3話 運命を奪う夜
僕は、静かに離宮の扉を開けた。冷たい夜風が、蝋燭の炎を揺らし、部屋の影を激しく踊らせる。この離宮は、母シルフィアが亡くなって以来、時が止まったように冷たく、王宮の華やかな喧騒とは完全に隔絶されている。その冷たい空気は、三年前に僕がすべてを失い始めた日の夜を思い出させた。
夜闇の中に立っていたのは、黒いフードを深く被り、その顔をほとんど隠した年配の女性だった。彼女は、王宮の使用人特有の豪華な制服ではなく、質素で使い込まれた地味な外套を纏っている。彼女の指先は、闇の中でも分かるほど、わずかに震えていた。その震えは、恐怖からか、それとも長すぎる待ち時間による緊張からか。
僕は、見覚えのない年配の女性に、なぜか懐かしさを覚えた。それは、母の傍に常にいた、名もなき忠実な影たちの集合体を見ているような、抗いがたい郷愁だった。
「シルフィア様……母上の侍女ですか…..」
僕が訊ねると、女性は深く頭を下げた。
「はい、エリオス様。私はリーネと申します。もう長いこと王宮を離れておりましたが、シルフィア様がお亡くなりになる直前まで、お傍にお仕えしておりました」
(リーネ。未来の記憶には、ない名前だ。僕が過去に戻ったことで生じた、**最初の『変化』**は、この女性か)
未来の僕の記憶に、彼女の名前はない。僕が過去に戻るという行為が、既に歴史の細部にまで影響を与え始めている証拠だろう。彼女がもたらすであろう情報、あるいは彼女の存在そのものが、未来の運命を変えるための**最初の『駒』**になるかもしれない。
僕が口を開くより早く、リーネは警戒するように周囲を見回し、急かすように言った。
「ここに長く留まるのは危険です。エリオス様、私、がここに参ったのは、シルフィア様から託された、**陛下宛ての『遺言』**をお渡しするためです。その中に、あなた様への最後の願いが記されております」
彼女の言葉は、僕の心を激しく揺さぶった。母の遺言。それは、僕が幼い頃に聞かされた**「誇りを持て」という言葉の、真の根拠かもしれない。前世では、王子でありながら、正妃派の陰謀によって命も未来も奪われた――それを取り戻す鍵となるのは、母上の遺志かもしれない。
しかし、僕は反射的にその手紙を受け取るのを拒んだ。
「待ってください、リーネ。なぜ、これまで沈黙を守っていたのに、今、僕の前に現れたのですか。母が亡くなって、もう三年も経っているというのに…」
僕が知る限り、前世の歴史では、母の遺言状は行方不明のままだった。そして、この離宮を訪れる者もいなかった。なぜ、この時間軸、この夜に、リーネは現れたのか。
リーネは言葉に詰まった。彼女の目には、僕の疑念に対する戸惑いと、隠し事を見抜かれた焦りが浮かんでいた。
「それは……わたくしにも、お答えしづらいことでございます……」
その隙を逃さず、僕は静かに、しかし有無を言わせぬ響きで切り出した。
「母上は、正妃派の目を逃れつつ、王国の未来を守るため、この離宮に重要な書類を密かに隠した、ということを」
僕が踏み込んだ瞬間、リーネの身体は硬直した。僕は、その瞬間、なぜ彼女が『今』現れたのかに気付く。
「リーネ、あなたは、この離宮の隠し場所と、**僕がそれを発見するまで、動いてはならないという『条件』**を、母上から託されていたのでしょう。そうでなければ、三年間も忠臣として沈黙を守ることはできなかったはずです。」
僕の言葉が、夜の帳を切り裂いた。僕は今、古書庫で契約書を見つけ出すという、前世では行わなかった行動に出た。それが、リーネが動くための**「引き金」**だったのだ。
リーネは、青ざめた顔で僕を見上げた。彼女の沈黙は、僕の推測が完全に正しいことを示していた。
リーネの動きが止まる。息を呑む音が、夜気の中でやけに大きく響いた。蝋燭の炎が激しく揺れ、彼女の影が壁に貼り付いたかのように硬直しているのが見えた。この静寂が、僕がこれから突きつける情報の重さを物語っていた。
「な、何を…何を仰いますか、エリオス様!それは、あまりに恐ろしい妄言でございます!」
「妄言ではありません」
僕は、懐から先ほど古書庫で見つけ出した契約書の控えを取り出し、蝋燭の光にかざした。紙面には、**『ヴァロア公爵家/建国記念日取引』**という文字が、赤みがかった蝋燭の光を反射して、はっきりと浮かび上がる。その筆跡は、母の信頼する書記官のものだった。
「この契約書は、表向きは公的な取引ですが、裏側にはバルド=ヴァロアが将来、公爵家の財産を私腹を肥やすために悪用する**『予備経費』の項目が巧妙に隠されている。そして、母上は、正妃エリサの真の狙いが、我が国の富を根こそぎ奪い、第一王子ユリウスを傀儡とする王国の乗っ取り**にあると知っていた」
僕が並べ立てた情報は、どれも王宮の深奥でしか知り得ない、極秘のものばかりだ。七歳の少年が、バルドの不正の詳細、正妃エリサの真の野望、そして「予備経費」という隠語を完璧に把握している。その事実は、リーネにとって、目の前で起こっていること全てが、常識では計り知れない異変であると告げていた。
リーネは、言葉を失って、契約書と僕の七歳の顔を交互に見つめた。彼女が最も驚いたのは、僕が**「叔父バルド」や「予備経費」**という、七歳の少年が知るはずのない、王宮の裏側の情報を完璧に把握していたことだろう。彼女の視線は、僕の知識が、単なる憶測や聞きかじりではない、確かな真実に基づいていることを理解し、戦慄していた。
「この契約書が、なぜ正規の王宮書庫ではなく、誰も近寄らない、この離宮の古い書庫に隠されていたのか。それは、母上が正妃派の監視の目を逃れるため、あなたを通して、ここに保管させたからではないのですか?そして、その上で、**『いずれエリオスが自力で真実に辿り着いた時、初めて動きなさい』**と、あなたに厳命した。そうでなければ、警戒心の強いあなたが、どうして僕が契約書を見つけ出した直後に現れるという偶然があり得る?」
僕の質問は、リーネが抱える過去の秘密と、三年間の沈黙の理由を、正確に射抜いた。彼女の顔に、諦めと、深い悲しみが広がった。彼女の瞳は、まるで、三年前にシルフィア様が亡くなった時の光景を、今再び見ているかのように潤んでいた。
「……その通りでございます。シルフィア様は、ご自身が長くないことを悟り、そして、陛下が正妃派の圧力に屈することを予期されていました。この離宮は、誰にとっても**『価値のない場所』だからこそ、最も安全な隠し場所になると仰せでした……そして、もし殿下が、この『価値のない場所』を顧み、ご自身の力で真実に辿り着く聡明さと覚悟を持たれたならば、その時が、遺言を託す時であると……。わたくしは、三年もの間、この離宮からわずかに離れた場所に隠れ住み、ただひたすらに、その『時』を待っておりました」
彼女は、僕の聡明さだけでなく、僕が**「母の遺志」を継ぐに足る存在であることを認めざるを得なかったのだ。僕が孤独に努力し、知識を盗み、行動を起こしたことこそが、彼女を動かすための、唯一の「鍵」**だったのである。
リーネは、フードを取り、顔を見せた。その目には、長年の忍耐と、主を失った悲しみが宿っていた。目尻の深い皺が、彼女が過ごした過酷な日々を物語っている。しかし、その瞳の奥には、新たな決意の光が宿り始めていた。
「エリオス様……わたくしは、シルフィア様の最期の願いを果たすため、ずっとこの時を待っていました。しかし、七歳になられたばかりの殿下に、これほどの知識と覚悟があるとは……これは、神の導きかもしれません」
僕は、契約書を懐に戻し、まっすぐ彼女を見つめた。
「知識は、孤独な離宮で僕が独学で盗み得た、僕の唯一の武器です。覚悟は、二度と君セリナを泣かせないと誓った、僕の血の誓いです」
セリナ――僕の最愛の人。前世で僕がすべてを失った時、彼女もまた正妃派の策略によって悲劇的な運命を辿った。その過去の記憶こそが、僕をこの過去の現実に繋ぎ止め、僕の力の源泉となっている。僕の孤独な闘いにおいて、彼女の存在は、唯一にして絶対の道標だ。
僕は、この侍女が持つ情報網が必要だ。僕の小さな体では、宮廷の隅々まで目を光らせることはできない。リーネは、母に仕えていたという経歴を持つ、僕にとって最も信頼できる**『内側の目』**となるだろう。
「リーネ。あなたが必要なのは、この契約書を陛下に届けることではない。陛下は今、正妃派の傀儡です。契約書を渡したところで、正妃エリサが動けば、陛下はそれを握りつぶすか、あるいは母上の名誉さえ傷つけるだろう」
僕の言葉は冷たいが、現実を正確に言い当てていた。今の父王には、正妃派に対抗する力も意志も残されていない。
僕は、この七歳の体で、未来の戦略を告げる。それは、僕が前世で為し得なかった、最も迅速で効果的な、「根絶やし」の計画だ。
「まず、この契約書を使って、ヴァロア公爵家のバルドの不正を、公爵自身に密告する。バルドは公爵位を継ぐための足場固めを急いでおり、正妃エリサの真の目的を知らないか、あるいは知っていても自身の利益を優先するだろう」
リーネは息を詰めた。公爵家内部の争いを利用するという発想は、並の人間では思いつかないものだ。それは、王宮の裏側で渦巻く権力闘争の構図を、完全に理解している者だけが立てられる戦略だった。
「我々は、バルドの行動を監視し、彼が正妃派とどのように結びついているのか、その裏のパイプを突き止めたい。あなたには、王宮の外にいる者たちへの接触も含め、そのための目と耳になっていただきたい。あなたは王宮を離れていた。その空白が、逆にあなたの動きを自由にする。あなたのネットワークは、正妃派の監視網の『死角』となるだろう」
僕の計画は、理路整然とし、一切の感情を排していた。それは、ただ勝利という結果だけを目指す、純粋な戦略だった。
リーネは、僕の計画を聞き終えると、ため息一つ漏らさず、ひざまずいた。彼女の顔には、迷いや恐れの色はなく、ただ主への、そして新たな主への、揺るぎない献身の決意だけがあった。
「かしこまりました。エリオス様。わたくしは、シルフィア様が命を懸けて守ろうとしたアドリエン王国の誇り、そして、殿下の命と誇りを守るために、すべてを捧げます。このリーネ、殿下の手足となり、血と影となってお仕えすることを誓います」
孤独な離宮の扉の向こうに、僕は、最初の**「仲間」**を得た。
契約書は、僕の知識を現実の力に変えるための触媒となった。そして、リーネは、その力を王宮内で実行するための、**最初の「手足」**となったのだ。七歳の王子の、静かな復讐劇が、今、始まった。
――建国記念の夜に始まった運命は、再び、静かに動き出した。




