夜語りの娘に悪魔は焦がれる
昼過ぎまで穏やかだった村は、夜になると深い霧に包まれた。甘く絡みつくようなどこかひんやりした夜だった。
霧は風に揺れもせず、まるで村そのものを覗き込むように沈んでいた。
次の日、村はどこか不安に包まれていた。
井戸端では普段より声が低く、家と家の間に潜められた囁きが落ちていく。
リラは、自身もざわつく胸を抱えて胸の前で、祈りのように手を組むんだ。
霜の冷たさがまだ手の甲に残っている。
「それは大変ですね。お困りでしょう」
気がつけば、村の広場に黒いローブの男がいた。いつからいたのかわからない。まるで霧のような男だった。
フードを目深に被り。顔は見えない。
「不安によく効く薬があるのです」
男が手を動かすと、紅の酒が、ボトルのなかでキラリとゆらめく。光を避けて、それなのに内側だけが赤く灯るような不気味さがあった。
村人は酒を受け取り、帰っていく。その足取りは軽い。
リラは何故かその光景がひどく怖かった。男の視線は、こちらをじっと見つめている気がした。
その夜。トントンとノック。返事をする前に、扉が一人でに開いた。
「アラビアンナイトだ。娘、光栄に思え」
そこには、昼間、広場にいた男が立っていた。
しかし、フードを下ろしたその姿は__
「悪魔っ……」
「語ってみせよ。そうすれば、生かしてやろう」
人の形をした、人でないもの。
青白い肌、黒い髪に赤い瞳、整いすぎた顔に嗜虐的な笑みを浮かべている。
「どうした?」
悪魔は椅子に座り、とんとんと指で肘掛けを叩いている。
その律動が、鼓動を追い詰めるようで息が苦しい。
「私はラディス。感情を喰らう悪魔だ。語れぬのなら一息に喰ってやる」
リラは恐ろしさに震えながら、おぼつかない言葉で語り始めた。
「遠い昔のこと__」
ひとつ話し終えると、悪魔は満足そうに笑った。
「また来る。リラ」
「……っ」
名前を呼ばれて、リラの心臓がひとつ跳ねた。
恐怖と、なにか得体の知れないものが混ざる。
存外優しげな声で呼ばれた響きは、喉の奥に小さな火を残す。
「助かったの……?」
翌朝、村人の一部が寝ぼけたように笑っていた。「良い夢を見たと」同じ文句を口々に言う。焦点のずれた瞳で。
二日目、広場では男たちが集まり、同じ話題を繰り返していた。季節の話、天気の話、家畜の話。どれも内容は薄く、声だけが妙に明るかった。ざらつきが胸に残る。
リラは怯えながらその光景を見ていた。あの霧の夜から村は少しづつ壊れている。
夜になれば、また悪魔がやって来る。
夕暮れ、村の入り口にワイン樽が運ばれた。
中身が揺れるたび、腐り落ちる寸前の果実のような甘い匂いを漂わせる。
「ねえ、それどうしたの?」
リラは震える声で尋ねた。
村人は首を傾げる。
「おかしなことを聞くなぁ。いつも飲んでいるだろう?」
それで悟った。もうこの村は悪魔の手の中なのだと。
「飲めば怖くなくなるぞ」
「ああ、昨日よりいい気分だ。なぁ」
リラは飲まなかった。飲めば戻れない。それだけは絶対的な予感としてあった。
その夜、再びラディスは現れた。行燈の光がゆらめくたび、黒い影が壁をゆっくり這う。
「良い夜だ。聞かせろ」
「昨日の続きでも良いが、違う物語の方が……お前の恐怖は新鮮になる」
ラディスは椅子に優雅に足を組んで座る。
赤い瞳が、リラを見るだけで愉悦に細くなる。
リラが震えるほど嬉しそうに。美味しそうに。
リラは必死で物語を紡ぐ。
声が震え、息が喉でひっかかる。
語るたび、視線が舐めるように動く。
語り終えると、ラディスは指先でリラの喉に触れた。
吸われるような気配が一瞬だけ走り、すぐに離れた。
「今日はよく頑張ったな」
優しげな手が頭を撫でる。
褒められたようで、褒められていない。
ぞっとする甘さが沁みていく。
三日目、リラが広場に行くと、空になった盃が散乱していた。地面に広がった赤は、まるで血のように。
飲みすぎて倒れるもの。おかしな笑みを浮かべているもの。
子供たちですら、目だけ笑わず、狂ったように幸福そうだった。
昨日より、悪魔の気配が近い。
村の人が人間でないものに近づいていっている気がした。
理性は形だけ。それだけが人の形を留めている。
「リラちゃん、お酒をとってきてくれない?」
隣のおばさんの声がする。いつもより甘えた声。
「ごめんなさい」
扉を閉めた。例えもう戻れないとしても__自分があの悪魔におばさんを差し出したくはなかったから。
夜、ラディスはいつも通り行燈の光を揺らして現れた。
もう、悪魔の気配を覚えてしまった。
「なぁ、今日はどんな味の恐怖を聞かせてくれる?」
彼の声はやわらかい。
まるで恋人を誘うように。
リラは物語を紡ぐ。
息が続かなくても、涙が滲んでも。
語らなければ。崩れてしまう。現実が、日常が、そして命が。
ラディスはまるで甘い蜜を舐めとるかのような顔で聞いていた。
話が終わると、ラディスはリラの髪を指に絡めた。
まるで、恐怖の温度を測るように。
「……まだ綺麗なままだな」
「壊すには惜しい」
独り言のような呟き。けれど、その声には、熱が滲む。
見上げれば、ラディスの目には、昨日より深い熱が宿っている。
四日目、昼過ぎ、井戸のそばで倒れている男が見つかった。
息はある。
けれど、目を開けても、名を呼ばれても、反応しない。まるで魂の気配がないかのように。
「寝てるんだよ」
隣のおばさんは、陽気すぎる声で笑う。
その”朗らかさ”が一番怖かった。
狂っていく村。その中にリラはただ一人取り残されているような気がした。
正気のまま、悪魔に喰われる日を待っている。
広場では、乾杯の声、昨日まで酒を口にしなかった者たちも、無理やり飲まされ、声を上げて笑っている。
声だけが鮮やかに響く。まるで人形の群れのように。
リラは家の中に隠れるようにして膝を抱えた。
喉の奥が常にひりついて、何かを飲み込んでしまいそうになる。
夜。
ラディスはいつものように行燈の光を揺らして現れた。
外から響く笑い声は、もう人間のそれとは思えない。
「今日は、語れそうにない、か?」
リラが黙っていると、ラディスは軽く笑った。
その笑みは慈しみのように見えるのに、ぞっとするほど冷たい。
「いい。語れるようにしてやろう」
そう言って、リラの頬に驚くほど優しく触れた。
怖い。けれど、逃れられない。
リラは震える声で語り始める。
たどたどしく、ひたむきに。絞り出すように。
声が途切れそうになると、ラディスはまるで呼吸を手伝うみたいに喉元へ指を添えた。
恐怖が脈打つ。
ラディスは満足そうに目を細めた。
「……まだ壊れていない」
「お前だけは、まだ良い味だ」
意味はわからない。ただその瞳に執着の影が覗いた。
五日目、朝、村の広場に人が集まっていた。けれど会話は成り立っていない。言葉の端が抜け落ち、誰もが誰かの名前を忘れている。
倫理も溶け果て、怒鳴り声が響き、広場でまぐわいはじめる男女もいた。
夕暮れ、村の中央に灯りがともる。
まるで祝祭のような明るさだった。
誰もが笑い、泣き、酔いと狂気の境が消えている。
リラは耳を塞ぎ、震えた。
もうこの村は”喰いつくされて”しまった。
夜。
ラディスは静かにリラの前に立った。
いつもは余裕のある笑みに覆い隠されていた何かが、今日は露骨に滲んでいる。焦がれた熱、飢え。そして執着。
「語れ、リラ」
「お前の堕ちる音を__聞かせろ」
リラは言葉を連ねる。こんな世界の終わりの真ん中で、物語だけを命綱に。
けれど__言葉が止まる。
リラは、もともとただの村娘だ。大きな世界を知らず、五日も恐怖を語り続けることなど無理だった。
じんわりと瞳が潤む。
その顎をラディスがついと持ち上げた。
「なあ__呼べ」
心臓が跳ねる。息が止まる。
「私の名だ。わかるだろう。なぁ、早く」
リラの声を求めて。
焦がれるような響きがあった。
「……ラ……ディス」
その瞬間、唇に熱が触れた。
ラディスの赤い瞳が狂おしい熱をはらんでリラを間近で見つめている。
ぎゅっと抱きしめられた。全身を何かに貫かれたように震えが走った。
「お前の声で」
ラディスの指が頬をたどる。
「お前の瞳で」
涙の縁をなぞられ、
「お前の唇で」
囁きが、深く沈む。
「刻め。私をお前の物語にしてやる。
リラ__私だけを見ろ」
外では、名前を忘れた人々が笑っていた。
その喧騒は遠く遠ざかっていく。リラの世界は、ラディスに染められた。
ラディスに抱えられ、リラは村を飛び立った。村は笑い声と泣き声がぐずぐずに溶け、霧の底に沈んでいく。壊れてしまった、残響。
次の村に着いた夜、ラディスはリラを膝の上に抱き寄せた。高い丘の上から、村の灯がゆっくりと不穏な揺らぎを見せ始める。
「見ろ、リラ」
目を逸らすなと彼は言った。顎をそっと固定され、別の村が静かに壊れていく様を見る。ラディスの腕はあたたかく、それだけがリラを現実に縫い留めていた。
「怖いか?」
ラディスはリラの頭にやわらかくキスを落としながら、囁く。
「……怖い。でも……」
その続きは喉に引っかかった。
言葉にしてしまえば戻れなくなる。
ラディスは指先でリラの顎を持ち上げ、ゆるやかに微笑む。
彼の目は、初めて見た”色”を宿していた。
食欲でも嘲りでもない__もっと深いもの。
彼はリラを深く抱きしめる。何ものからも奪わせまいとするように。
「お前は、もう私を恐れていない」
否定しようとして、声に詰まる。
胸の奥が、別の感情で満たされている。
恐怖とは違う。
でも、愛と呼ぶにはあまりに深く。
暗くて、甘くて、逃げ場がない。
「なあ、リラ」
ラディスは甘やかすように名前を呼んだ。
その音の響きだけで、身体が震える。その震えは、もう、恐怖ではない。
「お前はもう、私のものだ。
この腕に安心を覚えるだろう?」
気づきたくなかった。だが__
リラはゆっくりとラディスに応えるように、ラディスの腕に、自ら腕を回した。
ラディスが片眉を跳ね上げ、ついで嬉しそうに笑った。
こつん、と額を寄せ合う。
「私、もう普通じゃいられないんです。……どうしてくれるんですか」
震える声で紡ぐ。ラディスの身体は、あたたかくリラを包み込んでいる。
「リラ。
お前は私の物語になれ。
そして__私の夜になれ」
彼の言葉は夜より甘く、リラはゆっくりと目を閉じた。
ラディスの胸に頬を寄せ、囁くように答える。
「……離れたくない」
その一言に、ラディスは目を細めた。
満ち足りた、危険な笑み。けれど紛れもなく優しくて、
「いい子だ」
腕の力が強くなる。リラは逃げず安心したように身を預けた。
崩壊する村の火が遠くで揺れている。
穏やかな夜だった。
二人の唇は、そっと触れ合った。




