬間、顔を伏せて泣き始めた。

 声は出さない。

 ただ、ぽたぽたと涙が落ちていく。


 僕は、おばちゃん達の方を向いた。さっきから、ずっとしている話を思い出したからだ。


「見慣れん人、出入りしとったっけ?」


 何人が顔を見合わせる。


「・・・?」

「子供できるくらいの頃」


 その言葉に、おばちゃん達は記憶を思い出そうと首を傾げた。


「おらんと思うけどなぁ」

 タカコさんも言う。

「見かけん男が出入りしとったら、ほんなもん、すぅぐ誰か気づくわ」

 田舎はそういうところだ。よそ者が来れば、すぐ噂になる。

 少し考えてから、一人のおばちゃんが立ち上がった。


「あたし、ちょっとキクコさんに電話してくる」

 母親が顔を上げる。

「あの人なら、絶対見とる」

「待っとってよ」

 おばちゃんは廊下へ出ていった。


 すぐに、古い電話の番号を回す音がした。廊下の向こうから、切れ切れの会話が聞こえてくる。


「もしもし、キクコさん?」

「うん・・・うん・・・」


 少し声が低くなる。


「・・・最近、この子ん家に男出入りしとらんかった?」


 間が空く。

 また声。

「うん・・・そうやろ?」

 それから、受話器を置く音。

 おばちゃんはすぐ戻ってきた。座布団に腰を下ろして言った。


「やっぱり、そんな人居らんて」


 居間の空気が、また重くなった。



 ●●



 居間の空気は、さっきよりさらに張り詰めていた。

 大人達は、お互いの顔を見ながら言葉を探している。口には出そうとして、出せない。そんな微妙な間が続く。


 僕は、じっとその様子を見ていた。

 ふと思った。


「なら、ここに居っても不思議じゃない人が相手やねぇ」


 その一言で、居間が一瞬止まった。タカコさんも、親戚のおばちゃん達も、顔がはっとなる。誰かが、ぽつりと呟いた。


「・・・アトキの家のサダハル・・・」


 その名前に、女の人はびくっと肩を震わせた。

 僕も小さな声で呟く。


「・・・当たりやね」


 しばらく沈黙。

 母親がそっと言った。


「それで、どうするがけ? 責任取って、結婚してもらうがん? 責任もよぅ取らんような男は、そもそもいらんと思うけど」


 おばちゃんの一人が、昔の話を思い出すように小さく言った。

「一昔前なら、トキちゃん、こんだけ綺麗ながやし、二号さんって事もあったけど・・・」

 別のおばちゃんも続ける。

「アトキの家なら、養えるやろうけど、今時なぁ・・・」


 母親が、はっとして言う。

「ありゃ、結婚しとるん」

 みんな、頷く。


 女性は、膝の上で指を絡めながら、ただ黙って俯いている。でも、その瞳は何かを覚悟したみたいに光っていた。

 居間に、再び重たい沈黙が落ちる。だけど、今度は少し、誰もが現実を受け止めた静けさだった。



 ●●



「じゃあ、トキちゃん。金沢のお兄さんの家に行く? それとも、ここにいるシンジョのカナイさんの所に行く?」


 親戚のおばちゃんが、静かに問いかける。声は穏やかだったけれど、その奥には、これ以上の妊娠や中絶はもう無理だという重い意味が隠れていた。

 畳の上に並んだ湯呑みから、冷めたお茶の匂いがかすかに立っている。


「うちは大歓迎やよ。部屋も余っとるし。気ぃ使う事ないげんよ。うちのばあちゃんもトキちゃんが来てくれたら、喜ぶわ」


 カナイさんと呼ばれたおばちゃんが少し身を乗り出して言った。手を膝に置いたまま、優しく笑おうとしている。


「そやそや、カナイさんの所なら、仕事も変わらんくていいし」


 別のおばちゃんも、頷きながら言う。

 誰も強くは言わない。

 けれど、どの言葉も同じ方向を向いていた。


 女の人は、膝の上で指をくるくる回しながら首を横に振った。指先が落ち着きなく動く。指と指がこすれる、小さな音がした。


「家、変わるのは嫌や。ばあちゃんの家やし」


 ぽつりと落ちた言葉に、居間の空気が止まる。

 誰もすぐには何も言えなかった。かきやまに手を伸ばそうとしていたおばちゃんの手が、そのまま止まる。タカコさんは、湯呑みを持ったまま視線を落とした。

 その言葉の重みに、誰も反論できなかった。

 俺は思わず口を開いた。


「そやけど、またそいつ来るわ。優しいふりして。悪者じゃん」


 言った瞬間、自分の声だけが妙に大きく聞こえた。

 誰も笑わない。

 誰も叱らない。

 居間には小さなざわめきすら起きず、沈黙がますます深くなる。


 柱時計が、カチ、と鳴る。


 俺はさらに言った。


「もう一つ手ぇあるけど、聞くけ?」


 誰も顔を上げない。

 畳の上の視線だけが、少しだけ動いた。


「何?」

「そいつの方をどっかやる」


 言い終わると、また静寂が戻った。誰も、『そんなこと出来るわけない』とは言わなかった。


 柱時計の音が急にぼーんと響いた。母親がはっとしたように顔を上げ、窓の外に目を向ける。いつの間にか、空は薄暗くなっていた。


「もう帰らんとっ」


 結論は出ないまま、俺達は自宅へ帰った。

 夜道の空気はひんやりしていて、田舎特有の匂いが鼻に入る。


 家に着くと、母親は父親から「遅い!」と小さく文句を言われた。

 僕は眠い目をこすりながら、風呂も入らずそのまま寝た。

 頭の中には、今日の居間の沈黙と、あの女性の震える肩の光景が残っていた。




 ・・・これは、あとで母親から聞いた話だけど。あの後、おばちゃん達は、アトキの家へ押しかけたらしい。

「うちじゃない」「帰れ」と追い返されたという。

 ただ、その頃にはアトキの家にはもう後継ぎとなる孫も生まれていた。その息子はどこかへやったらしい。

 嫁と孫は、そのまま一緒に住んでいた。

 あの女性も、しばらくは一人暮らしをしていたけれど、最終的にはお兄さんが引き取って面倒を見たそうだ。

 その事実を知ったのはずっと後の事。

 あの夜、僕が見た光景と、母から聞いた現実が頭の中で重なったまま、しばらくは消えなかった。


読んでくださってありがとうございます(*_ _)

ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。

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