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第8話:そういう強さを、あなたは持ってる


 なにはともあれ、とびきりのお洒落をしなければならなかった。ふだんはボーナスが出たときしか買わない店で服を買い揃え、ヒールも新調した。とにかく相手に失礼のないように。そのことだけを考えていた。


 同期の彼女からフィアンセに会ってほしいと言われたとき、私は職場の近くの定食屋で豚カツを頬張っていた。仕事帰りだった。


「どうして私なの?」


 私はカツを頬に詰めこんだまま言った。別に面倒くさいとか、ただ単純に会いたくないとかいうわけではなく、本当になぜ私なのかわからなかったのだ。


「あなたにたしかめてほしいの。私と彼がうまくやっていけるかどうか」

「無理よ。だって私には人を見る目なんてないし。それにもし、もしもよ。もし私がその人はやめたほうがいいなんて言ったとして、だからどうなるの? もうお互いの両親にも挨拶して、結婚式の準備までして、あなたたちの子どもはすくすく育ってる」


 私は彼女のお腹を指さした。その指先は空中でかすかにふるえていた。


「あなたがだめって言うなら、私、考えなおしてもいいわ」


 彼女はなかばすがるように言った。


 私は彼女と彼女のフィアンセの三人でテーブルを囲み、食事をする姿を想像した。私は笑顔で食事をしながら、どうしても彼のことが気になってしまう。目の下にくまが浮かんでいるとか、歯並びが悪いとか、声が大きすぎるとか、嫌な部分ばかりが気になってしまう。スープをずるずる吸う音に眉をひそめ、パスタのソースを襟元に飛ばすのを見て苛立ち、コーヒーの味がわからなくなるくらい砂糖を入れる姿に呆れかえってしまう。それから以前彼女が言っていたとおり、なんて頼りない顔つきなのだろうと不安になる。しかし、もしもそうだったとしてなんになるだろう。結婚しないほうがいいなんて口が裂けても言えるはずがない。


 ただ、実際に対面してみて、私の不安はまったくの杞憂に終わった。銀座のイタリアンレストランで紹介された彼女のフィアンセは申し分ないほどの好青年で、健康的な肌と綺麗に並んだ歯を持ち、落ち着いた大人の男の声をしていた。食事のマナーも私なんかよりよっぽど心得ていて、コーヒーはブラック派だった。それに彼女が言うほど頼りない男にも見えなかった。もしかすると、言葉の端々に滲む生来の優しさが、彼女には頼りなく感じられるのかもしれない。ならば、その頼りなさはやがて彼女にとって救いになり得る。そんな気がした。


 彼がトイレに立つのを見計らって、私は彼女に親指を立てた。


「本当? 本当にそう思う?」

「思う」


 家に帰るとふいに不安が押し寄せてきた。実はレストランで笑い合う二人の姿を見ていたときから、たとえようのない疎外感を味わっていた。別に一人で生きているわけではない。一緒に笑い合う恋人だっている。なのに、気がつくと胸のなかが孤独で埋め尽くされている。


 私はあなたと笑い合った記憶たちをかき集め、それらをつなぎ合わせて幸せというジグソーパズルを完成させようとした。けれどもどのピースも噛み合うことはなく、なんら付加価値を持たない一個の記憶としてしか存在しえなかった。急にあなたに電話をしたくなった。しようとして、やめた。あなたの番号を押しかけた指は、いつの間にか母の番号を押していた。


「もしもし。なんの用?」


 電話口の母の声は少し疲れていた。


「とくに用事はないの。ただ声を聴きたかっただけ」


 それから私はこの日にあったことのすべてを母に話した。彼女のフィアンセがどれほど素敵であったかはとくに力説した。そうしてひとしきり話し終えたあと、溜め息をついた。


「結局、他人の幸せを見せつけられただけの一日だった」

「ご苦労様。悪意のない自慢ほどやっかいなものはないわよ」


 母は同情するように言った。


「そうね。でも、彼女はいい子なの。ずっと友達でいたい」

「友達はなによりも大切だよ。旦那は捨てても友達は捨ててはだめ」

「お母さんが言うと説得力があるね」私は笑った。「彼氏とはうまく行ってるの?」

「もう別れたよ」


 まるで今日の献立を告げるかのような、なにげない口調だった。私は部屋の壁に貼ってあるカレンダーで母と彼の交際期間を数えた。四ヶ月だった。まだマシなほうと言えた。


「あれはクソみたいな男だった」


 母はそう言って舌打ちした。いつだったか、電話口からきこえてきた、「クソだ、クソだ」の声が耳の奥によみがえる。


「たしかにあの人はクソだったね。会ったことはないけど、そうだとわかる」私はベッドに飛びこんだ。「ねえ、お母さんはどうしてそう割り切った付き合い方ができるの? いちど愛した人と、そう簡単に別れられるもの?」


 すると、母は声を上げて笑った。


「簡単に別れられるなら、もっと早くにあの人と離婚してたよ」

「でも、いまは違う。お母さんのもとじゃ、男よりもスマホのほうが長持ちする」

「かもね。でも、だからって別れがつらくないわけじゃない」

「別れるときはいつも泣く?」

「そうね。でもすぐに立ち直る」

「私には無理。泣いたら泣きっぱなし。その先がない。ねえ、どうやったらお母さんみたいに強くなれる?」


 気づいたら泣いていた。どうしてこんなことを訊いているのだろうと馬鹿馬鹿しくなる。これではまるで、あなたと別れる準備をしているみたいだ。あなたとはもうすぐ二年になる。個人的には長く持ったほうだし、そろそろ結婚してもいいころだとは思う。けれど、あなたとの未来にはいつも靄がかかっている。私はその向こうにあるものを直視するのがおそろしい。


「人生の本質は孤独だよ」と母は言った。「どれだけ愛してると言っても二人の心が溶け合うことはないし、どれだけ寄り添い合っても二人の身体が一つになることはない。人間ってそういうものなのよ。だから別れは当たり前のこと。ただ本来の状態に戻るだけ。いい? 人生の本質は孤独。だからこそ、人は孤独に打ち勝つ強さを持ってる。そういう強さを、あなたは持ってる」



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