女神の降臨
その夜——王都が燃え尽き、灰と骨だけを残した後、空はこれまで以上に黒く染まっていた。
まだ瓦礫を舐める炎は、もはや希望の灯ではなく、支配者たちの逃走路を照らす死の松明にすぎなかった。
黄金の馬車は石畳を軋ませながら進む。疲弊しきった馬たちは倒れそうになりながらも無理やり引かされていた。
みすぼらしい衣服に身を包んだ貴族たちは車内に押し込み合い、顔は蒼白、髪は乱れ、瞳にはただ一つの感情が宿っていた——恐怖。
王自らも最後部に腰掛け、かつては輝いていた王衣も今は血に汚れ、色褪せていた。
彼らが向かう先は「英雄召喚の地」。
古代の信仰を捧げた神殿が佇む隠された島である。
かつてその島は世界交易の中心であり、王国の祖先が声にすることすら憚られる存在を祀っていた。
今、その神殿は再び呼び起こされようとしている。——救いを求めて。
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王都に残された民衆は、遠ざかる馬車を虚ろな目で見送るだけだった。
止めようとする者はいない。心は砕かれ、失いすぎて、憎しみすら尽き果てていたからだ。
ただ絶望の囁きが、空気に残響するだけだった。
「……我らを置き去りに?」
「放っておけ。奴らもいずれ死ぬ。」
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崩れ落ちた塔の頂に、レイは静かに立っていた。
遠ざかる馬車を目で追い、唇に薄い笑みを浮かべる。
ヌエクスが耳元で囁いた。
「ハハハ……見ろよ、ボス。沈む船から逃げ出す鼠みたいだ。醜いが、実に滑稽だ。」
レイは淡々とうなずく。
「鼠は必ず新しい穴を探す。だがその穴も、結局は墓穴にすぎない。」
そして彼はふと呟く。
「……なあ、ヌエクス。時々思うんだ。まるで出来すぎた台本をなぞっているみたいに。お前はそうは思わないのか?」
ヌエクスは低く笑う。
「フッ……台本だろうが何だろうが、主演はあんただ。舞台はあんたのものだ、ボス。」
「最初から今まで……俺を怪物と思うか、敗れた英雄と思うか、あるいはただの落伍者と思うか……好きにすればいいさ。」
レイは微笑を浮かべた。
「だが忘れるな。これは偶然じゃない。俺が選んだ結果だ。」
その笑みはすぐに消え、彼は再び神殿の方角を見据え、歩を進めた。
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古代の神殿は黒き森の中心に佇んでいた。
枯れ果てながらも立ち続ける木々に囲まれ、ひび割れた石柱は未だに圧倒的な聖気を放ち、人々の胸を締め付ける。
祭壇の前で貴族たちは跪き、王は宮廷魔術師たちが描いた魔法陣の中心に立つ。
血が注がれ、古代語の詠唱が響く。空気が震え始めた。
「眠りし闇の女神よ——」
震える声で神官が叫ぶ。
「目覚め給え! 我らの呼び声を聞き給え! 王国を滅びから救い給え!」
その祈声は森の咆哮と混じり、反響した。
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そして——応答があった。
神殿の空を裂くように、白光が降り注ぐ。槍のように地を貫く輝き。
烈風が森を薙ぎ、枯れ木をなぎ倒す。
魔法陣は眩く輝き、魔術師たちの身体は次々と爆ぜ、門を開くための贄となった。
光の中から現れる影。
高く、優雅に。長い髪は光の海のように揺れ、顔は美しくも瞳は虚無を宿す。
その肌は柔らかな光を放ちながら、冷たき死の刃のような感触を孕んでいた。
「……女神、アルメイダ……」
王は涙を流しながら膝を折る。
アルメイダは無表情のまま彼らを見下ろし、声を発した。
それは幾つもの口から同時に響くような異様な声。
「……我を……呼んだのか?」
王は地に額を擦りつけた。
「はい、女神よ! 王国をお守りください! この命、この身のすべてを捧げます!」
女神の口元に微笑が浮かんだ。
慈愛ではなく、ぞっとするほど冷酷な笑みが。
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遠くから見守るレイの瞳が光を帯びる。
「……アルメイダが降りるとはな。」
ヌエクスが喉を鳴らす。
「知り合いか、ボス? 闇に潜む女神か? だが……どうやら贄を欲しているらしい。」
レイは沈黙を守り、ただ女神を凝視する。
そしてゆっくりと微笑んだ。
「……救済者の手で王国が滅ぶ。これ以上に美しいものがあるか?」
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アルメイダは光から一歩踏み出す。
足を進めるごとに大地は裂け、空気は震えた。
貴族たちは泣き叫び、王は喉を裂かんばかりに乞う。
「お救いください! 女神よ、どうか——!」
次の瞬間、女神は手を掲げた。
王の身体は宙に浮き、音もなく裂かれ、血潮が祭壇に文様を描いた。
貴族たちは悲鳴を上げるが、逃げることはできなかった。
その場すべては女神の威光に縛られていた。
「お前たちは——ただの贄だ。」
冷ややかな声と共に、一人また一人と塵となり、光の中に吸い込まれていった。
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レイは静かに立ち尽くす。
「……女神アルメイダ。」
小さく呟く。
「これは終わりか……それとも始まりか。」
ヌエクスが高笑いする。
「ボス、見ろ! これ以上の爆発はない! 血を渇望する女神を呼び覚ましたんだぞ!」
だがレイは笑わない。
その顔には、冷徹以上の何かが浮かんでいた。
「……結局、これは俺が創ったのか? それとも……もっと大きな舞台の歯車にすぎないのか?」
彼は低く呟いた。
「千の街を焼き、万の命を奪おうとも……俺自身すら、誰の手に操られているのか分からない。この世界か……それとも俺か。」
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アルメイダは両手を掲げる。
天には光が溢れ、森は震え、大地は裂け、人ならざる叫びが空を満たした。
レイは長くそれを見つめ——やがて薄く笑った。
「……なら、すべて崩れ落ちればいい。」
その夜。
女神アルメイダの顕現と共に、王都の悲劇は単なる滅亡では終わらなかった。
それは——より大いなる始まりであった。
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レイは瞼を閉じ、貴族の絶叫も、絶望の祈りも、世界の咆哮も一つに溶け合わせる。
そして一瞬だけ、確かに感じていた。
これは復讐の物語ではない。
これは——宿命だと。
彼は悔いたのか? 自覚したのか? それとも、さらなる奈落へ堕ちただけなのか?
誰も知りはしない。
炎と血と、女神の光の中で。
レイはただ、薄く笑んだ。
——すべてを漂わせるように。




