第2話 幼き誓い
建国記念日の昼下がり、古びた離宮の一室は、外の喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。
僕――未来の記憶を持つ第2王子エリオス(7歳)――は、目の前の小さな少女と向かい合っていた。
泣き疲れて震えていたセリナは、僕が優しくその涙を拭い、**「君が誰であろうと、ここは安全だ」**と告げた後、僕たちはお互いに名前を名乗り合った。
「エリオス……アルドリエン……」
「セリナ=ヴァロア……」
わずか数分の交流だったが、孤独な離宮の王子と、迷子の公爵令嬢の間には、不思議な安堵の空気が流れた。その安心感の中、セリナは、僕の膝の上で、幼い子供特有の深い眠りに落ちてしまった。
七歳の僕の膝の上には、泣き疲れて眠ってしまった幼いセリナ=ヴァロアが、静かに頭を預けている。彼女の顔には、大粒の涙が流れた跡が生々しく残り、わずかに鼻をすすっている。
(……本当に、戻ってきたんだな)
僕は、自身の未来の記憶と、目の前にある現実とのギャップに、まだ現実感を持てずにいた。あの夜の血の臭いも、絶望的な追走劇も、すべてがまるで夢だったかのように消え去り、今、僕の傍には、この上なく無垢で、小さな、彼女がいる。
セリナの頬に、そっと指を触れる。細く柔らかい髪の毛が、手の甲をくすぐった。僕の手は、十二年後の宮廷政治で策略を巡らせ、時には剣を握った大人の手ではない。冷遇され、栄養不足で痩せ細った、七歳の少年の指だ。だが、その指先が触れるたびに、未来で見た**“凛とした公爵令嬢”**の面影が、幼い彼の顔に重ねてしまう。
「ああ……かわいすぎる……なんでそんな顔で泣くんだよ」
感情が制御できず、声が微かに震える。未来の彼女は、公爵家の崩壊を背負いながら、どれほど毅然と立ち続けたか。大貴族たちの面前で一歩も引かず、僕の無謀な改革案を常に論理で支え続けた、あの聡明な女性が。
「君はあんなに強く、美しくなったのに、こんな小さな顔で泣いてたなんて……ずるいだろ……」
僕は、衝動的にセリナの小さな体を強く抱きしめそうになり、ハッと我に返って動きを止める。
(いけない。これは五歳のセリナだ)
理性が警鐘を鳴らす。彼女はまだ、王国の腐敗や、叔父バルドの裏切りを知らない。ただの迷子の幼子なのだ。しかし、心の奥底で、未来の記憶を持つ僕は叫んでいた。
君を守るために、僕は戻ったのだと。
微かな物音で、セリナがゆっくりと目を開けた。彼女は瞬きを二、三度繰り返し、僕の顔を見上げて、すぐに無邪気な笑顔を見せた。
「……う、うん。さっきはごめんなさい……エリオス様の前で、泣いちゃって……」
「気にするな。泣くのは悪いことじゃない」僕は、前の人生で僕が言えなかった優しい言葉を、惜しみなく彼女に贈った。「公爵家の娘だって、辛い時は泣いていいんだよ」
セリナは、僕の言葉に驚いたように目を丸くし、それから少し俯いた。
「でも、パパが言ってたの。公爵家の娘は、どんな時でも誇り高くなければいけないって。泣いたら、恥ずかしいって……」
「……その“パパ”は、もう――いや、まだ、生きてるのか……」
彼女の何気ない一言が、鋭い痛みを伴って僕の心臓を突き刺した。未来の世界線では、彼女の父は八歳の頃に病で亡くなり、そのことが叔父バルドの専横を許すきっかけとなった。
この世界がやり直されたのではなく、「未来の僕だけが過去に戻ってきた」のだ。
つまり、過去の悲劇は、この世界線でもまだ生きている。彼女の父は、まだ生きているが、あと三年後には病に倒れ、セリナは叔父バルドの独裁に苦しむことになる。
(あの夜、泣きながら僕の名を呼んだセリナは、もういないのか……?)
僕が過去に戻ったことで、あの愛しい女性は、僕の未来の記憶の中にしか存在しない、“前の未来”の君となってしまった。僕は、未来を救えたわけではない。ただ、別の道を歩くもう一人の君を見ているだけなんじゃないか、という空虚感が、僕の七歳の胸を締め付けた。
その空虚感を打ち破ったのは、セリナの無垢な仕草だった。
僕が自分で淹れた冷めたハーブティーを、セリナはちょこんと一口飲もうとした拍子に、カップを傾けてしまった。「あっ」と小さく慌てて、彼女はハンカチで濡れたテーブルを必死に拭く。
その無垢で、しかし懸命な姿に、僕は内心で崩壊した。
(やめてくれ……そんな顔で見上げるな……)
セリナが成長して、どれほど気高く美しい女性になっても、僕にとっては**“この瞬間”の君の笑顔**こそが永遠の宝になるだろう。
「エリオス様……そんなに見つめられると、ちょっと恥ずかしいです」
「ご、ごめん。つい……」
(かわいすぎる。これは罪。神罰モノだ。)
僕は、笑うセリナの顔を見て、「何があっても、この笑顔だけは守り抜く」と再確認した。そして同時に、「この子がこれから味わう、父の死、叔父バルドの裏切り、公爵家の没落という運命を知っている」からこそ、胸が裂けるような痛みを覚えた。
僕たちは、建国記念日の喧騒が遠く響く離宮で、世界の中心にいるかのように時間を共有した。
すぐ隣で、セリナが無邪気に笑っている。
僕はそっと、彼女の笑顔を見つめた。この笑顔を、今度こそ守り抜けるだろうか。
(前の僕は、ただ君を守るだけで精一杯だった。王妃派の陰謀に気づきながら、権力を持たない自分に苛立ち、結局、君を犠牲にした)
僕は窓辺に立ち、夕暮れの空を見上げた。その時、隣にいたセリナが、ふいに目を輝かせた。
「ねえ、エリオス様。私ね、大人になったらお姫様みたいになりたいの」
エリオスは、セリナの髪にそっと触れた。その小さな願いが、彼の過去の後悔と、未来への冷徹な決意を呼び起こした。
「……ああ。君は、誰よりも立派な『お姫様』になるさ」
セリナは、その言葉に安堵したように、満面の笑みを浮かべた。
エリオスは、その笑顔に決意を込める。
「そして、僕は誓うよ。君が、誰にも奪われることのない、世界でたった一人の『お姫様』でいられるように、この国と、君の運命を、僕が全て変えてみせる」
陽が傾き、王宮の裏手にも夜の帳が降りる頃、その時間は終わりを告げた。
「セリナ様!どこにいらっしゃるのですか!」
公爵家の使いの者が、遠く離宮の入り口で叫んでいるのが聞こえる。公爵令嬢が迷子になったとなれば、王宮は大騒ぎだろう。
セリナは、僕の小さな手を握り、涙の跡のない、誇り高い笑顔で言った。
「私、帰らなきゃ。でも、エリオス様、また会いに来てもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。いつでも、君は僕の部屋に来ていい。誰も、君を責めたりしない」
セリナは、僕の言葉に深く頷き、別れを告げた。
彼女の小さな後ろ姿が、離宮の廊下の暗闇に消えていくのを、僕は見送った。
(これで、また孤独だ。だが、この孤独は、もう違う)
その夜、僕は、夜の帳が完全に降りた後、自室を抜け出した。
目的は、離宮の奥にある古書庫だ。
僕は、蝋燭の微かな光を頼りに、音を立てないよう廊下を進んだ。
(叔父バルド=ヴァロア。彼はセリナの父が亡くなった後、公爵権限を掌握し、家の財産を私腹を肥やすために悪用した。そして、王妃派と結託し、僕たちの破滅に加担した)
未来の記憶を辿る。叔父バルドは、すでにこの時点で、ヴァロア公爵家の商会資金に手を付け始めているはずだ。
彼の不正の始まりは、建国記念日に伴う、海外の大口取引の裏帳簿にある。
僕は、蝋燭の微かな光を頼りに、離宮の古書庫へ忍び込んだ。
学問を独学で続けたおかげで、七歳でありながら、難解な経済文書や外交文書の構成は理解できる。
僕の目標は、ヴァロア公爵家と王宮の間の「商業契約書」の控えを見つけること。
これには、バルドが今後悪用するであろう「予備経費」の項目が必ず含まれている。
(大人の知識を持つ子供の葛藤なんて、今、どうでもいい。僕の小さな体では、直接的な行動は取れない。ならば、情報と戦略で、未来を塗り替える)
埃にまみれた紙束の中から、探し求めていた分厚い契約書の控えを見つけ出す。
手にした瞬間、未来の記憶が確信に変わる。。
僕は、その証拠を慎重に懐にしまい込んだ。
その瞬間、部屋の扉がノックされた。
「エリオス様、いらっしゃいますか?」
背筋に冷たいものが走った。こんな夜更けに、誰がこの離宮に来るというのか。使用人ではない。警備でもない。
「私は、シルフィア様(僕の母)の元侍女でございます。お伝えしたい、大切なことがございます」
母の侍女?母は、僕が四歳の時に亡くなった。なぜ今、このタイミングで。
(未来の記憶にはない。これが、**僕が過去に戻ったことで生じた、最初の“変化”**だ)
僕は、静かに扉を開けた。夜風が入り込み、蝋燭の炎が激しく揺らめき、静かに暗転する。
その夜、離宮に**“母の侍女”**を名乗る女が訪れる。
――それが、運命を変える、最初の訪問だった。




