第9話:振り出しに戻る
二年目の記念日に、私たちは再びあのバーベキュー場へ行くことにした。提案したのは私のほうだった。私たちはどちらもバーベキューが嫌いだったし、ましてあの場所にいい思い出なんてあるはずもなかった。ただ、私の頭には漠然とある希望が浮かんでいた。あそこにもういちど行けば、なにかが変わるのではないか。あなたはなにか言いたげな表情だったが、出かけた言葉を飲みこんで、いいねとだけ答えた。
私たちはいままでなにを築き上げてきたのだろうか。たくさんのところへ行き、たくさんの言葉を交わし、たくさんの夜を過ごしてきた。けれど私たちはあの始まりの日から、なにひとつ進んでいないのではないか。前進するでもなく、後退するでもなく、ただ同じ所をぐるぐると回り続けた二年間だったように思う。私はついに薬のことをあなたに訊けず、またあなたも打ち明けてくれなかった。
「また変な道に入ってしまった」
あなたはカーナビの画面を見ながら悩ましげな顔をした。バーベキュー場へ向かう途中で、私たちは道に迷っていた。目的地の近くまでは来ているはずだが、ナビが壊れていてその先がわからないのだ。画面上で私たちはずっと森のなかを激走していて、いましがたついに川に飛びこんだことになった。
「そういえば、前に来たときはこのあたりで道路工事をやっていたわよね」
「そうだったかな。うん、そうだったかもしれない」あなたは右耳の少し上を掻きながら言った。「ねえ、スマホで道を調べてよ」
「調べようにも圏外なの」私は嘘をついた。
「本当に? 圏外なの?」
「本当よ。脇見運転になるから画面は見せられないけど」それから私はシフトレバーを握るあなたの手に、自分の右手を重ねた。「いい方法があるわ。私の言うとおりに進んで。次の十字路を右に曲がって、ひたすらまっすぐ進むの。で、その次の十字路をまた右」
あなたはハンドルを右に切った。後部座席に積んだ食料や飲み物が、ガタンという音を立てて揺れた。車は左右を擁壁に挟まれた小道を走り始めた。
「最高の天気ね」
助手席の窓を開けると、冷たい風が木と土の匂いを車内に運んできた。このあたりは昨日雨だったから、空気がまだ少し湿っぽかった。
「てっきりきみはインドア派だと思ってたよ」
「どちらかといえばね。でも、夏は別。夏は人を愚かにする」
言いながら、汗だくでホテルに滑りこんだ夜のことを思い出していた。
「じゃあ、山と海ならどっちが好き?」
突然の質問に、私はしばらく考えてから答えた。
「山かな」
「山には蚊がうようよいるよ」
「海にはクラゲがうようよいるでしょ」
「熊が出るかもしれない」
「サメが出るかもしれない」
「遭難する危険だってある」
「カナヅチの私は、離岸流に巻きこまれたら溺れて死ぬしかなくなるわ」
「わかった。山だ」
あなたは笑った。
「遭難したら、助けてくれる?」
私はあなたの手を強く握りしめた。
「もちろんだよ」あなたは笑った。「日焼け止めは塗った?」
「塗った。あなたは?」
「まだ」
「じゃあ、塗ってあげる」
日焼け止めのクリームを手のひらに伸ばし、あなたの顔と腕にべちゃべちゃと塗りたくった。あなたはむりやりお風呂に入れられた猫みたいにムスッとした顔でありがとうと言った。車が木陰に入り、フロントガラスに二人の姿が反射する。私は笑っていた。けれど瞳だけは泣きそうだった。いつもこうだ。自分の本心を理解していながら、素直に出すのが怖くてできない。かといって、隠しとおせるほど器用でもないから、どうしても滲み出てしまう。私は私の感傷を、あなたが自分から気づいてくれるのを待っていた。この二年間、ずっと待っていたのだ。
「きみはバーベキュー場になんて行きたくないんだと思っていた」あなたの声が私を目の前の現実に引き戻した。「そういう場所をいちばん嫌うような気がしたから」
「あなたもでしょ。どうして行く気になったの?」
「きみが行きたいって言ったから」
「嫌いな場所なのに?」
「きみが一緒なら、行ってもいいかなって思ってさ」
あなたはこちらをちらっと見て笑った。私はそのときあなたの瞳に宿っていた鈍い光を見逃さなかった。それはフロントガラスに映る私の瞳が持っていたのと同じ色の光だった。
車が何度目かの十字路を右に曲がり、開けた大通りに出た。あなたは左手にあるマイナーなブランドのコンビニを見ると、「なんだって」と声を上げた。
「ここ、ずいぶん前に通った道じゃないか」
「そうよ」
「いい方法ってこのこと? どうしてこんなところに案内したの?」
「迷ったときは振り出しに戻るのがいちばんなの。戻って、今度は別の道を選択する。そうすれば、いつか正解にたどり着ける」
私はスマートフォンの電源を切って、バッグのなかに放りこんだ。