同じ世界に帰った日
暗闇。冷たさ。虚無。
感覚も、時間もない。ただ静寂が、じわじわと心を削っていく。
だがその虚無の中で、ゆっくりと——意識が戻ってきた。
消えたはずの「自我」が、再び身体を流れ始める。
あの処刑から、どれくらいの時が経ったのだろう。
五日?五ヶ月?それとも五年?
目を開けたとき、俺はまた、あの場所に立っていた。
果てのない空。限界のない床。穏やかな金色の光に包まれた空間。
この世ではない、死者か、もしくは選ばれし者しか辿り着けない場所。
そして、そこに立っていたのは、前と同じ姿だった。
白いドレス、銀色の輝く髪、底知れぬ深みを湛えた瞳。
アルメイダ。あの女神は……まだ俺のことを覚えていた。
「やっぱり、思ったより早く戻ってきたわね」
彼女は微笑みながら、そう言った。
俺は長い間彼女を見つめた。
目の前の存在が現実か、それとも崩れかけた魂の妄想かを確かめるように。
「俺は死んだんだな」
静かに呟いた。「それも……殺された」
「そうよ」
彼女は穏やかに答える。「そしてまた、ここに来たのね。レイ。
記憶と、傷と、復讐心を抱えて」
俺は深く息を吸う……つもりだった。
この場所で肺があるのかどうかも分からない。
「もう一度、生きたい」
そう言うと、彼女は静かに頷いた。
「前と同じ力が欲しいの?」
俺は首を横に振った。
「いらない。神の力なんてもう必要ない。
俺に必要なのは、帰る場所だ。
本物の、温かい、守りたいと思える家族がほしい」
彼女の瞳が柔らかくなる。
その一瞬だけ、彼女が人間の痛みを知る存在に見えた。
「分かったわ。今回は、特別な力も、
システムも、魔法の才能も、完璧な肉体も与えない。
でも——君が望んだ通りの肉体と、家族に生まれ変われるようにする」
彼女が手を掲げると、視界が光に包まれた。
「もう一度、最初から始めなさい。ただし、忘れないで。
二度目のチャンスに、代償はつきもの。
君の選択が、君の道を作る。——下から這い上がってみせなさい」
俺は小さく笑った。皮肉気味に。
「這い上がってやるさ。地の底から……空を蹴り上げるまで」
そして、全てが消えた。
——まぶしい光がまぶたを突き刺し、ゆっくりと目を開ける。
最初の呼吸が妙に違和感のある感覚だった。
まるで、肺が初めて働き出したかのようだ。
周囲には木造の天井、丸い窓から朝日が差し込む。
壁には乾かされた葉の香りが漂っていた。
俺はそっと起き上がった。身体は軽いが、明らかに以前とは違う。
ベッドの横に掛けられた小さな鏡を覗き込む。
新しい顔。十八歳前後。
乱れた黒髪、傷一つない肌。
だが、目だけは……あの時のままだ。死を知った目。
外から足音が近づく。ドアが静かに開いた。
中年の男が一人、静かな眼差しと整った姿勢で入ってきた。
その後ろには、優しげな微笑みを浮かべた女性が、食事の載ったお盆を持って立っていた。
「ようやく目を覚ましたか」
男が言う。「目を開けないんじゃないかと、心配していたんだぞ」
俺は彼らを見つめる。
心臓の鼓動が嘘をつかない——これは夢じゃない。
新しい父と母。俺が望んだ家族。
貴族でもない。権力者でもない。
ただ、王宮や陰謀とは無縁の、静かな高地で暮らす魔法研究者の夫婦。
俺は小さく頷いた。
「すみません……呼吸の仕方を忘れてたみたいです」
冗談まじりに言うと、父が小さく笑った。母もつられて微笑む。
「大丈夫よ。これからは、いくらでも呼吸できるわ」
その日、俺は再び生まれた。
レイ・アーンとしてではない。
元王国の密偵でもない。
あの裏切り女の夫でもない。
新たなレイとして。
そしてその日、俺は心に誓った。
この人生は、俺のやり方で歩んでやる。
焦らずに。誰の甘い笑顔も、もう信じない。
この世界が見たいというのなら——見せてやるさ。
レイは、帰ってきた。